第32話 横濱税関

「俺さ、日本に来る直前、兵役に就いてたんだよ」

 寿太郎じゅたろうはぽつりと言った。


「親父が勝手に兵役免除を上に取り付けてきてさ、それで喧嘩して勝手に入隊した。俺は別に親父の跡を継ぐことには反対じゃないんだ。ただ何やっても親父は満足してくれなくてさ。訓練とか上下関係は厳しいけどそれなりに上手くやってた」


 寿太郎じゅたろうは組んだ指を開いたり閉じたりしながら次の言葉を探す。


「ある日、同僚から絵を買いたいって言われてさ。俺は結構自由が与えられてた。恥ずかしい話だけど、それも親父が手を回してたらしい。知らずに調子に乗った俺は親父を見返したくて、そいつの取引を受けた。でもその絵が連隊内で賄賂に使われたのが発覚した」


 寿太郎はそこで一旦話を切った。信乃しのが口を挟もうとはしなかったので寿太郎はそのまま話を続けた。


「売った俺と仕入れた同僚、買った上官は王立保安隊――憲兵みたいなものだな――に呼び出しを食らった。そこで上官の取り巻きが俺の同僚に罪をなすり付けたんだ。それで俺はちょっと頭にきてそいつらを殴った。ついでに上官も殴っちまってさ」


「……殴ったのは良くないと思います。でも元はといえばその上官の賄賂でしょうに」


 寿太郎は曖昧に頷いた。

「上官は自分の問題を小さくするために更に大騒ぎをした。お陰で俺は重営倉じゅうえいそう送りが決定した」


「それっておかしいでしょう」

 珍しく声を荒げた信乃に寿太郎は肩をすくめた。


「理由はどうあれ殴ったのは事実。親父は俺の経歴が不名誉除隊で汚れるのを恐れてその上官と取引をした。訴えを取り下げろってな」


「お父上の気持ちは分かりますが……。もしかしてその上官には何か後ろめたいことがあったのですか」


「正解。上官が絵を贈った先の将校は、とある貴族にその絵をプレゼントする約束をしてた。なのに絵が王立保安隊に没収になってさ。当然、貴族はカンカンに怒った。部下に罪を擦り付けた上官は、今度は将校にそれをやられたんだよ」


蜥蜴トカゲの尻尾切りですか。自業自得ですが、どうやって事を収めたんですか」


 寿太郎はいつの間にか信乃が自分の方を向いて真剣に聞いていることに気付いて、少し意外に思った。


「親父は俺が絵を売らなかったことにした。面倒事を避けた軍もそれに乗った。親父が直接その貴族と取引をすることで事態の収拾は付いたってわけ」


 そこまで聞いた信乃は首を傾げた。寿太郎はそりゃそうだろう、この話はまだ終わっていないからだ。


「経緯は分かりましたが、それで君が日本に来ることがどうやって繋がるのか分かりません。君は私の絵を探しに来たんですよね」


「うん。兵役後に日本ヤパンに行くのは三年前からの約束だった。でも俺が無謀な取引をしたことで親父は激怒。謹慎を言い渡された。それなら船でやっても一緒だって言って親父に交渉してさ、それで船旅の一ヶ月、俺は船倉で過ごすことになった」


 ちょうど話が一区切りした所で扉を叩く音が響き、先ほどと同じ職員が布団で簀巻すまきになった物体を持って入ってきた。


「お待たせしました。こちらが収容した絵画です。早速、検分いたしますので真作の方もテーブルに出して頂けませんか」


 二つの絵は構図、色合いなどとても似通っていて筆遣いなどもそっくりだった。

 しかし、それは別々に見た時の印象で、こうやってきちんと並べて見比べてみると全く違う絵だった。


 強いて言えば同じ人間が同じモチーフで描いた――例えば「睡蓮」のような――連作というのが一番近いかもしれない。


 職員近づいたり離れたりして感心したように言った。

「これは……良く出来ていますねえ。うん、言われてみないとどちらが本物か分からないですよ」


「分からないのは困るよ!」と寿太郎が悲鳴を上げると職員は笑って両方の絵を裏返した。

 贋作の裏面には横濱税関の検収シールが貼られていて割印が押されている。


「おや、真作の方には裏書きがないですね。普通は裏に署名と題名を入れる作家が多いのですがね」


 職員の言葉に寿太郎はふと思った。

 ――待てよ。瑞雲と白鹿ってどこから出てきたタイトルだ?


