第25話 埃塗れの記憶庫

 そこは倉庫とはいっても床が板張りなだけの普通の洋室だった。


 室内に保管されている溶剤や紙の独特な匂いのせいで倉庫というより工作室か美術準備室を思わせた。


 窓の無い八畳ほどの広さの部屋には柳行李やなぎごうりや革張りの旅行鞄がうずたかく積み上げられ、その隙間にイーゼルやロールのキャンバス生地が挟まっている。奥には石膏像らしき形をした布覆いも見える。


 湿気が籠もりがちな洋風建築だが、定期的に風通しをしているのか、多少の埃っぽさはあれど黴臭さはなかった。行李や木製の書棚も前時代的で古びてはいるものの丁寧に扱われている。


 信乃しの寿太郎じゅたろうの二人は手分けして絵の具がありそうな場所を探すことにした。


「それにしてもすごい量ですね。この戦後恐慌のご時世に道楽にここまでかけられるなんて」

「あー、多分趣味だけじゃないと思うぞ。ほら」


 寿太郎は近くの書棚から一冊の本を引き抜くと、行李の山越しに信乃に投げて寄越した。


 それは東城白水とうじょうはくすいの展覧会絵図だった。


「やはり関係者だったのですね」

「関係者も関係者、翁は東城白水本人だよ。うちの親父が言ってたから間違いない」

「東城芸術財団ですか。明治の頃までは様々な活動してたらしいですが、最近はあまり聞きませんね」


 信乃は東城の名前を聞いてもしやとは思っていた。東城財閥が中核を担う東城芸術財団は明治維新以降、日本の文化振興に熱心で、先代当主は芸術に関しての催しには必ず名前が出てくる重鎮だったという。


 だが、先の大戦争のあおりを受け芸術運動も下火となり、その上、現当主は芸術に関心がないのではとも噂されていた。


「欧州大戦も終結して欧州ヨーロッパはようやく芸術再興とか言い出してるくらいだ。どこもかしこも借金だらけだしな。展覧会どころじゃなかったんだろ」


「翁は目がお悪いですしなおさらかもしれません」

 信乃は使われなくなってしまった画材が山積みになった倉庫を見回す。


 翁が信乃に画材を譲りたいと言ったのは本心からなのだろう。絵が描けなくなるのはどれほどの苦痛だったろうか。


「下宿先に私を呼んだ理由はこれですか?」

 寿太郎は信乃が美術館で白水の作品を眺めていたから愛好者だとでも思ったのだろうか。


「あー、そこは成り行きというか偶然? 本当だって。でも、この屋敷には翁の絵が一枚も掛かってないんだよ。言えば見せてもらえるかもしれないけど、親父にも翁の事は詮索するなって釘を刺されてるし」


「しかし、隠してるというわけでもないですよね。私に画材をくれるというくらいですから」

「そうなんだよな。単にこっちが聞かないから答える必要がないって感じ。全く金持ちの考えることは分からん」


 寿太郎の家も貿易船団を組めるほどの家業なら相当裕福なはずだが、彼の言うお金持ちの基準は欧州の王侯貴族のことを指しているのだろう。


「早く絵の具を探して出ましょう」

 これ以上は藪蛇になりそうで、信乃は話を切り上げた。


「神田には行かなくて良くなったんだし、そんなに慌てなくてもいいだろ。それに翁は倉庫のモノ何でも持って行っていいって言ってたし」


「社交辞令を真に受けてどうするんですか。お茶まで頂いて厚かましいにもほどがあります」


「お堅いなあ。わがままは若者の特権だよ」

「君と一緒にしないでください。後で請求されたらどうするんですか」


「タダで昇るのは太陽だけってか」と寿太郎が変な節回しで唄った。


 その後も寿太郎は終始そんな調子で、しかも途中から和蘭陀おらんだ語の歌に変わったりするので、信乃はそれ以上構うのをやめ、自分の作業に専念することにした。


 探し物はなかなか見つからなかった。

 とにかく物が多いのだ。翁は洋の東西を問わずありとあらゆる画材や関連資料を蒐集していたらしく、据え付けの押し入れクローゼットの中にまで貼紙ラベルのない行李がぎっしりと詰め込まれ、棚から下ろしては蓋を開けて探すを延々と繰り返した。


