第33話 横濱双子捕物帖

 耳を打つ波の音は次第に雷鳴のような音に変わっていった。


 薄暗い中で目を凝らす。緩い曲線を描く壁に手を這わすと振動が伝わってきた。雷鳴と思っていたのは波が船体を打つ音だったようだ。


 揺れる暗い船室で落胆した父が無言で見下ろしている。

 積み上げられた専門書、薄暗い船倉のランタンの明かり、鼻の奥にへばりつくようなディーゼルの臭い、不規則に揺れる身体。


 青黒く腫れた顔を腕で庇いながら同僚が床に倒れている。その周囲には同じように顔を腫らした男たちが、折れた腕や足を抱えて呻いている。


 握った拳から血がしたたり落ちる感覚。

 身体が傾ぐ、揺れが一層強くなった。


「――村君、そろそろ起きないと」


 目を開けると空が見えた。薄暗い船室ではない。


 ネーデルランドとは違う薄い色の空だ。どうやらベンチで寝てしまっていたようだ。


 起き上がった寿太郎じゅたろうは足下に置いたはずの絵が無いことに気付いた。慌てて立ち上がると、隣に座っていた信乃しのが「蹴飛ばしそうだったので」とベンチ横に置いた絵を軽く叩いて言った。


 気が抜けてへたり込んだ寿太郎に信乃が心配そうに顔を覗き込んできた。

「大丈夫ですか。汗びっしょりですよ」


 額を拭うと手の甲がじっとりと濡れていた。うたた寝が要らぬ悪夢を呼び寄せてしまったらしい。


「砂浜もないのに砂妖精ねむけに負けるとは。起こしてくれて助かったよ。そうだ時間!」


 寿太郎は強い海風に掻き乱される蓬髪ほうはつを片手で纏め、懐中時計を取り出した。

 寝惚け眼でぼんやりと時計を見てから、改めて見直した。


「もうこんな時間じゃないか! 若溪ルオシーは何をやってんだ」


 自分も寝こけていたのを棚に上げて寿太郎が文句を言うと、遠くから人の声が聞こえてきた。


 何やら知らない言葉で叫んでいるので、てっきり船に乗り遅れた乗客が怒っているのかと思ったが、叫んでいるのは見知った顔だった。


「あれ若溪さんじゃないですか。まさに噂をすれば影が差すですね」

 信乃が額に手を翳してのんびりと言う。


 寿太郎も目を細めて見た。寿太郎は自分の目がおかしいのかと思って目を擦った。何度見ても影は二つあった。

「どうやら前の人間を追いかけてるみたいだな」


 一体何をどうやれば、この短時間でそんな事態になるのだろうか。いよいよ近づいてきた所で若溪ルオシーがこちらに気付いて大きく手を振った。


「先生、今日は海が綺麗だなあ」

「あれ放っておくんですか」


 ――見ていない。俺は見ていないぞ。


「待ちなさい皓宇ハオユー! ちょっとそこの哥哥おにいさん、早くその男を捕まえて頂戴!」


 信乃は慌てて胸の前で両手を振ると、どうぞと寿太郎に手を差し出して譲った。仕方なく立ち上がった寿太郎は手を口元に当てて大声で言った。


若溪ルオシー! 捕まえるってどういう事だよ!」

「そいつが事件の張本人だからよ!」


 寿太郎と信乃は顔を見合わせた。


「信乃先生、危ないから離れてて。あ、そうだ。さっき初めて名字で呼んでくれたよな。せっかく友達になったんだし、これからは名前で呼んでくれよ」


 寿太郎がどさくさ紛れに言うと信乃は、

「誰が友達ですか。君が生き残ったら考えておきます」

 と無表情で言った。


「おう、絶対に約束な!」

 しっかりと指さし確認をした寿太郎は、走ってくる中国服の男の前に立ちはだかると軽く肩を回して歩調を整えた。


「そいつ洪拳ホンチュアンを使うから気をつけて!」

 若溪ルオシーが警告してくれたが初めて聞く言葉に寿太郎は耳に手を当てて聞き返す。


「何を使うって?」


 その僅かな間に寿太郎との距離を詰めた中国服の男は、直前で不敵に笑うと寿太郎の視界から忽然と消える。


 寿太郎の耳がほんの小さな風を切る音を捉えた。咄嗟に後ろへと飛び退しさった直後、寿太郎がいた顎の位置に男の掌が突き上げられた。


「うぉっ、危ねえっ」


 寿太郎は次の攻撃がくると思い両腕を正面で構えたが、男はそのまま寿太郎の脇をすり抜けて逃げようとした。


「こらっ無視するな、よっ!」


 寿太郎は男が逃げた方向をちらりと確認するとほぼ真後ろに鋭い蹴りを放つ。男は小石の様に転がって頭から地面に倒れ込んだ。


 背中を蹴られた衝撃で息が出来ないのか、男は身体を丸めて転げ廻っている。追いついた寿太郎は男の襟首を掴んでうつ伏せにひっくり返すと、そのまま背中に腕をねじり上げた。


