第34話 オフィリアの帳簿

「そうね。青幇チンパンは知ってるかしら」

 若溪ルオシーは目の前をゆっくり通り過ぎる荷馬車の列を眺めながら言った。


 寿太郎が判らないという雰囲気を精一杯顔に醸し出していると、信乃が会話を引き継いでくれた。


青幇せいほうですね。私も非合法的な事もやっている大きな外国組織としか知りません」


「大体合ってるけど、阿片アヘンや賭博、人身売買をやってるのは一部よ。海賊対策の荒事も請け負ってるから無法者の集まりみたいに言われてるけど、本来は水運系の職人団体なの。それでもうちは規律を守ってる方よ」


「武力は否定しませんよ。理不尽な力に対抗するには時に十分な力が必要になります」


 寿太郎は驚いた。てっきり信乃は暴力反対を唱えると思っていたからだ。そう言えば親父は深山家は武士の家系だといってた。寿太郎は信乃の落ち着いた白い横顔を見る。


 ――とてもサムライには見えないけどな。


「私の一族はファン家の傍系で極東貿易が中心。そこの高村公子ぼっちゃんとは競争相手よ」


「はっ、お前らが手当たり次第に日本の美術品を買い付けたから輸出規制が厳しくなって困ってんだよ」


 嫌味混りに言った寿太郎に若溪ルオシーがハンドルを軽く叩いて言い返す。


「失礼ね。私たちは正当な手順で手に入れてるの。それにあんた達だって――」


 加熱しすぎた会話を信乃が両手を挙げて止める。

「そこは日本でも制度の変更とか色々あってややこしいですから一旦脇に置いておきましょう。若溪さん続きをどうぞ」


 遠回しにたしなめられた寿太郎は車窓に肘を掛けて口を尖らせた。


「私と皓宇ハオユーは双子だけど、皓宇があの通りな感じだからか老太おじさまは私を次の総領に指名したの。拗ねた皓宇は日本人貿易商が持ち込んだ新しい事業の計画に乗った。それで投資の名目で組織から金を引き出して、案の定、お金だけ取られて捨てられたってわけ」