 翁がタイトルを知っているのは送り主が付けてきたらしい真作の鑑定書にあったからだろう。

 では贋作は?

 一度も世間に公表されていなかった作品のタイトルはどこから付けたんだ。偶然同じタイトルを付けた?


「あのさ、このタイトルって――ああいや、それにしてもこの贋作もすごい作品だな。処分するのは勿体ないくらいだ」


 言いかけて誤魔化した寿太郎の言葉に職員が突然ソファから立ち上がった。何を言い出すのかと一瞬身構えたが職員はにこやかに言った。


「そうなんですよ! 私も常々思っていることなんですが、よく出来た贋作も保存するべきだと思っているんですよ!」


 大いに頷いて熱弁を振るう職員に、信乃が贋作の方をじっと見つめながら尋ねた。

「それは研究対象としてですか?」


「それも一つの理由ではありますが、これは私個人の考えとして聞いて下さいね。有名画家による先人の模写は美術館では展示されています。勿論、それを本物と偽って売るとこれは犯罪です。しかし、絵自体に何の違いがあるんでしょう。優れた贋作は管理した上で保管、もしくは展示するべきだと私は考えています」


「贋作自体は最初から人を騙す為に作られるものじゃないのか。アイデアのオリジナリティとかを掠めているんだぞ。贋作は犯罪でそこは揺るがしちゃいけないだろ」


 職員の言いたいことは分かるが、余りにも楽観的過ぎて税関職員失格な気もする。だが、職員は力強く拳を握って長広舌を振るった。


「無論、真作の権利は守られなければなりません。しかし贋作家の中には時にずば抜けた技量の作家がいます。彼等の作品をただの偽物として切り捨ててしまうのは惜しいと思うんですよ」


「あ、ああ……そう」

 寿太郎は勢いに気圧されてつい頷いた。


「贋作家とて最初からそうであった訳ではないでしょう。実力を誇示したい、金が欲しい等の何らかの理由があったはずなのです」


 寿太郎はまるで牧師の説教を聞いているような気分になってきて軽く眉間を揉んだ。


 寿太郎は贋作の方の「瑞雲と白鹿」を近くで良く見比べてみた。日本画は油絵より筆のタッチが分かり辛く、しかも没後何年も経っていない画家だけに和紙の劣化度合いもそう変わらない。


 寿太郎は絵全体を見回してから細部を一つずつ見比べていく。鹿の毛並みや雲の流れ、空や空間の表現……。


 それにしてもほぼ流通しておらず、幻とまで言われた作家の作品を手本もなしにここまで似せることが出来るものなのだろうか。


 ――図版もレゾネも無い絵を見たことがある人間は一握りしかいないはず。


 寿太郎は先ほどから頭の隅ににちらついて離れない答えを振り払う。


「売られる前に回収すれば贋作ではないってか? それだと職員さんの仕事とは相容れなさそうだがいいのか」


 寿太郎が軽口を叩くと意欲に満ちあふれた職員も「そこは仕事ですから。摘発はきっちりやりますよ」と笑った。


「そりゃありがたい。贋作が世に溢れたら俺たちの信用に関わるんでね。真作の値段は吊り上がっても、飯のタネが無くなっちまったら目も当てられない」


「これはまだ実現は難しいのですが、いつか贋作を集めた美術館なり博物館を作りたいと思っているんです。ですから文部省さんの側で引き取って頂けると聞いてとても嬉しいんですよ」