 完全に腕をめられた男は足をバタつかせ藻掻いたが、寿太郎は遠慮無く腰の上に座ると男の腕をまとめ上げて自分のベルトで男の腕を後ろ手に拘束する。


「捕まえておいてなんだけどさ。こいつ誰?」


「来週、捕まえる予定だった私の双子の弟弟おとうと黄皓宇ファンハオユーよ」


 寿太郎には全くわけが分からなかったが、このまま男を放置しておく訳にもいかず、三人で話し合った末、皓宇は車に乗せて行くことにした。


「本当に助かったわありがと! ついでだけど車をここまで持ってきて下さらない?」


 若溪ルオシーが言うと寿太郎は一言「無理立てない」と言って車の鍵を投げ渡した。


「もう皓宇ハオユーの重しになってる必要はないわよ?」

「立ち上がるとズボンが落ちる」


 寿太郎が困ったもんだと腕を組んで言うと若溪は耳まで真っ赤にして走って行った。


「後で謝っておいた方がいいですよ。でもその状態は困りましたね。帯革ベルトの替わりになりそうな物があればいいんですけれど……」


 信乃はしばし考えると、おもむろに羽織の前を開いて帯に手を入れ、何やらごそごそし始めた。


「ちょ、ちょっと先生こんな所で何を!」


 慌てた寿太郎に信乃が帯の中から抜き取ったのは、紺地に白い献上柄けんじょうがら細帯ほそおびだった。


「これなら代わりになりませんか。博多織ですし丈夫ですよ」


 寿太郎が何気なくひょいと掴むと信乃がアッと声を上げた。掴んだ帯に残った温かさに驚いて咄嗟に手を離した。落ちる帯を慌てて取り返した信乃はパタパタと煽ぎながら憤然として言った。


