第27話 新たな依頼
高々と絵を掲げた寿太郎はそっと手を下ろした。チラチラと横目で信乃に合図を送ると、信乃が説明を加えた。
「彼が持っているのは私が昔描いた水彩画です。私の一存では渡せませんのでお伺いを立てに参りました次第です」
「構わぬが。深山君の方は良いのかね」
「私は別に構いませんが、なぜでしょう」
それを聞いた寿太郎が小躍りしていると、翁が冷水を浴びせた。
「ふむ、高村君は深山君を怒らせたことを覚えていないようだが」
「俺が先生を怒らせたって、いつ!」
焦る寿太郎に信乃があっと声を上げて袂から先ほどの写真を取り出した。
赤茶けた古い写真には三十代くらいの紋付き袴を着た翁と、半べそをかいている子どもが写っていた。
「この女の子がどうかしたのか? 待てよ、どこかで見たような」
「ええ……これは私ですよ」
寿太郎は写真をひったくると本人と見比べた。感光が甘い写真は不鮮明だったが、なるほど面影はある。
「でもこれスカートじゃないか?」
「これは行灯袴でスカートではありませんよ。ただ着物は母の小振袖を肩上げして間に合わせたので女物ですが」
和裁用語は分からないが、恐らく母親の着物を仕立て直したということなのだろう。
翁が遠くを見るように言った。
「あの頃は儂もそれなりに見えていたのでな、よく覚えておるよ。君は華やかな若葉色の着物を着て、ご母堂もとても美しい方だった」
信乃は多少居心地が悪そうにしていたが、口は挟まずに翁の話を聞いている。
「あの日は儂が財団事業を引き継ぐためのお披露目も兼ねていてな。催しの一環としてオークションを開催した。貿易商の高村君の父上も招待されていたのだ」
「俺、興味があること以外あんまり覚えてないんだよなあ」
寿太郎は当時六歳で何もかもが珍しく毎日が刺激的で、その膨大な記憶の海に沈んでしまったのだろう。
「そうであろうな。その目玉の催しも色々とあって大変だったのだよ。信乃君はその時のことは覚えているかね」
翁は話を続けても良いかどうか信乃に了解を取った。
「あの醜聞は過去の新聞を調べればすぐ出てきます。私から話しましょうか」
翁は頷いて信乃に話を引き継ぐ。
「その授賞式で私はいきなり現れた父に壇上から引きずり下ろされたんですよ。新聞記者達は色めき立ちました。美術界の異端児への滅多にない取材の機会ですからね」
信乃はそこで一旦話を区切った。何か思い出したようようだ。
「父と私は取り囲まれて会場は大混乱に陥りました。そんな状態ですから授賞式を続行できる状態ではなくなって、私も大泣きです。そこに君がやってきたんですよ」
信乃はさらりと言ったが、官主催の展覧会が台無しになるなど前代未聞だ。ネーデルランドで言えば王族主催のサロンを潰したに等しい。寿太郎は渋い顔をして言った。
「それでクソガキの俺はいったい何をやらかしたんだ」
恐る恐る信乃の方を伺うと、彼は少し悪戯めいた表情で大仰に右手を差し出して言った。
「私を人だかりから引っ張り出した後、ハンカチを差し出してこう言ったんです。『僕が絵を買ってあげるよレディ』ってね」
寿太郎は両手で顔を覆った。
――思い出した!
できることなら書斎から今すぐに飛び出したかったが、どうにか踏みとどまった。
「
「私はそれで怒ったのではありませんよ。袴の違いなんて君には分からないでしょうし」
「じゃ、なんで?」
寿太郎はとりあえず恥ずかしさを脇に置いて訊ねた。
「父に否定された絵を自分より小さな子どもにお情けで買ってもらうなんて、私の矜持が許さなかったのですよ」
女の子と間違えるよりもよほど酷かった。泣いている人間の顔を札束で叩くようなことをしたのだ。いくら子どもでも許されるわけがない。寿太郎は挽回策はないものかと必死に考えたが何もかもが今更でしかない。
軽快な音が鳴った。翁が膝を叩いたのだ。
「なるほどそういうことだったのか。それで信乃君は『あいつに売るくらいなら捨てて欲しい』と癇癪を起こしていたのだね」
絶望的な言葉に寿太郎が頭を抱えていると、信乃は穏やかに言った。
「もしかし、あの絵が保管されていたのは、まだ入札途中という意味なのですか」
翁は首を振った。
「正直困ったよ。儂は権利者ではないのでな。だから君たちのどちらかがもう一度儂の元に来るまで預かることにしたのだ」
「とっくに廃棄されていると思っていました」
若溪が空になった翁の湯飲みに新しい茶を注ぐと、翁は喉を潤してからまた続けた。
「連絡が遅くなったことは謝罪しよう。奥方が亡くなってから色々と連絡しづらいこともあってな。しかし信乃君。これだけは心に留め置いていて欲しい。
「そうだったのですか……父にとって私の絵は見る価値のないものだと思っていました」
強ばっていた信乃の表情は幾分柔らかなものに変わっている。