 箱を五つほど開けたところで、信乃は腰を伸ばすために立ち上がり、同じく箱まみれになっている寿太郎に言った。


「思ったのですが、飯塚さんに仕舞っている場所を聞けばよいのではないですか」


「だろ? 実は俺、飯塚さんに聞いたんだよな。宝捜しをお楽しみくださいとか訳の分からないことを言われた」

「いつも君は大事なことを先に言わないんですね」


 寿太郎は積み上げた行李の山の向こうから手だけをひらひらさせた。


「聞いたところで探すのは同じだろ。先生は怒るだろうし」

「私そんなに怒りっぽいですか?」

 教員の時は優しい先生で通っていたはずだが、己の勘違いだったのだろうか。


「俺にだけアタリがきつい」

「……それは君が悪いのでは?」


 高いところの作業は寿太郎に任せ、信乃は壁の周囲に積まれた箱の山を調べることにした。


 胸の高さまで積まれた箱を下ろしていると、部屋の片隅に沢山の額縁が立てかけられた一角が目に入った。


 気分転換にラックの中の額縁を一枚ずつ手前に倒して見ていく。無名の画家の油彩や版画がいくつか続き、最後にしっかりした段ボールに入った額縁を見つけた。


「なるほど宝探し……ですね」


 もしや白水の絵かもしれないと心を躍らせながら段ボールをラックから引き抜いた。


 箱はちょうど両手に収まるほどの大きさで、信乃はガムテープが切られている一辺を見つけ、中からそれまでの絵たちとは違う豪華な装飾のついた額縁を引き出す。


 半分ほど絵が出たところで信乃は手を止めた。箱ごと絵をひっくり返してみると墨でK・Mとイニシャルが書かれていた。


「先生、それ何?」

 頭上で突然聞こえた声に驚いた信乃の手から段ボールがすっぽ抜けた。


「うおっ、危な」

 信乃の足の真上に落ちかけた額縁は別の手に支えられ既の所で落下を免れた。


 顔を上げると背中越しに寿太郎がじっと手元の絵を覗き込んでいる。


 信乃は咄嗟に半分ほど引き出していた額縁を段ボールに押し込もうとしたが、寿太郎は信乃の手ごと掴んで恐ろしいほどの力で段ボールから絵を引き抜いた。


 寿太郎の息を呑む音が真上で聞こえた。

瑞雲ずいうん白鹿はくろく……どうしてここに」


「――それは私の方が知りたいです」


 白水が父白茲はくじと美術学校の同期生であったことは信乃も知っていた。卒業後、白茲は同期生とは一切関わらず、画壇にも参加しないので有名だったが、何故か顧客からの人気は高かった。


 晩年は質の悪い酒を浴びるように飲んでいて譫妄せんもうも激しく、筆を持つのも困難になった。


 ただ、酷く酒に酔った日だけは違っていた。そんな日は閉め切った部屋の中から誰に言うでもない罵声が絶え間なく聞こえてきた。


 呂律の回らない口では何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、白水の名前だけは何度も繰り返し言っていたのでよく覚えている。責めるような口調や怒鳴り声からして相当に仲が悪かったはずだ。


「もったいない。俺ならこんな所に仕舞い込んでないで、もっと見える所にぱーっと飾るけどな」


 寿太郎の言うのはもっともだ。稀少な作品ならば応接室や床の間に飾っておきたいのが普通だ。


「翁はこの絵をどうやって手に入れたでしょう。父とは仲が悪かったはずなのですが」


 白茲はくじは気に入らない人間には一切絵は売らぬと豪語していた。なのに犬猿の仲とまで言われた白水の屋敷に絵があることが信乃にはどうにも解せなかった。


「そうなのか。うちの親父に聞いたけど、かなりの頑固者だったそうじゃないか」


「そこは評判通りですよ。天地がひっくり返ろうが売らないと決めたら頑として首を縦に振りませんでした」


 寿太郎はお互い厄介な親父をもって大変だなと笑った。

「人づてに手に入れた可能性は否定できないけど、蒐集家がタダで手放すとは思えないし。近くの画廊にも売買記録はなかったからなあ」


 話しながら寿太郎は額縁を外そうと躍起になっていた。しばらく格闘していたが合板が脆くなっていて留め具も錆び付いていたため諦めたようだ。


「昔ながらの口利き商売で全て自分自身で売る相手を選んでいましたからね」

「え、画商通さずに売ってたのかよ!」

 寿太郎は驚いていたが画商という仕事はつい最近できた新しい商売なのだ。


「あれ? この絵、新聞の写真と構図が違わないか。白黒だったから俺の勘違いかも知れないけど、こっちの方が雲と鹿の距離が少し開いている気がする。もっと鹿が低い山にいるような感じ。これも贋作なのか?」


