第39話 八重の芍薬座れば牡丹餅

 寿太郎と信乃が八重子の部屋の前に着くと、扉前に座っていた頼次はあからさまに嫌そうな顔をして扉脇に退く。


「義母さん信乃です。入りますよ」


 しばらく待っても返事はなく、信乃はもう一度扉を叩いてから中に入った。寿太郎も続いて部屋に入るとソファに座っていた八重子が機嫌悪く言った。


「勝手に部屋に入って非常識だわ! しかも犬まで持ち込んで。まったくひどい嫌がらせだわ! シッシッ」

 信乃が近づくと、八重子はまるで逃げるように深くソファに座り直した。


「お伺いしいたいことがあって参りました。毎月十円を一体何に使っているのですか」

「お前には関係ないわ。さっさと出て行きなさいよ」

 八重子は顔を背けながら着物の袖を払った。寿太郎は苛立ちを隠さずに言った。


「皓宇って名前、聞いたことあるか」

 八重子は居心地悪く身体を揺らし「知らないわ」と頭を振った。言いながらもどこか怯えたように目の端で信乃の動きを追っている。


「土地付きとはいえ解体する方が高くつくボロ屋敷の権利証で、八十円もの大金を貸すなんておかしいとは思いませんか」

「一時的な担保だって言ってたのよ。しばらく海外に買い付けにいくから当分お店を閉めると言っていたわ。それで須長さんは特別に割り増ししてくれたのよ」


 八重子の言い草に寿太郎は鼻で笑った。

「あんな奴の言葉を額面通りに信じるなんて、どうかしてる……ちょっと待て。あんた今、須長が海外へ行くって言ったか?」


「そうよ。貿易商なのだから外国に行くことだってあるでしょう」


 信乃が青い顔をして寿太郎を振り向いた。

「先生、須長は高飛びするつもりかも」


 寿太郎は信乃の腕を掴んで応接室を飛び出した。途中で寿太郎の手がすっぽぬける。信乃は廊下半ばで立ち止まっていた。

「何してんだよ先生! 早く行かないと権利証も帳簿も持ち去られてしまう」


「外国行きの船舶はそう多くありません。須長は恐らく週明けの便で横濱から密輸出品と一緒に出港すると思います」

「月曜まで待ってたら若溪に先に権利証を押さえられちまうぞ。この家にほとんど価値がないのなら燃やされちまう可能性だってある」


 寿太郎の説明にも信乃は立ち止まったままで、あろうことか廊下を引き返し始めた。

 驚いた寿太郎はカステラ入りの背嚢を前に抱え直して信乃を追いかけた。


 着いた先は大きな竈のあるお勝手だった。ジャリジャリと音のする薄暗い土間に目を凝らすと女中がささらで釜の底を擦っている。


「キヌさん。まだ居てくれて良かった」

「あら、信乃坊ちゃん。おやつなら今日は戸棚にぼた餅がございますよ」

「少しお聞きしたいことがあるんです」


 キヌは腰を伸ばして拳で叩くと、手ぬぐいを頭から外した。

「それなら隣の女中部屋へどうぞ。そうそう、ぼた餅を持っていきましょうかね」


 土間続きの女中部屋は一人で使うには広く、三人では少し狭い感じの板間だった。キヌは湯飲みに番茶を注ぐと二人の前に差し出した。


「それで坊ちゃ……旦那様はアタシに何を聞きたいのですか」

 寿太郎は気持ちを紛らわせるために湯飲みを手に取ったが熱すぎてまた床に置いた。


「母が生きていた頃、これくらいの小包を郵便局に持ち込みませんでしたか」

 その大きさから、翁がどこからか送られてきたと言った「瑞雲と白鹿」の事だろう。


「小包でございますか。確かに送りましたとも。平べったい包みでございましたね」

「宛先はキヌさんが書かれたのですか」

「アタシは読み書きは儘なりませんよって。大奥様がお書きになられてアタシは送り賃を支払っただけでございますよ」


 肝心の宛先が分からないでは確信には至らない。だが、送った人間が誰か分かった所で、今この時に聞く必要などあるのだろうか。

「そう言えば、大奥様は旦那様に見つからないようにって仰ってました」

 信乃は確信したように頷いた。


「ありがとう。あと義母……八重子さんはどこで父と知り合ったのかご存じですか」

 寿太郎ははっとした。信乃はもっと根本的な所を聞き出そうとしているのだ。


「アタシは誰かの紹介って聞きましたけども。旦那様は大奥様を亡くされてから酒浸りになられたのはご存じだと思いますが、ツケが溜まって懇意にしていた酒屋さんからも出入りを禁止されていましてね。良からぬ場所に出入りしては粗悪な濁酒やらを手に入れていたそうです。八重子様はそこで知り合った男に旦那様を紹介されたとかなんとか」