「存外長い話になった。そういう経緯でその絵は預かり中になっているのだよ」
寿太郎は絵を貰う気でやってきたものの、事情を聞いてしまってはタダでは気が引ける。それは信乃も同じだったらしい。
「入札ならするよ! いくらでも出す」
「もう無いと思ってた絵ですから。もう入札は不要です」
二人同時に提案をすると翁は苦笑した。
「話は最後まで聞きなさい。入札の期限は切れているし開催費も既に精算済だ。故に絵の所有は当事者二人で決めてくれて構わない」
「それだと流石に申し訳ないよ」
寿太郎が言うと信乃も頷いた。
「ふむ。ならば預かり賃でどうかね」
翁の提案に芸術作品の数十年に渡る預かり賃がいくらになるのか想像も付かず、寿太郎は思わず唾を飲み込んだ。
「金ではない。君たちには彼女の手伝いに行って欲しいのだよ」
間髪入れず若溪と信乃の両方から不満の声が上がった。
「それは困ります!」
「私だけで大丈夫です!」
寿太郎は反論しなかったが手伝い内容に顔を顰めた。さきほど翁たちが話していた物騒な話のことなら断った方がいいだろう。
「待ってくれ。俺は内――文部省の仕事をまだ請け負ってる最中で……」
寿太郎は話途中で翁の顔を見た。
「もしかして翁って内務卿?」
寿太郎の質問に信乃が訂正をした。
「内務卿は今はもうない役職ですよ」
「うむ。内務卿職は数年前に廃止された。しかし表向きの権力はないが内務卿という呼称は今でも受け継がれておるのだよ」
翁は椅子の肘掛けに手を掛けて立ち上がると、若溪が執事の代わりに杖を手渡す。
「いかにも君の仕事について内務省に手を回したのは儂だ。だが、信乃君と高村君が知り合いだったのはまったくの想定外だ」
翁が説明に寿太郎は頭の中で何かがカチリとはまった。
「俺たちは
「そうではない、と言っても信じてもらえないだろうが」
「あんたは深山家から出入り禁止にされていて近づけなかった。白茲の贋作調査にその息子がいれば手っ取り早いもんな」
――実際、俺もそうしたしな。
「翁、悪いけどこの絵の釣りは別のもので返すよ。行こう、先生」
「違うのだ。……えいせいを……」
翁が萎びた声で何かを言った。
寿太郎は信乃の肩を押したが、信乃は振り切って翁の前へと歩み出た。
「倉庫で『瑞雲と白鹿』を見つけました。あの絵がここにある理由を教えて下さい。父は死の間際まで貴方のことをずっとその……恨んでいました」
「恨んでいた、か。そうだろうな。恨まれていても仕方がない。すまぬ。この歳になるとふとした時、やり残したことの多さと残り時間の少なさに押し潰されそうになってな。」
ぼそぼそと話す翁は十も老け込んだように見えた。
「あの『瑞雲と白鹿』は十五、六年前に小包で届いたのだ。送り主もなしにな」
「なんだそりゃあ」
人づてどころか出所すら分からないとは。
「儂は本来の所有者に戻そうとしたが久仁信は受け取らぬまま逝った。それ以来、瑞雲と白鹿はあの倉庫にある。だが相続権のある信乃君が現れた今、彼に返却すべきだろう」
翁の申し出を信乃は丁寧に断った。
「受け取ったとしても義母は直ぐに売り払ってしまうでしょう。それなら翁の元にあった方が絵にとっても幸せです」
「絵が幸せ……そうか。そうであるか」
置時計が時を刻む音がやけに大きく響く。寿太郎はその規則的な音を聞きながら考えを巡らせた。サロンを出る時、翁は信乃に寿太郎の眼を信頼していると言った。
――そうか俺が、信乃先生の絵を見たことがあるからか。
「翁、真作は見つかって横濱の絵は贋作で確定。業務の完了条件は特に示されてない。何より依頼者がここに居るんだ。これって実質、依頼完了ってことでいいんだよな」
正直なところ、寿太郎は贋作家が誰であろうとどうでも良かった。むしろ、一番の可能性のある人物からこの話題を遠ざけたかった。
三人の会話に途中から置いていかれた若溪が腰に手を当てて口を挟んできた。
「仕事は最後までやりなさいよ。こんな半端な奴と一緒に仕事するなんてゴメンだわ」
「俺は素人だぞ。これだけ調べりゃ十分だよ。それにあんたの仕事を手伝うなんて、まだ一言も言ってねえ」
「私の
再開した口喧嘩に翁は片手を挙げた。
「寿太郎君、鴨井は依頼は一つだけとは言ってなかったのではないかね」
寿太郎は鵞鳥を締めたような声を上げた。
「あ……まあそう……だけど」
続いて翁は若溪に向かって言った。
「君の部下たちは強い。だが今の段階では警察を動かせぬのでな。伏兵は必要だ。彼が強いのは知っているだろう」
「え……ええ。そこそこ強いわね」
翁は頷くと、今度は信乃の方を向いた。
「信乃君、巻き込まれたくないのは重々承知の上で言おう。儂も絵を探しておるのだ。帝国博物館にある儂の絵『
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