第37話 青く天を描けば雷も落ちる

 離れは中庭を跨いだ渡り廊下の先にあった。


 信乃から聞いた感じでは、もっと辛気くさい部屋だと思っていたが外廊下に面していて明るく、ごく普通の和室だった。


 部屋中央には大きめの座卓テーブル和箪笥チェスト衣紋掛ハンガー押入れクローゼットが設えてある。


 暖を取る火鉢や小さめの水屋もあり、風呂や手洗い場から遠い以外はさほど不便はなさそうだ。

 右手を見れば奥にもふすまで仕切られた小部屋があり、そこも含めれば狭いという感じはしない。


 信乃しのは座卓を半分ほど脇へと退かして子犬を抱えておくスペースを確保すると、使い込まれた座椅子に座った。


 寿太郎も背嚢リュックを下ろして座布団に胡座をかいて腰を落ち着けた。

 子犬を背嚢に入れようと手を伸ばしたが、どうやら信乃の膝の上の方が良いらしく、あからさまに飼い主を無視してきた。


 信乃は子犬が大人しくしているのを確認してから、座卓に敷かれたフエルト製の毛氈もうせんの下から何枚かの画仙紙がせんしを台の上に広げる。

 続いて図案帳を置こうとしたが、卓上は既に一杯で信乃はしまったという顔をした。


「これではお茶も出せませんね」

「気にしないでいいよ。それより先にその図案帳スケッチブックを見てもいいかな」


 何を訊ねても良いとは言われたものの、寿太郎は念のため断りを入れてから気になっていた図案帳を指差した。


「ご自由にどうぞ。そのために君を座敷に上げたのですから」


 寿太郎は湿気でうねって幾分嵩が増した青い表紙のスケッチブックを手に取る。開くと古い紙の匂いに混じって微かに信乃の着物と同じ香りがした。


 寿太郎は瑞雲ずいうん白鹿はくろくと筆書きされた一ページ目から慎重に頁を捲っていく。


 そこには実際に制作された絵と全く同じモティーフが鉛筆や木炭、チョークなどの画材であらゆる角度から描かれていた。

 季節を跨いで移り変わる雲の表情や、上野の動物園で描かれたであろう蝦夷鹿エゾシカ素描デッサン、幾重にも重なる山の稜線や木々のそよぐ様、落ち葉の一枚一枚が丁寧に、時には色付きで鮮やかに残されている。


「そういや先生が洋食屋レストランで見せてくれた油絵ってまだ持ってる?」


 信乃は頷いてふすまに裏向きで立てかけてあった一枚のカンバスを引き寄せた。額装は外してあるものの、窓辺に置かれたきじを中心に無花果いちじくや杏が描かれた狩猟画は確かにあの時のものだ。


「これって先生が描いた絵だろ」

 寿太郎の質問に意表を突かれたのか、信乃は首を捻りながら頷くという奇妙な動きをした。


「どうしてそう思ったんです?」

 即座に聞き返した信乃に寿太郎は確信して頷く。


「この絵を最初に見た時、俺が探していた絵なんじゃないかって思ったんだよ」


「あの時、私は直ぐに絵に風呂敷を掛けました。それによくある静物画ですし、君の勘違いかもしれないでしょう」


 信乃は相変わらず訝しげな顔をしていたが、声音には僅かながらに好奇心を含んでいて、突き放した口調の割には非難の色を含んでいない。


「倉庫で探してた水彩画を見つけた時、色合いも画風も画材すら違ってるのに、やっぱり絵の雰囲気とか筆致がこの油絵と似てる気がしてさ、あれからずっと頭の隅に引っかかってたんだよ」


 信乃が油絵を持ち上げて少しだけ傾ける。少し黄ばんだ障子を通した柔らかな朝の光に照らされて絵の具のディテールが浮かび上がった。


 油彩と言ってもペインティングナイフを使って一気に絵の具を盛り上げるような技法ではなく、溶き油テレピンで薄く伸ばした絵の具を何層にも重ね、まるで水彩のように描かれている。


