第26話 一期一絵

 裏返された画用紙には朱書きで特等と書き込まれていた。

 寿太郎じゅたろうの指が消えかけの鉛筆書きの字を辿るに至ると、信乃しのは諦めたように目を伏せた。


「みやま……しの。これって、もしかして先生の名前!? ほら!」

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえますから――ええ、そうです」


 信乃は瑞雲と白鹿の件で頭がいっぱいで、同姓同名ではぐらかすという安っぽい発想すら沸いてこなった。


「あのさ、先生は俺の探していた絵を知ってた、なんてことはないよな?」


「まさか。君の説明では曖昧すぎてどんな絵か皆目見当も付かなかったんです。しかも、ここに来たのは今日が初めてなんですから私も一体何が何やら。それにその絵は――」


 信乃は自身の記憶の何かを掴みかけたが、それは触れる前に霧散した。


 ――君はずっと怒っていたからね。


 私が怒っていた……そうだ。どこか広い場所で信乃はずっと何かに怒っていた。母の着物の裾にしがみついて。


 とても腹立たしかったことだけは覚えていてもその原因に関しては毛ほども思い出せなかった。

 先ほどの父の絵といい、意図的に過ぎる気がする。


 寿太郎に諦めさせることだけを最優先に考えていたが、信乃は今、情報が欲しかった。ずっと無難にやり過ごしているだけでは埒が明かない。


「高村君、私がここに来ることを事前に翁に伝えましたか?」

「そりゃ言うよ。居候の身で勝手にできないし。でも、そう言えば、先生の名前は伝えた覚えないなあ」


 この屋敷に来た時を思い出してみる。

 気がついた時には翁はホールにいて、いつから聞いていたのか分からない。


 信乃は知り合ってからずっと寿太郎の行動を見てきたが、かなり大雑把な性格で隠し事などできそうにない。信乃の身辺を嗅ぎ回っていた時も、自ら本人に暴露してしまうほどだ。


 翁がお膳立てをして、寿太郎はそれに沿って動かされているだけなのかもしれない。

 子犬を必要以上に警戒して、背後に親犬がいることに気づかなかったのは自分だ。


 ――逃げるか。


 無理な話だ。たとえ無事に出られたとしても身元も割れているし逃げ切れるはずがない。

 その子犬はといえば、まるでお気に入りの骨を見つけたかのように飽きもせず絵を眺めていた。


「特等って書いてあるけど、何かのコンクール作品なのか?」

「小学校で描いたものを当時の教師が勝手に展覧会に応募してしまったのです」


 絵は兵式教練の一環の遠足で、学年で柴又まで出掛けて写生をした時の物だ。

 皆は帝釈天の本堂を描いていたが、信乃は騒がしい場所から離れ、そこから見える農村の風景を描いた。それがどうやら教師の目に留まったらしい。


「勝手にって――なにか挟まってる。写真?」


 寿太郎がスチールの引き出しに残された紙挟みカルトンの中に一枚の写真を見つけ拾い上げた。


 何となく嫌な予感がした信乃は、横合いからさっと手を伸ばすと寿太郎から写真を取り上げてたもとに仕舞った。


「えっ、ちょっと先生、なんで取り上げるんだよ。見せてよ!」


「駄目です」

「俺が見つけたんだから、それも俺のだろ」


「どういう理屈ですか。そもそも全て翁の収蔵品でしょう。勝手に受け渡しして良いはずありません。ほら早く、写真を片付けますから、その絵もちゃんと元の場所に戻しなさい」

