第36話 禍も三枚寄れば用に立つ

「先生、まさか泣いてる?」


 信乃しのは手の甲に落ちた滴を着物の裾で拭くと俯いたまま言った。


「泣いてません。それよりこの金はどうしたんですか」


 賃銀は月末締めの翌月十五日以降に支払いが多い。もし寿太郎じゅたろうに給金が出ると言われたとしても、それでは到底借金の返済日に間に合わなかっただろう。


「どうしたって、ちゃんと支払ってもらった給金だよ」

「でもなぜ今……」


 借金の事は話したかもしれないが余りにも都合が良すぎる。


「ええと、レストランで飯食った時だっけ。油絵を質に入れに行ったって言ってただろ。でもあの時、先生は質草をそのまま持ってた。つまり、お金は借りられなかったんじゃないかなってずっと思っててさ」


 安堵して力の抜けた足では上手く立ち上がれず、信乃は寿太郎の目の前に手を差し出し催促するように振った。寿太郎は信乃の手を掴むと思い切り引っ張り上げた。


「それで丁度、翁が一日だけの仕事があるって言うから、信乃先生にも一緒に行って貰えばいいやって」


「それにしても付き添いの駄賃にしては多過ぎではないですか」


「若溪の分の迷惑料というか口止め料も入ってると思う。荒事があるなんて聞いてなかったし下手したらこっちが怪我してた。だから翁に文句を言って先に支払ってもらったんだよ」


「まさか伯爵に直接文句を言ったんですか!?」

「言った」


 和蘭陀オランダで寿太郎は理不尽な上官を殴りつけたと言っていた。自分ならそれがどんなに正当な理由だとしても保身を優先して動かないだろう。ただの無鉄砲なのか傑物なのか、こと寿太郎に関してはいつも想像の斜め上だ。


「君はもう少し、いやもっと世渡りを覚えた方がいいです」

「でも得しただろ?」


 少しも悪びれた様子もなく胸を張って笑う寿太郎に信乃は一気に力が抜けた。


「本当に君は勝手――いや、ありがとう寿太郎」

「え……?」


 信乃は意図が伝わらなかったのだろうと思い信乃はもう一度礼を言う。それでもまだ呆けた顔をしている寿太郎に信乃は踵を返すと門の木戸口を開けて言った。


「入らないんですか?」


 すると寿太郎はもじもじと身体を揺らし「不意打ちは心臓に悪いよ」と言って頭を掻いた。


 信乃はようやく寿太郎の考えていることに思い当たった。自分で名前を呼べと言っておいて意味が分からない。


「目の前に居ていちいち名前を呼ぶ機会なんてそんなにないでしょう」


 わざわざ対面で名前を呼ぶなどあまりないので気にもしなかったが、寿太郎にとってはそうではなかったらしい。あまりにもがっかりした顔をするので信乃は「分かりました。善処します」と加えた。すると、現金にも機嫌を直した寿太郎は今更ながらに訊いてきた。


「そう言えば、先生はこれから出掛ける予定だったんじゃないの」

「ええ。でも君は私に聞きたいことがあったのではないですか」


 信乃は折鞄の中から白茲の図案帳を取り出すと寿太郎の目の前に突き出した。


***


 子犬を連れた寿太郎は信乃の後に続いて玄関のガラリ戸を潜る。

 入って直ぐ、上がりはなに仁王立ちしている影があった。誰も慌てなかったのはそれが頼次よりつぐだったからだ。


 しかし、頼次の方は寿太郎の顔を見るなりたちまち顔色を無くして叫び出そうとした。後ろにいた寿太郎が何か言うよりも早く、駆け寄った信乃が頼次の口を塞いだ。


「頼次、静かにして。義母かあさんはどうしてる?」


 頼次は息が出来ないのか信乃の手を叩き続けている。信乃が自分の唇に人差し指を当てると頼次は目を白黒させながら何度も頷いた。


「母さんなら部屋にいるよ。出掛けるかどうかは分からない」

「ありがとう。しばらく部屋にいるから義母さんがどこかへ出掛けそうなら教えてくれ」

 頼次は口をへの字に曲げて不満げながらも頷いた。


 寿太郎が上がりかまちで草履を揃え終わった信乃に子犬を渡す。しゃがんで子犬の脚を一本ずつ丁寧に雑巾で丁寧に拭いている信乃に腰を屈めた頼次が耳打ちをした。


「まさか義兄にいさん。こいつに全部話すつもりなの」


 ひそひそ話にしては近すぎて聞こえない振りをするのも難しく、寿太郎はどうしたものかと困っていると信乃は声を落とすことなく言った。


「権利証を持ち出した時点でもうとっくに詰んでいるんです。今更何が変わるというのですか」


 信乃は疲れ切った声音で言うと母屋左手奥にある離れの方へと歩いて行く。

 寿太郎も遅れないように付いて行こうと歩き出すと、急にジャケットの裾が引っ張られてその場で仰け反った。振り向くと寿太郎より頭一つ分背の低い頼次が射殺しそうな目で睨んでいる。