「できるだけ手癖を出さずに、ありふれた西洋画のように描いたつもりですが。よく分かりましたね」


 静物画は沢山の自然のモチーフが詰め込まれていて見応えはあるが、余程変わったモチーフでないと後々印象に残りにくい。だから静物画を選んだのだろう。


「そりゃ一度見ただけじゃ分からなかったよ。古典的な薄塗りスフマート技法だけど、この感じの狩猟画ってフランドル派とかブリューゲルとかその辺を手本にした?」


「ええ、昔一度展覧会で見たので。まあ、偉大な父親のばかりしていたあのブリューゲル兄弟の兄の方ですが」


 それはあまりに唐突な告白だった。寿太郎は片目をつむって顔を顰めると頬を掻いた。まさか信乃が自分から言い出すとは思っていなかったからだ。


「君は私が贋作を描いた本人だと、いつから気付いていたんですか」


 寿太郎は太腿を両手で何度も擦り身体を揺する。そして意を決したように両膝を叩くと、いきなり頭が畳みに付くほどに下げて言った。


「先生、ごめん。最初からなんとなく疑ってた」


 頭上で信乃がふっと笑った。

「聞いた私が野暮でしたね。でもその二点を私が描いたと分かったとして、横濱税関の『瑞雲と白鹿』を私が描いたと思った理由がわかりません」


「理由か……うーん。真作と贋作で最初に受けた印象が全然違ったから、かな。白茲の絵は闊達で大らか、悪く言えば奔放で大雑把な感じだけど、贋作の方は気負いっていうのか、張り詰めたような緊張感があって――その、見てて辛い感じがした。それと、あの水彩は真作に似てて贋作は油絵に似てた。悩んだのはそこなんだけど、ああもう、どう言えばいいんだこういうの――」


 とりとめなく喋ってしまった寿太郎は腕組みをして唸る。ただ直観的に感じただけで、何をどう説明していいか分からなかったからだ。


「――近しい者が描いた絵」信乃が後押しすると、寿太郎は目を開いて手を叩いた。


「そう、それそれ。ブリューゲル親子みたいな」

 信乃は一瞬顔を曇らせてから口元を緩ませた。


「翁の仰る通り、君の目は確かなようです。しかし、深山みやまはお抱え絵師の家系です。祖父には弟子も少なからずいました。似たような絵を描ける画家は他にも沢山いますよ」


 寿太郎は大きく首を振った。

「流石に絵の雰囲気だけで気付いたわけじゃないよ。他にもサロンや倉庫の先生の言動とか、どうも何か隠してる感じがしたし」


 寿太郎は図案帳にあるスケッチを数カ所指差した。

「確信したのはこの図案帳を見てからだよ。この辺り、モティーフの角度や形は真作とそっくりだけど、筆遣いや色合いは贋作の方に似ているだろ」


「そう言えば東城家の倉庫で君は新聞写真とモティーフの配置が違うことに気付いていましたね。でも、それも図案帳の複製さえあれば誰でも出来ることでしょう」


 信乃の言う通り新聞の荒い白黒写真の記憶だけでは細かな点を比べようがなくて、ただ位置が違うとだけ言ったのを寿太郎も覚えている。


「確証なんてないよ。ただ、実際に真作と並べて見たら一目瞭然だったんだ。広い範囲を塗った所の筆致タッチがまるで違った。多分だけどさ、広い範囲を塗る時は手早く塗らないと絵の具が乾いてしまうだろ、気をつけていても先生の言う手癖ってのが出てしまったんじゃないかなって」


 信乃は口元に力を入れ厳しい表情で寿太郎の話を聞いている。そんな信乃の緊張が移ったのか膝の上のカステラが前足を泳ぐように動かした。


「広い範囲、この場合は空なんだけど、贋作の方とこの狩猟画の窓から見える空の描き方はとてもよく似てると思う。白っぽくて多分どっちも日本の空だよ。ヨーロッパの空は低くて、もっと色がはっきりしてるんだ」


 寿太郎は片手を上げ、晴れた日のネーデルランドの濃い青色を思い出す。


「それにあの時、先生はお爺さんが集めてた絵だって言ってたよな。さっきも言った通りこの狩猟画の空はヨーロッパの空じゃない。恐らく日本人が描いた西洋画だ。あの時、先生は『無名の画家ですが』って言った。輸入される油彩画のほとんどは無名の画家だ。わざわざそんなことを言ったのは先生自身が自分をそう思っているからだろ」


 寿太郎の説明を聞いていた信乃は矢庭に声を上げて笑った。


「お手上げです。油絵を見せたのはほんの少しの時間だったのに、そこまで詳細に覚えているなんて、翁が手元に置きたがるわけです。でも、もっと確定的な事柄があるんでしょう?」


 寿太郎は頷くと図案帳を一頁目に戻した。


「贋作の裏に書かれていた題名タイトルだよ。どこにも出回っていないはずの『瑞雲と白鹿』のタイトルを知っているのは真作を持っているか、それを売った画商――は白茲はくじが自ら売ってたから除外するとして、他に考えられるのは翁に贈った誰かとだけだ」


 そこまで聞いた信乃は唐突に正座していた足を崩して背中から寝転がった。子犬を持ち上げて黒い小さな鼻先に顔を近づけると軽く揺さぶる。


「それでカステラ君は私を逮捕しますか?」

 寿太郎は図案帳を持ち上げてニヤリと笑った。


「税関の人が言ってただろ『本物と偽って売れば犯罪』だって。先生はだけだ」


「でも君はその後直ぐに自分で言ったじゃないですか『贋作は最初から意図して描いてる』って」


「全くどこのどいつがそんないい加減なことを言ったんだよ」


 お互いに顔を見合わせると、どちらからともなく吹き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る