「嫌だ。返してよ、俺のだ」


 倉庫内で互いの物を奪い合おうとじりじりと牽制し合っていると、開け放った扉の向こうから笑いを押し殺した声が投げ掛けられた。


「ならば伯爵様にお伺いになっては如何です?」


 倉庫の入口に立っていたのは執事の飯塚だった。散々家捜しをさせられ、心底疲れ切っていた信乃には、明るい廊下を背に立つ飯塚が闇から這い出た悪魔のように思えた。


「飯塚さんいいこと言うね、そうしよう!」


 信乃が制止する間もなく寿太郎は絵を持って鉄砲玉のように飛び出していってしまった。追いかけようと廊下に出ると、入口に立っていた飯塚が信乃に言った。

「懐かしいですね。あの時の授賞式には私も参列させて頂きました」


 信乃は足を止めると飯塚を振り返った。

「ええ、あれは官庁主催の絵画コンクールでした。当日、表彰式に出るのを父に反対されて、こっそり母が連れ出してくれたんです」


 戸口で姿勢を正したまま飯塚は頷いた。

「信乃坊ちゃまはご母堂様とお二人でご参加されていました。とてもお可愛らしいお姿でしたよ」


 信乃は反論を咳払いに乗せてみたがあまり効果は無かった。飯塚の言っている事は自分の記憶と合致している。だが、そこから先はどうしても思い出せなかった。


 とても嫌な感情だけがあって、何をどうしてあの絵が今ここにあるのか信乃には分からなかった。


「なぜあの絵がここにあるのですか。翁もあの時に会場にいたのですか」

「それは翁から直接お聞きになられた方がよろしいかと」


 心持ち楽しそうに言った飯塚に、信乃は倉庫をそのままにする旨を断ると階下の寿太郎を追いかけることにした。


***


 階段を駆け下りると厨房前で夕食の支度を始めていた女中とぶつかりそうになった。寿太郎はついでとばかりに翁の居場所を訊ねると今は書斎だと言う。


 向かった先の書斎でノックをしようとして寿太郎は中から聞こえる話し声に手を止めた。


 入るべきか躊躇していると、ちょうど信乃が中廊下の曲がり角から顔を出した。寿太郎は慌てて口元に指先をやると、信乃は不審そうな顔をしながらも足音をさせないようにゆっくりと近寄ってきた。


「何をしているんですか。早く戻りましょう」


 ジャケットの裾を引っ張られたが、寿太郎は気にせず扉に張り付いて耳を当てる。先ほどよりは大きく聞こえたが内容を聞き取るには至らず、寿太郎は真鍮製のドアノブに手を掛けてゆっくりと回すと慎重に扉を押し開けた。


 すると、はっきりと女の声が聞こえてきて、背後に寄って来ていた信乃も息を潜めた。


「――あの馬鹿、てっきり横濱にいると思ってたけど、上野で商売してるとはね。探しても見つからないはずだわ」


「上野なら画廊や古物商も多い。紛れるには良い場所だな。事務所に入ったと聞いたが勘定帳の見当はついたのかね」


「常時誰かが居てるから、分かったのは大まかな間取りと警備体制くらいね。荒事なしではこれが限界。ましてや裏帳簿を見つけるなんて無理よ。いっそ関係先を税務監督局にでも調べてもらった方が早いわ」


「それは難しい。今は戦時利得税の徴収で人手が足りぬと職員育成に奔走しておるくらいだからの。法人ではなく個人ではどうだね」


「額が小さすぎて余程定期的に取引をしていないと証拠にするには難しいわ。最悪、溺死した男が捨てた可能性も捨てきれないし、かと言って内務省が動くと外交が絡んできてやっかいな事になるわ」


