第31話 三人寄れば旅も道連れ

「横濱って……汽車でも片道一時間は掛かるじゃないですか!」

 絶句している信乃に、寿太郎は親指を立てて笑いかけた。


「そんなに心配しなくても大丈夫だって。飛ばせば二時間も掛からないから」


 すると前のめりになりながら必死の形相で運転をしている若溪ルオシーが会話に割って入った。

「楽しそうな所悪いけど、もしかして私にずっと運転させるつもりなの!?」


万世橋まんせいばしの駅まで行ったら交代するって。それまでお願いな」と寿太郎が言うので「じゃあ、私もそこで降ります」と信乃も便乗して宣言した。


 信乃としてはどんなに楽しかろうが、この忙しい時に横濱まで往復四時間も使われてはたまったものではない。


「行った方が得だって言ってるのにまだ信用ないかなあ。旅は道連れって言うんだろ?」


「その旅の理由を聞いてないと言っているんです。それに時間のかかる車で行く必要はあるんですか。万世橋で国鉄に乗り換えた方が――」


 信乃の提案に寿太郎が前の助手席を指差した。そこには一抱え程度の薄い風呂敷包みがシートにくくりつけてあった。


「もしかして『瑞雲ずいうん白鹿はくろく』の真作ですか」


「そ、翁からの依頼で真贋の断定をしてもらう。終わったら両方持って帰ってくる予定。模倣品は一定期間が過ぎたら処分されちまうらしくてさ、あまり時間がないらしい」


 省庁関係で引き取るのか翁個人で引き取るのかは分からないが、恐らく鑑定書も持ってきているのだろう。


「では尚更、私が行っても意味はないと思いますが」

「まあまあ。これも水彩画の代金の内なんだし。それに小旅行だと思えば楽しいだろ」


 信乃は校長の付き添いで一度だけ車に乗ったことはあったが、かなり乗心地が悪かったこともあって、いい思い出はない。だがこのフォードは最新型なのか振動も以前より少なく快適だった。


 車は走り出してしまった以上、信乃には何もできることはなく、ただぼんやりと車窓から流れる景色を見ているしかなかった。


 西へ走る車が上野広小路の大きな交差点に差し掛かった時、突然若溪ルオシーが悲鳴混りの声を上げた。


「あれ何、あれ何!?」

 若溪が指さす交差点の真ん中に、制服を着た警察官が大きな看板の傍に立っている。

 信乃は看板にトマレの文字を見て慌てて叫んだ。


「ブレーキを踏んで下さい!」


 急制動した車は交差点に入る直前で止まった。直後、三人の目の前を車が横切っていく。


「これ以上無理! あんなの分からないわよ。降りる、運転代わって!」


 文字がカタカナで書かれていたため若溪には読めなかったらしい。信乃は安堵の息を吐きながらも頭を抱えた。


 ――降りたいのはこっちの方です。


 こんなに混雑した場所でいつまでも車を止めていれば大事故になる。信乃は身を乗り出すと興奮している若溪を宥めた。


「若溪さん、回転式信号はさっきの場所以外にはもうありません。ここから先は万世橋まで南に真っ直ぐ進めばいいだけですから、看板が裏返ったら直ぐに発進して下さい」


 幸い広小路を抜けると以降はさほど道は混雑していなかった。おっかなびっくりで走る車は神田川に架かる橋を越え、なんとか高架橋に隣接する赤煉瓦の国鉄万世橋駅に到着した。