 寿太郎は思わず手で顔を押さえた。

 ――耳が痛すぎる。


「絵一枚売りさばけなかった俺より酷いな」

「大方、私に一泡吹かせられるとでも言われたんでしょ」

「うるせえよ! いや、姉さんじゃなくて。倍にする算段はあったんだよ……痛ぇ!」


 寿太郎は無言で皓宇の鼻を引っ張ってバチッと離した。痛さにじたばたと足を動かした皓宇と左足を繋いでいた信乃が引っ張られて顔を顰める。


面子メンツを潰された組織は皓宇ハオユーに戻る条件として、金を取り返すか貿易商を引き渡せと命じたわ。でも、ある男が上野で死んで弟の目算が狂った」


 入水自殺だと聞いていたが、どうも様子が違うようだ。信乃も同様に思ったのだろう。信乃は若溪ルオシーに訊ねた。


「不忍池の溺死体ですね。新聞には貸金会社社員としか載っていませんでしたが、あの男は一体誰なんですか」


 なかなか信号を渡り終えない馬車にイライラと指先でハンドルと叩いていた若溪ルオシーは、斜め後ろの座席の信乃しのに向かって笑いかけた。


 朗らかで色気のある若溪が笑うとそれだけで車内は華やかになったが、生憎と寿太郎じゅたろうはその笑顔のまま襲われた事があるので無意識に警戒した。


「信乃哥哥にいさんと初めてお会いした日、覚えていまして?」


「ええ。確か……スーチャン洋行商という店への道を聞かれました」


「それが皓宇ハオユーが出資した貿易会社よ。死んだのはそこの事務員で計算掛けいさんがかりの男よ」


 きな臭くなってきた話に寿太郎と信乃は顔を曇らせた。

「その男はどうして死んだんだ」

「それは弟弟おとうとに聞かないと分からないわね」

 若溪はバックミラーをちらりと見たが、皓宇は黙っている。


「ずっと逃げ回っていたこいつをどうやって見つけたんだ?」


「皓宇が身を隠していた賭場が通報されたのよ。でもかなり大きな賭場だったから上手いこと捜査から逃げたのね」


「賭場で見つかったって、まさか博打をしてたわけじゃないんだろ。金貸しでも紹介してたのか」

 寿太郎は何となくの想像で言ったが若溪は笑った。


「もっとたちが悪いわ。弟は高利貸しよ。賭場で負けが込んだ奴を見つけて借金まみれにさせるのが仕事」


 寿太郎が嫌悪感を露わにすると、信乃も辟易へきえきした顔で指で眉根を摘まんでいる。


「貿易商なのに高利貸しもやってたのか?」

「皓宇が運営していたのは子会社の質屋の方」

「出資者なのに子会社で勧誘紛いの事をさせられてたのか」


 あまりにも酷い扱いにさすがに寿太郎も同情を禁じ得ない。寿太郎が憐れみを込めて言うと皓宇が小さく舌打ちをした。


「通報されたってことは見つけたのは警察か?」

「ええ、警察と言っても翁の方の部下たちよ。日本国内では動きづらくて、それで東城大人トンチャンターレンにお力添えをお願いしていたの」


 表だって警察に協力を仰げば痛くもない腹を探られるのは組織としても都合が悪い。だから内務省ではなく翁個人の――内務卿の力を借りたということなのだろう。


 それが寿太郎が下宿に挨拶に来た初日、若溪が翁の部屋にいた理由なのだろう。


「で、皓宇を捕まえる代りに翁とどんな取引をしたんだ?」

 翁は抜け目がない。寿太郎たちにしたように若溪も何か取引を持ちかけられたはずだ。


「よく分かったわね。翁はスーチャンの行方を捜していたの。でも表向き真っ当な会社だから警察は動かせない。それで皓宇ハオユーの捜索をお願いする代わりに、我々がスーチャンに探りを入れることになったわけ」


「本当に食えないオッサンだな。でもそれだと皓宇だって何もしてないだろ」


 寿太郎の疑問に信乃が答えた。

「違法賭博なら賭場に居ただけで捕まります。だから君も迂闊なところへは行かないように」


「お、俺は行ってないからな。ん、信乃先生どうかした?」


 斜め上からのとばっちりに寿太郎が慌てていると、信乃は何やら深刻な顔をしていた。信乃は一つ頷くと若溪に声を掛けた。


若溪ルオシーさん。あなたはスーチャン洋行商の場所は事前に知っていたはずなのに、どうしてわざわざ私に道を聞いてきたのですか。……若溪さんを疑いたくはないのですが、もしかしてずっと私を見張っていたのですか」


 若溪はハンドブレーキを下ろすと「そりゃ気付くわよねえ」と軽く言った。クラッチが繋がりシートに振動が伝わってくる。交差点ではそろそろ最後の馬車が通り抜けようとしていた。


「百貨店前で合ったのは偶然よ。哥哥にいさんを付けていたわけじゃなくて、翁に言われて深山家を見張っていたの。私は哥哥の顔を知らなかったし」


 遠回しに引きこもりと言われた信乃は居心地の悪そうな顔をしたが、ふと何かに気がついたように身を乗り出して言った。


「私の自宅前で見かけたあの黒い車。あれはあなただったんですか。一体なぜ深山に見張りを――」


「それは皓宇に吐かせてからでもいいかしら。後ろの大きな人、さあ出番よ。溺死体の事を皓宇ハオユーに聞いて頂戴」


 エンジンが回転数を上げ車が大きな振動と共に走り出す。東京府までは未だ遠いものの、日も傾いてきて家路へと急ぐ人馬が増えてきた。あまり若溪の気を散らすのは危ないだろう。


 寿太郎は皓宇の口に茶を含ませた。せて溢れた茶を皓宇のベルトに挟んでいたハンカチで拭き取って言う。


「なんで俺が……ハオユーとやら。事務員を殺したのはお前か」

 寿太郎はいきなり核心を突く質問をした。


「ちょっと、もう少し聞き方があるでしょう!」

 若溪の文句を「面倒くさい」と一蹴し、寿太郎は運転席のシートに左肘を置いて皓宇の顎をがっちりと掴んで自分に向かせ目を覗き込んだ。


「え、どうなんだ?」

「誰がお前なんかに喋るか赤毛野郎……痛あっ」


 唾でも吐きかけそうな勢いで言った皓宇の額に寿太郎はごつんと額をぶつけた。


「お前、自分の立場が分かってるのか。優しい姉さんが庇ってくれてる内に正直に言わないと東京に着いたら牢屋に直行だぞ」


「ま、待ってくれ。本当に違うんだ。スーチャンが先に裏切ったんだ。だから俺は計算掛けいさんがかりのあいつに頼んで帳簿を持ち出してもらって、そしたらあいつ怖くなったのかギリギリになって止めるって言い出したんだ。それで揉み合いになって勝手に池に落ちたんだよ。本当だって!」