「言っておきますけど、これは男締おとこじめですから。襦袢はだぎを留める腰紐ものじゃないですから!」


「ああ、そ……そうなんだ。なんかわからんけど、ごめん」


 帯を借りられなければ東京に帰るまでの間、寿太郎は絶えずズボンを片手で持ち上げている非常に情けない姿になってしまう。


 突然、押さえていた皓宇ハオユーが暴れ出した。


「背中でごちゃごちゃうるさい」

「お前日本語しゃべれたのかよ!」

「うるせえ。いい加減に退けよ赤毛野郎。お前には関係ないし俺を捕まえる権限なんてないだろうが! ――痛い痛い痛い!」


 寿太郎が背中で固定していた皓宇ハオユーの両腕を膝で押し上げると絶叫に近い悲鳴が漏れた。あまりに騒がしいので周囲を見廻してから寿太郎はハンカチを皓宇の口に巻いた。


「俺が、先生と、話してるの。お前の話は後。それと俺、内務省関係者だから」


 寿太郎がこれ見よがしに見せた名刺に皓宇が怪訝そうな顔をする。


「文部省って書いてるじゃねえか。文官だろお前」

「黙れ悪党。それは世を忍ぶ仮の姿。なぜなら忍――」


 ここぞとばかりに忍者を名乗ろうとした寿太郎は信乃に襟首を引っ張られてしまった。


皓宇ハオユーさん、本当に彼は内務省お雇いなんですよ。警察権限もある程度は持っています」


 寿太郎は内心で「逮捕権はないんだけどな」と付け加えるが、それでも皓宇ハオユーには十分な脅しになったようだ。


「帯なんて借りたら着崩れてしまうんじゃないのか」

 寿太郎も子どもの頃に浴衣を着せてもらったことはあるが、歩くだけで裾は広がり襟もだるだるになってしまった覚えがある。


「まだ角帯かくおびがありますし、洋装と違って多少着崩れた所でそれはそれで粋なものです」


 寿太郎は縦半分に折り畳んだ細帯を受け取ってベルト通しに通す。帯は固く結ぶのに苦労していると、信乃があっという間に結んでしまった。


「助かった、ありがとうな。この柄とか結び方は渋くていいな」


 信乃は横で結んだ帯をぐるりと後ろに回した。寿太郎は革ベルトと違った小洒落た感じがとても気に入った。


「浪人結びって言います。浪人っていうのは国許くにもとを離れて外国でふらふらしている人のことです」


「なんだかソコハカトナイ悪意を感じるんだけど」

「気のせいですよ、気のせい」




 横濱からの復路は若溪ルオシーが運転することになった。理由は後部座席に座らせた皓宇ハオユーを扉に近づかせないために両側から押さえつける必要があったからだ。


「若溪、運転しながら話せるか?」

「大丈夫よ。上野広小路までは信号がない一直線だもの!」


 若溪の不穏な言葉に車内に緊張が走る。信乃は若溪を刺激しないよう柔らかく言った。

「できるだけ安全運転でお願いしますね」


 若溪の運転が安定した頃、皓宇への尋問が始まった。

 寿太郎が右隣に座る皓宇の口からハンカチを取り払うと、途端に中国語で罵倒を浴びせた。


「お前ら俺様にこんなことしてただで済むと思ってるのか。暴行で訴えてやるぞ!」


 寿太郎は皓宇の口に捲いていたハンカチを指先で摘まむと悩んだ末に皓宇のベルトに差し込んだ。


 あまりの騒がしさに寿太郎はまた口を縛ろうかと思ったが、若溪の「皓宇、闭嘴おだまり」の一喝で解決した。


 急にしおらしくなった皓宇を寿太郎はニヤニヤと笑って覗き込む。

 前で縛り直された皓宇の手枷は自身のベルトに固定されて腕を持ち上げることはできず、両足は信乃と寿太郎の足首にそれぞれ括り付けられて足を上げることもできない。


「そんなに姉さんが怖いのに、どうして横濱まで逃げて来たんだ?」


 皓宇はぷいと反対側を向いたが、寿太郎とはまた違った信乃の冷たい視線を浴びてすっと正面に顔を戻した。


「とても失礼なことをされた気がしますね」

 信乃が膨れて言うと若溪がカラカラと笑った。


信乃哥哥にいさんごめんなさい。皓宇は先生って肩書きのつく人が苦手なのよ。昔から老師たちに怒られてたから」


姐姐ねえさん! 本当に勘弁してくれ。東京に戻ったら俺、あいつに殺されちまう」


 若溪は泣き言を言う皓宇の姿を後写鏡バックミラーで確認すると呆れ口調で言った。


「自業自得だわ。あんな男にいいように踊らされて、組織の面子に泥を塗った挙げ句、あんたを慕っていた部下の信頼も失ったのは全て自分のやった結果じゃないの」


 あけすけに内部事情を話した若溪に不安になった寿太郎は、運転席に身を乗り出して尋ねた。


「若溪、これ俺たちが聞いてもいい話なのか?」

「構わないわ。今日貴方が引き取ってきた絵にも関係していることだもの」

「何だって。この贋作と何か関係あるのか」

「厳密にはその贋作だけじゃないけど、日本の美術品を海外に流出させていた会社の経営者の一人よ」


 寿太郎は皓宇を振り返ってじっくりと見てみた。双子の若溪とよく似た端正な顔をしている。背は高く痩せ型だが、鍛えているためか優男という感じはしない。


「それじゃあ詳しく聞かせてもらおうか。東京までたっぷり二時間はあるからな」


 皓宇は寿太郎の無遠慮な視線に気圧されてシートに身を押しつける。

 急に車ががくりと止まった。寿太郎が窓から顔を出して見ると、前方に荷物満載の荷馬車が連なってのったりのったり横断している。


 交通整理の警察官が両手を振るので、若溪も手を上げて了承の旨を伝えハンドブレーキを引いた。

「はあ、休憩できるし良かったわ」


「そう言えば若溪さん、皓宇さんは上野が仕事場なんですよね。どうして横濱で見つかったのですか」


「ん? 今月頭からずっと行方不明だったのよ。でも昨日の夜、部下から横濱でそれらしい人影を見たって電報が届いたの。ああ、部下って言うのは――皓宇から聞き出す前に私たちの組織と事の発端を話しておかないとだめね」


 前方の馬車の調子では、通り抜けるのにかなり時間がかかりそうだ。若溪は助手席の鞄から茶を取り出して一息ついてから話し出した。

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