 一旦、道の端に車を停めた若溪はそこで大きく息を吐いた。ハンドルを持つ手が心持ち震えている気がする。


「こんなことなら運転手を連れてくれば良かったわ。ありがとう信乃哥哥にいさん


「俺だったら本当に道連れになってたな!」

「怖いことを言わないで下さい。次の運転は君なんですからね」


 若溪の運転は危なっかしかったが丁寧だった。無駄に思い切りの良い寿太郎の方が遙かに危ないかもしれないと思うと、信乃はまた帰りたい気持ちで一杯になってきた。


 路面電車が縦横に走る駅前広場で運転を代わった寿太郎は、外れにある空き地に車を停め直した。そこで小休憩を取ることにした。


 全員が戻ると運転席に座った寿太郎は身体を捩って三人分の弁当と茶の入った土瓶を三つ後部座席の若溪に渡した。


「どうよ上等弁当二十五銭! 翁に小遣いもらってきたからな。遠慮無く食べてくれ」

「ありがとうございます。でも運転手は食べられませんよ」


 信乃が言うと寿太郎は急に静かになった。運転席を覗き込むとハンドルに頭を突っ込んでいる。


「いいよ……先に二人で食べてくれ……」

 走り出す車の中、信乃と若溪は遠慮無く折り箱の包み紙を開けた。


***


 三人を乗せた車は大森付近で休憩した後、横濱港には昼過ぎに到着した。


 寿太郎は通行の邪魔にならない場所に車を停め、エンジンを掛けっぱなしにして車を降りる。

 穏やかな春風に乗って強い磯の香りと、そこかしこに停泊している小型のディーゼル船の排気の混ざった独特な臭いが漂ってきた。


「久々に運転したら疲れた」

 腕を伸ばして凝り固まった肩を回していると、同じく降りてきた信乃が土瓶の蓋の湯飲みに茶を注いで寿太郎に差し出してきた。


「横濱港は初めて来ましたが随分と西洋化されているのですね」


 寿太郎は差し出された茶を飲みながら港を見廻してみる。一番大きな突堤には豪華客船が停泊し、その手前には巨大な玄能カナヅチ型クレーンが威容を誇示している。巨大客船の周囲にはお供のように係留された中型貨物船が整然と並んでいて実に壮観な眺めだった。


 一際目立つ豪華客船は黄金色の二つの煙突から煙を長く棚引かせ今にも出港しそうだ。


「俺も昼間に見るのは初めてだな。そういや親父が外国船籍の船は横濱にしか停泊できないって言ってたな。それでこっちの方が先に国際化が進んだのかもな。陸路の輸送代が余計に掛かるって親父が愚痴ってたけど」


「これでも開国当時に比べればかなり緩くなったらしいですよ。鉄道のない時代に長崎からだともっと大変だったでしょうね」


「長崎か、一度寄港したらしいけど降りられなかったな。ところでさ、税関ってどのビルなんだ」


 海岸通りには似たような赤い建物が並んでいる。寿太郎はいつも持ち歩いている名所案内図絵を広げて見比べてみた。すると直ぐに若溪ルオシーに地図を取り上げられた。


「あの大きな桟橋の右手に大きな建物が見えるでしょ。あれが税関よ」


「あのてっぺんが丸くなってる建物か? 結構近くじゃないか――おい!」


「私はしばらく車はいいわ。先に行ってるわよ」

 若溪は寿太郎に地図を突き返すと、ふわふわとした足取りで歩いて行く。


「あれ、車酔いじゃないか。先生、若溪に付いててやってくれ。俺は車を停めてくる」


 寿太郎は急いで後部座席から信乃の鞄を取り出して渡すと信乃が「君も変な人に付いて行かないで下さいよ」と返してきた。

「子どもかよ!」


 寿太郎は県庁舎横の空き地に車を停めると、肩掛け鞄と絵を持って税関庁舎の玄関にとんぼ返りした。

 しかし、そこには誰も居なかった。

「まったく、どこへ行ったんだよ」


 寿太郎が税関のホールでうろうろしていると、背後から聞き覚えのある声が掛かった。


「寿太郎、お前こんな所で何をやっているんだ」

 振り向くとそこには寿太郎の父、高村重雄しげおが手に封筒を持って立っていた。


「お、親父!? どうしてここに」

「親の仕事を忘れる奴があるか」


 縞柄の黒スーツに派手な蝶ネクタイで商売人というよりジゴロのようだが、この男は貿易商だ。


「翁の仕事で鑑定資料の提出と引き取りだよ」

 寿太郎はさっさと話を終わらせようと手短に言う。すると、どこかへ消えていた二人が戻ってきた。


「どこへ行ってたんだよ。便所なら先に言えよ」

姑娘レディにそんなこと聞くかしら! ほんと失礼な男ね」


 寿太郎が若溪の張り手を躱していると、信乃が重雄の方を向いて会釈をした。


「こちらの方はどなたですか。もしかして税関の方でしょうか」

「こんなのが税関職員なら世も末――」

 言い終わらぬ内に寿太郎はいきなり重雄の拳骨で殴られ声もなく床に沈んだ。


 起き上がった寿太郎が二人をどう説明しようか迷っている内に、重雄は人好きのする笑顔で二人に話しかけていた。


「初めまして。寿太郎の父の高村重雄しげおです。お二人は寿太郎の仕事仲間かな?」


您好こんにちは、私は同僚じゃないですわ。別の用事があって一緒に来ただけですの」


「初めまして。私も付き添いというか、乗り合わせただけです」


 ――先生、ややこしいからそこは同僚って言ってくれよ!