「良からぬ場所って、具体的にはどこだ?」

 寿太郎が聞くとキヌは斜め上を見上げた。

「はて、本所だか深川だか……河口近くの賭場に出入りしてたって噂でしたね」


 キヌの言う場所はかなり離れている。しかし、賭場とくれば須長や皓宇と関連がありそうだ。


「飲み代を賭けで稼いでたのか。須長と白茲は知り合いだったのか」

「分かりません。皓宇さんが須長さんに言われて賭場に出入りする前の話でしょう」

 二人が深刻な顔をしていると、キヌが遠い目をしてそういえばと話し出した。


「須長さんは坊ちゃんがお生まれになった時にお祝いを持ってお屋敷においでなすったきりですねえ。小洒落た舶来の産着で大奥様は大層お喜びでしたよ」

「そんなに昔に須長はこの屋敷に来てたのか」


 寿太郎の大声にキヌは驚いて箸からぼた餅を取り落としそうになる。

「ええ、須長さんは旦那様の画学校時代の同級生でございますからね。当然です」

 寿太郎が指を折って数えていると、それに気づいた信乃が説明した。


「私が生まれた頃はまだ父は画学校の学生だったんですよ。齢十七から二十六の間であれば入学できますから、当然妻帯者もいます」

「はい、左様でございます。しかし旦那様はその後、残念なことに学校をお辞めになってしまわれました」


 信乃はそれについては知らなかったのか驚いてキヌに尋ねた。

「父が帝国美術学校を卒業していない? まさか。その頃はまだ蓄えもあったはずです」


「いえ、学費の問題ではございませんよ。その時の事は新聞にも載ったくらいですし」

「新聞に載ったって事件でもあったのか」


 ぼた餅を食べ尽くしたキヌは手ぬぐいで口元を拭いて言った。

「アタシも又聞きですがね。卒業式だかの展覧会で騒ぎがあったそうで。東城のお坊ちゃまともそこで仲違いなさったとか」


 東城の名前が出てくるとは思わず、寿太郎は無意識に唸った。その事件が翁が須長を許さないと言った理由なのだろう。


「ありがとう。残りのぼた餅は差し上げますので今日は上がって頂いて大丈夫ですよ」

 キヌは大喜びで折り箱のぼた餅を包み直すと、途中仕事を片付けに台所に戻っていった。


 寿太郎は信乃と共に女中部屋を出ると、キヌに聞いた内容を頭の中で整理しようとしたものの、余計に謎が深まってしまった。


「色んな話を聞いてると段々こんがらがってきた。先生分かる」

「私も今ひとつです。二十年ほど前に父と東城伯爵、須長さんの間で何があったのか気になりますが、それを考えるのは後にしましょう。君は先に離れに戻っていてください。私は居間で探し物をしてから戻りますので」


 寿太郎はカステラの頭を撫でると、先に離れに戻ることにした。


 寿太郎が離れで待っていると、信乃は細長い白布の包みを持って戻ってきた。

 信乃はその布包みを後ろ手に帯に差し込むと「少しそこで待っていてください」と言って襖の戸袋をガタガタと動かし始めた。戸袋から引き出されたのは、紙の貼っていない骨太の障子のような引き戸だった。


 寿太郎が部屋の中からその様子を眺めていると、程なくして離れは頑丈な格子戸に囲まれた鳥籠のようになった。


「ああ、わかった。マダムがスケッチブックを持っていかないようにだろ」

「残念ですが違います。君をここに閉じ込めるためです」

 信乃は袂から取り出した鉄の錠を格子の金具に通すとガチャリと鍵を掛けた。


「えっ、ちょっと先生、なんでだよ!?」

「君はもう関わらない方が良いです。戻ってきたら開けますから、ここでカステラ君と一緒に大人しくしていてください」

「待ってくれよ。先生ってば!」


 信乃は鍵を柱の一輪挿しの中に入れると、寿太郎を一人残して出て行った。

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