 寿太郎は床に座り込んで、ためつすがめつしながら真剣に絵を見定めている。


 それにしても寿太郎は絵に関してだけはやたらと記憶力がいい。

 ――自分が探している絵だけ覚えていないのは不思議だけれど。


 寿太郎の言う通り、横濱で見つかった「瑞雲と白鹿」は、信乃が父の残した粗塗りの図案を元に再現したものだ。


 信乃は生前の父に瑞雲と白鹿の行方を尋ねたことがある。その時も酷く酔っ払ってはいたが父ははっきりと絵は捨てたと言っていた。


 信乃もあの絵は一度もお披露目されることなく、図版も残されていないとばかり思っていた。だからこそ残された図案や習作と記憶を頼りに一から描くという大博打が打てたのだ。


 信乃は内心酷く混乱していたが、ここで嘘を言っても寿太郎には通じないだろう。なにせ出所が画家白水の屋敷なのだ。偽物であるはずがない。


「――真作だと思いますよ」

 信乃は左下に押された落款を指差した。


「白茲の落款は二種類あります。これは白茲が初期の頃に使っていた落款です。新聞にあった写真と比べれば一目瞭然です」


 信乃は説明をしながら『瑞雲と白鹿』に晩年の落款を使った事を悔やんだ。まさか本物があるとは思いもよらなかったのだ。


「信乃先生は新聞写真の絵は偽物だって最初から気付いてたのか?」

「ええ……あれは白茲の作品の中でも最初期の頃のもので、贋作が出たのは先日の横濱が初めてだと思います」


 人には大事なことは先に言えと散々言っておきながら、自分は都合の悪いことを隠していたのだ。

 恐る恐る寿太郎の顔を見ると何やら神妙な顔をして頻りに頷いている。


「そりゃそうだよな。人のモノを軽々しく偽物だ! なんて人前では言えないよな」


 寿太郎は一人で納得すると絵を信乃の手に戻し、一度伸びをしてから更に他の絵を漁りだした。


「まさか、他にも真作があるかもしれないと思ってるのですか」

「贋作か真作かは正直俺には分からんけどさ。ただ、あの爺さんはまだ何か隠してそうな気がするんだよ。だって俺が初めてここに来た日、鍵の掛かってるこの部屋には絶対に入るなって言ってたんだ」


「そうなのですか?」

「うん。それに内……文部省に推薦したのは翁だ。その上で、瑞雲と白鹿の真作がここにあることを俺に言わなかった。そうまでして隠してたのに信乃先生が来てから突然態度がガラッと変わったのも気になるんだよ。もしかして俺たちに何かもっと見せたいものがあるんじゃないかってな」


 寿太郎は額縁を引き出しては隅に寄せると、奥にある用紙棚を引き出し始めた。


 中には紙挟みカルトンがいくつか積み重ねて入っていて、木炭デッサン用なのだろう表紙には煤汚れた指紋が幾つもついていた。


「これだけやけに奇麗だな」


 寿太郎が一番底から引っ張りだしたカルトンには木炭屑は付いておらず、使用感もほとんど無かった。信乃はなんとなく嫌な予感がして言った。


「これ以上、勝手に人の物を漁るのはやめましょう」


 信乃が止める前に寿太郎はカルトンの結び紐を解いていた。寿太郎は中にあった一枚の画用紙を取り上げて手を止めた。カルトンがスライド棚に落ちて重い音を立てる。


「嘘だろ……こんな所にあったなんて」


 信乃は立ち上がると、さほど質の良くない画用紙――教材で使うような――を覗き込んだ。


 それは一枚の水彩画で紙の白地を生かして春先の農村の風景を鮮やかに描いたものだった。


 伸びやかなタッチは稚拙ではないものの、本業の画家の絵ほどには洗練されていない、非常にだった。


「先生、これだよ、この絵だ! 俺が探していた絵だよ」

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