「そんな派手な口論なら誰かが聞いてるだろ。警察はどうして入水自殺で確定したんだ?」

 あの時、警官は自ら入水だと言った。


「なあ先生。警察ってそんなにべらべら捜査のこと喋っていいのか」


「まさか。そう言えば私たちにわざわざ言いましたね」


 信乃の言葉に皓宇がしたり顔で頷いた。

「スーチャンは地元の有力者とかと裏で繋がってて、死因なんて簡単にすり替えできるヤバい奴なんだよ」


 エンジン音が響く車内で微かな金属音が聞こえる。寿太郎が音の出所を見ると、皓宇のベルトの金具と手枷にしたベルトの金具が擦れ合って音を鳴らしていた。

 皓宇の尋常ではない怯えように、寿太郎はスーチャンという会ったこともない男に対して得体の知れない薄ら寒さを感じた。


 気持ち悪さの原因を考えていると、信乃がまた何かを考えている風だったので、寿太郎は身体を伸ばして声を掛けた。

「先生、もっと聞きたいとある?」


「先ほどからスーチャンって言ってますけど、その人は日本人なのですよね。どんな漢字を書くか分かりますか?」


 皓宇が指先で自らの太腿に文字を書くと信乃が息を呑んだ。


「す……なが……もしかしてその日本人貿易商って須長という男のことですか」


 信乃が運転席の若溪に問いかける。

「そう言えば日本人達はスナガって呼んでたわね。そいつ、上海ではスーチャンって名乗ってたのよ」




 東城屋敷の前で降りるなり寿太郎じゅたろう信乃しのはぐったりと車体にもたれ掛かった。


 多めに取った休憩の遅れを取り返そうとした若溪ルオシーがやたらと速度を上げたからだが、皓宇ハオユーだけは平然としていた。


 屋敷のある飯田町いいだまちへ戻ったため広小路交差点の信号機を越えずに済んで、当の若溪はすこぶる上機嫌だ。


 洋館の門前には執事の飯塚とかなり上背のある背広姿の見知らぬ男二人が立っていた。


「お帰りなさいませ。ファン様。翁からの指示通り担当員をお呼びしております」


「お手間を掛けました。この男がお探しの黄皓宇ファンハオユーですわ」


 若溪が手で示すと背広の男たちが皓宇の脇を素早く固めた。手際がい。警察官のようだ。

 いまいち状況が飲み込めていなかった皓宇は手錠を掛けられる段になって慌てた。


「助けてくれるんじゃなかったのかよ姐姐ねえさん!」


「誰も引き渡さないなんて言ってないわよ。良い子にしていれば老太おじさまが助けて下さるかもよ」


 皓宇はその後特に抵抗することなく警察の車に大人しく乗り込んだ。若溪は車が走り去った道をしばらく眺めていたが、特に表情を変えるでもなく飯塚の元へと歩いて行った。


「若溪さんは優しい人ですね」と信乃が言う。

「あれが?」


 寿太郎にとっては半日前に出会った男がまた直ぐにいなくなった程度の感覚で特段の感想はない。


「須長に追われているのなら二日間留置場にいる方が遙かに安全ですからね」

「あいつ、絶対詐欺とか美人局とかもやってそうだぞ」


 美人の若溪に似てかなりの色男ぶりだった皓宇がなんとなく気にくわなくて、寿太郎は難癖を付けた。あまりに斜め上の言い掛かりに信乃が笑う。


「彼は賭場で貸付けの商談をしただけですし、見つかった日は隠れていただけでしょう。余罪があるとすれば溺死体の件ですが、問われても過失か証拠不十分で不起訴じゃないでしょうか。むしろ皓宇ハオユーさんは被害者です」


「ああ、須長ってやつか。それも若溪ルオシーに聞けば分かるか」


 寿太郎は飯塚との打ち合わせを終えた若溪に気が付いて信乃に教えてやる。


 信乃は頷くと先に若溪に声を掛けた。

若溪ルオシーさん。先ほどの件ですが、なぜ深山みやま家を見張っていたのか理由を教えて頂けませんか」


「あら、覚えていらしたのね。いいわよ。でも立ち話ではちょっと困るわね。近くにおいしいお酒のある素敵なお部屋とか、ないかしらね」


 若溪が寿太郎の方を見て言うので、寿太郎は両手を上げて肩をすくめた。


「酔っ払いの世話はご免だが、粗茶ならご自由にどうぞ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る