「こそこそ嗅ぎ回りやがって義兄にいさんをどうするつもりだよ。逮捕なんてさせないからな」


「あのな、俺に逮捕権なんてあるわけないだろ」

「じゃあなんで来たんだよ」

「お茶に呼ばれたんでな」


 寿太郎が空惚けると頼次が膝で寿太郎の尻を蹴り上げた。思わず悲鳴を上げた寿太郎は、今度こそ頭に来て頼次に向かって言った。


「ああそうか、兄さんが逮捕されたら稼ぎ手が居なくなるもんな、そりゃ困るだろうなあ。だが、やなこっ――」


 頼次は歯を食いしばりながら見上げた目に一杯に涙を溜めていた。完全に毒気を抜かれてしまった寿太郎は力の抜けた手で頭を掻いた。


「分かったよ。先生の事はなんとかする。でも、お前の母親の方はまず無理だろう。それはいいのか」


「良くはないけど原因のほとんどは母さんだし。でも全て悪いわけじゃないと思うから、多少の温情があればそれでいい」


 頼次は母親を全面的に庇うと思っていたがどうやら違ったようだ。あんな母親でも実の息子には優しいのではと思っていたが、そうでもないらしい。それでも温情などという言葉が出る辺り嫌いではないのだろう。あまり報われていなさそうだが。


「わがまま放題だった俺が言うのもなんだけどさ。それを自分で考えて言ったんなら今は及第点だろ。そう言えばお前、歳はいくつなんだよ」


「なんだよ。二十三だぞ」

「俺と同い年だって? どうやったらそんなに無責任になるんだよ」


 寿太郎は驚きの余りつい言い過ぎたと思ったが、頼次も即座に言い返してきた。


「お前こそ! こんな無鉄砲で考えなしが同い年とかあり得ないだろ」

 寿太郎は天を仰いで十字を切りたい気分だった。


 つい先日、大人げない態度で父親に反抗した自分を反省したばかりなのに、頼次を見るとまるで鏡に映った自分を見せられているようで、寿太郎は何とも気恥ずかしいこの状況に耐えられず声を荒げた。


「その歳でお前それかよ。ちょっとくらいは自分で考えてみたらどうだ、頼次」


「勝手に名前で呼ぶな! ええと高村だったか、お前こそ礼儀もなっていないし少しは落ち着いたらどうだ!」


 上がり端で五十歩百歩な言い合いをしていると、廊下を戻ってきた信乃が無表情で二人の間に何かを挟み込んだ。


 カステラの太短い前脚が寿太郎の鼻を、ふさふさの尻尾が頼次の鼻をぽふっと塞ぐ。頼次は鼻先で揺れる尻尾のせいで盛大にくしゃみを連発した。


「静かにしなさいと言いませんでしたか」

「分かった、分かったから義兄にいさん。犬、退けて、へくしっ」


 立て続けにくしゃみをしている頼次は片手で犬の毛を払いながら後じさった。

 寿太郎は信乃がマダムは犬が嫌いだと言っていたことを思い出す。犬が嫌いというより毛や埃が駄目なのだろう。


「信乃先生って怒るとおっかないよな」

 寿太郎が信乃に聞こえないように呟くと頼次が手の甲で鼻を押さえながら睨み付けてきた。


「見た目で舐めてると痛い目に遭うぞ。義兄さんはあの『白茲』の息子だからな」

「どういう意味だ」

「教えてやる義理はないね」


 信乃は停戦した二人を見届けるとカステラを抱えて離れへと歩いて行った。


 次も絶対にカステラを連れて来ることに心に決めた寿太郎が離れに向かおうとすると、背後で頼次が待てと言った。

 立ち止まると背中で鼻を啜るような音がして、それから何やらぼそぼそと喋る声が聞こえた。寿太郎は少しだけ顔を横に向けた。


「悔しいけど……お前の言う通りだ。全部、義兄さんに任せっきりにしてしまった。僕がもっとしっかりしていれば良かった」


 寿太郎は片足を引いて半分だけ振り向くと小さく舌打ちをした。


「俺には細かい事情は分からん。けど、そんなのお前だけのせいじゃないだろ。ここまで絡まってしまった糸を無理矢理ほどいたって引き千切れるだけだ」


「ならどうしろって言うんだよ」

「そりゃ一本一本、解していくしかねえだろうな」

「そんな簡単に言うなよ……」


 仄暗い廊下で立ち竦む頼次を置いて、寿太郎は母屋から離れに続く渡り廊下に足を踏み出した。


「ほどくのが面倒ならいっそ捨てちまえばいいだろ」

 寿太郎は溜まった怒りを吐き捨てるように言った。


 朝の日差しは眩しく、渡り廊下の途中で振り向くと、中廊下にいるはずの頼次の姿は、まるで墨で塗り潰したように見えなかった。

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