「ああ、お互い仕事が上手くいくよう祈ってる」

 そう愛想笑いで誤魔化すと、検分が終わった職員と握手を交わす。


 三度目の「しばらくお待ちください」の後、正式に引取り証を発行してもらった二人は税関を後にした。


 梱包し直された絵を寿太郎が二つとも持って若溪ルオシーとの待ち合わせ場所の県庁舎空き地へと向かう。


「案外早かったですね。それにしても贋作だけの美術館なんて、世の中には面白い考えの人もいるのですね」


 信乃はよほど感心したのか、その横顔は少し上気して、いつもより熱心に語っている。


「柔軟というより奇抜な考え方の人だったな。あの人のお陰であっさり引き渡してもらえたしな」


「全くですね。それはそうと、もう用事は終わったんですよね」


 そう言った信乃の顔には「もう帰りたい」書かれていて、寿太郎は苦笑する。

 ほどなく県庁裏の空き地に到着したが、そこにはまだ若溪ルオシーの姿はなかった。


「まだ戻ってきてないみたいだな。俺、弁当食べてねえからさ、景色でも見ながら待ってよう」


 寿太郎は内ポケットから紙束を取り出すと、その一枚に英語で書き付けて車のワイパーに伝言を挟み込んだ。


 一番の問題は絵を車に置いていくかどうかだった。潮風と日光に晒されるのと盗難を秤に掛けて、結局、持って行く事にした。


 少し離れた大桟橋の西側へと向かう。途中、添乗員に連れられた大荷物の客らとすれ違いながら、春荒れもなく穏やかな海岸線を歩く。


 しばらくすると丁度良い具合のベンチが据え付けてあり、そこで足を止めた。

「ここなら弁当が食べられそうだな」


 寿太郎が早速弁当を掻き込んでいると、白い制服を着た男が大声を張り上げながら走ってきた。

「サンフランシスコ行き天洋てんよう丸にお乗りになる方は急いで下さい! 間もなく出航です!」


「あの船はメリケン行きだったんですね」

「船の天辺てっぺんに掲げてある旗が行き先。今ならこっそり乗り込めそうだな」

「密航者は太平洋に放り出されますよ」


 驚いた寿太郎が振り向くと、信乃は笑いを堪えながら茶を啜っている。

「先生の冗談は笑えないって……」


 寿太郎は食べ終わった弁当を布鞄に片付けると、額縁を膝に立てかけて両手を絵の上端に乗せ、ぼんやりと海を眺めた。寿太郎は弁当を食べている間中、一つの事柄がずっと頭から離れずにいた。


 ――贋作は信乃先生が描いたのか。


 寿太郎が疑問を晴らすべきかどうかで悩んでいると信乃が心配そうな声を掛けてきた。


「どうかしましたか?」

「いや、船を見てたらちょっと家を思い出してただけ。先生はさ、旅行とか行ってみたくない? ヨーロッパとかさ」


「欧州のどこですか」

「どこって言われてもな。まずパリとロンドンは外せないだろ、、ネーデルランドならユトレフトとかデルフトも古い美術館や画廊が沢山あって町並みも綺麗だし、南のフランデレンとかもいいよ」


「フランドル絵画ですね。白黒図版コロタイプだとデティールまではよく分からりませんから実際に見てみたいものですね」

「だろ。この海の先にいっぱい色んな世界が広がってるからさ」

「この先は豪州オーストラリアですよ」

「いや、そういう意味じゃなくて」


 信乃は分かってますと言うと指先で中空の一点を差して左上へと辿るとトンと突いた。


「そうですね。陸路ならシベリア鉄道に乗ってウラジオストクから満州を越えてモスクワまで二週間で行けますね。汽車賃だけで三百円程かかりますが」


「げ、そりゃ高すぎるだろ。俺は船でいいや。先生よく運賃なんて知ってるな」


「遠足で旅程を組んだ時に他の先生方と盛り上がって興味ついでに調べたんです。残念ながら船旅も客室によっては陸路とそう変わりませんでした」


 父親の船団でやってきた寿太郎は欧州日本航路の運賃など気にしたことはなかった。しかし、それが簡単に工面できるような金額でないことだけは分かる。


「日本に来てから親父の凄さを嫌でも思い知る。向こうで大口叩いてた自分が馬鹿みたいだ」


 がっくりと肩を落とした寿太郎に、信乃は遠く水平線の先を見通すように言った。


「場所が変われば見方も変わるんでしょう。今気付いたのなら良かったじゃないですか。これから幾らでも挽回できますよ。考え方が変わるほどの体験……異国で見る空や海はどんな感じがするのでしょうね」


 桟橋に寄せては返す波を眺めていた寿太郎が顔を上げた。

「ただの与太話ですよ。いつか――」


 信乃の言葉は出航の銅鑼どらの音と見送りの歓声にかき消され、寿太郎の耳には届かずじまいだった。だが聞き直すのは野暮だ。寿太郎は船に向かって手を振る。信乃も一緒になって手を振った。


 その横顔を見ながら、寿太郎は税関で職員にタイトルについて質問をしなくて良かったと心から思った。


 岸壁を離れた客船が白煙を棚引かせて出港し、長い航跡を残したまま空と海の間に消えていく。大勢の見送り人も消え、波の音だけが海岸に残った。

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