 一体何の話をしているのか寿太郎には分からなかったが「溺死体の男」という所だけは見当が付いた。恐らく、信乃と会った日、不忍池で上がった遺体のことだろう。


「そこは安心していい。警察は動けん。上野に事務所があっても横濱居留地とのつながりがある以上、簡単に踏み込む事はできんのでな」


「その方がありがたいわ。スーチャンとの商談だけ潰しても、あの馬鹿はまたどこかでやらかすもの。今回ばかりは老大ロウダも業を煮やしておられるし」


「出来れば穏便にと思っておったが、老大が動く前に終わらせた方が良いか。出航は週明けだったな」


是的そうです。その前に、明日明後日にでも上野の事務所の方は一気に片付けたいの。いいかしら」


「構わぬ。後始末はこちらに任せたまえ。人手は足りているかね」

我不需要いらないわ。こちらの不始末ですもの」

「よかろう。さて――そこの二人、そろそろ入ってきなさい」


 突然呼ばれた寿太郎と信乃は廊下で顔を見合わせた。

「入りましょう。ここは素直に謝るべきです」

 寿太郎は信乃の言葉に頷くと書斎の扉を押し開けた。


 二人が書斎に入ると以前寿太郎に殴りかかってきた中国人の女と翁、付き人らしき黒服の男が一人いた。


「盗み聞きなんていい趣味してるわね」

 女は鼻を鳴らすとつけつけと歩いて信乃の前に立った。それから割烹着姿のままの信乃の周りをぐるぐると回って口元を押さえた。


「あら、あなたこの前の……やだ、私ったらとんでもない勘違いをしていましたわ。あの時はありがとう。とても助かりました小姐シャオジエ


 女が頭を下げたので信乃も釣られて頭を下げている。

 丁寧なのはいいが相手を見てからにした方がいいと思いながら、寿太郎は女と信乃の間に強引に割って入った。


「先生この女と知り合いだったのか」

「ちょっと、話しているのは私よ?」

 無視した寿太郎に女が文句を言う。


「いえ、以前たまたま百貨店の前で声を掛けられて道案内をしただけです。お名前も存じ上げませんよ」


 信乃はやたらと馴れ馴れしく近づく女に首を捻っている。どうやら本当に知らないらしい。


 すると、翁がおおよそ寿太郎たちのいる方向を向いて声を掛けてきた。


「そういえば紹介をしていなかったな。先日来ていた時に合った方が高村寿太郎君だ。ネーデルランドの貿易船団で来日してこちらで預かっている。もう一人は高村君のご友人の深山信乃君、男性だよ」


 翁の説明に女が大仰に驚いて頭を下げた。

「先ほどは小姐おねえさんなんて言ってごめんなさい。そんな格好をなさっているものだから、てっきり女性かと思ってしまって。私は黄若溪ファンルオシー。上海租界そかいで表向きは水運業を営んでいますの」


 ――おいおい表向きとか、少しは裏社会の匂いを隠せよ。


 寿太郎が胡散臭そうにしていると若溪が指をさしてきた。


「そこの貴方、変な顔をしないで下さらないかしら。青幇チンパンといっても色々あるのよ。うちは十戒を守っている真っ当な分派よ」


「どうだか。競合他社マフィアの言うことなんか信じられねえな。どうせろくでもないことをやろうとしてたんだろ?」


「相変わらず失礼な男ね。そっちだって貿易船団とかいいながら一体何をしてるんだか。私は正式な依頼を受けて動いているのよ。東城大人トンチャンダーレンの顔に泥を塗りたいのかしら」


「俺の家はお前らと違って王室から正式に船団として認められてるんだが?」


 終わりの見えない応酬に側で聞いていた信乃が申し訳なさそうに口を開いた。


ファンさん、先日はどうも。深山信乃と申します。このような格好ですみません。翁に急ぎの用事がありまして、結果的に立ち聞きのようになってしまったことはお詫びいたします」


「先生、こんな奴に挨拶なんてしなくていいって。なんだっけ、そうそう、エンギが悪いって」


「それ、人に向けて使う言葉じゃありませんよ」

 小声で言った信乃の肘鉄が寿太郎の脇腹に決まる。


「信乃哥哥にいさん。私のことは阿若アールオって呼んで下さって構いませんわ」

 若溪ルオシーは豊満な胸を突き出し、真っ赤な紅を引いた唇を蠱惑的に引き上げて言う。


 そこでまた一悶着が起こり、収拾が付かなくなった所で翁が笑い声を上げた。


「賑やかで良いことだが、二人は私に用事があったのではなかったのかね」


「そうだ。翁は倉庫の何でも持って行っていいって言ってたよな。この絵、もらっていい?」

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