 母が異国人である寿太郎は兎も角、重雄も相当に背が高いため、見上げる信乃と若溪はいささか首が痛そうだ。


 寿太郎は重雄に紹介するため信乃に目配せをしたが返答は否だった。確かに重雄ならば深山の名字を聞いただけでピンと来てしまうに違いない。


「あー、こちらは信乃先生と若溪さん。たまたま横濱で用事が重なったから、俺が運転手やる代わりに便乗させてもらった」


 寿太郎が耳の後ろを掻きながら言うと重雄は三人の顔をじろじろと見て何故か含み笑いを漏らした。


 その時、ホール内に呼び出しベルの音が鳴った。


「入港手続きが終わったようだ。寿太郎、その仕事だが二階の検査部へ行け。心しろ、ここは俺の伝手が一切効かない大蔵省だ。親の力を借りようなんて思うな」


「そりゃご生憎様だ。変な人の言うことは聞かないんだ。俺は先生の言いつけは守ってるんでね」


 重雄は一瞬額に青筋を浮かべると、寿太郎に背を向けて信乃と若溪に向かって軽く帽子を持ち上げた。


「私はこれで失礼するが、甘ったれの息子をこれからもよろしく頼むよ」


 重雄は後ろで口に指を突っ込んでいーっとしていた寿太郎を冷ややかに見つめると、肩を竦めて大股でホールから去っていった。


「お父上様はご立派な方ですね」

「あれが? 仕事してなきゃただのフウテンだよ」


「あなたにそっくりじゃない。でも見た目はおじ様の方が格好いいかも」若溪が腰に手をあててを作って言った。


「ああ? まあ、親父がいなきゃ先生の絵にも出会えなかったのは本当のことだしな。向こうに居るときはそんな当たり前な事にすら気づけなかったから、今は素直に感謝してる」


 ばつが悪そうにした寿太郎に、若溪がまるで化け物でも見たかのように顔を引き攣らせた。

「なんだか気持ちが悪いわ」


「何気に酷いこと言うな。そういや若溪、何か用事があるとか言ってなかったか」

「ええ。上手くいけば一時間程度の用事よ。後で車で落ち合いましょう」


 寿太郎が車の場所を伝えると、若溪は返事の代りにひらひらと手を振って税関庁舎から出て行く。


「さて、こちらも用事を済ますとするか。先生はここに残っててもいいよ。退屈だと思うし」

 寿太郎が言うと信乃は少しばかり考えて「行きますよ」と言った。



 窓口は二階に上がってすぐの場所にあった。さすが横濱というべきか、寿太郎の異相に気を止める職員は誰もいなかった。


 窓口で翁から預かった書簡と鑑定書を提示すると担当らしき年嵩の職員が奥から出てきた。


「身分証がいる? これならあるぞ」

 寿太郎は胸ポケットから名刺と銀時計を出して腰高のテーブルに置いた。

 職員は銀時計を手に取って、ひっくり返したり蓋を開けたりし、最後に書棚から出してきた古めかしいファイルを捲って時計に刻印された番号を突き合わせた。


 刻印を確認した職員は「しばらくお待ちください」と言って二人を別部屋に通し、何枚かの書類を差し出す。


 待っている間に渡された事務書類にサインを入れると、担当職員がそれを持ってまた「しばらくお待ちください」と言って出て行った。


「毎度思うんだけどさ。ほんと待たされるよな。ショウショウオマチクダサイってどれだけ聞いたか」


 信乃が「お役所ですからね」と苦笑いして言うので、寿太郎は胸ポケットから懐中時計を取り出した。


「鴨井さんから借りた印籠、ちゃんと効いてるみたいだったな」


 寿太郎が大いに納得して言うと、信乃が鎖の先でくるくる回っている銀時計を掴まえた。

「この家紋、どこかで見たことがありませんか」


 それは屋敷の玄関扉、階段の擬宝珠ぎぼし、あるいは絨毯の柄、あらゆる所で目にしていた。あっと声を上げた寿太郎に信乃が頷いた。


「東城家の家紋ですよ」

 寿太郎は蓋の内側の刻印は書類で見た文部省の印だと分かったが、表側は単なる装飾だと思っていたのだ。


「最初から翁の指示だったのかよ」


 書斎で話した時、翁が曖昧な言い方をしたので推測でしかなかったことがこれで確定した。


「それを君に渡した鴨井さんという方は先見の明がありますね」

 信乃は感心して言ったが、寿太郎が上野公園で職務質問された事も翁に筒抜けだったのだろう。寿太郎は何となく気にくわなくて下唇を突き出した。


「今までが今までだし見張られてるとは思ってたけど徹底してるな。まあ、俺が信用ないのは今更だけど」


「そう言えば、ずっと思ってたんですけれど、君は和蘭陀オランダで一体何をしたんですか」


 寿太郎は指を組んでぐっと前に突き出すと一つ大きな息を吐いた。

 寿太郎は「まあ今更だしいいか」と呟いて静かに話し始めた。

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