第24話 割烹着と味噌汁

 信乃しの寿太郎じゅたろうは執事の飯塚いいづかから倉庫の鍵を預かって洋館二階へと上がった。


 先に寿太郎の部屋に荷物を置いてから倉庫を探すことにした二人は、部屋に着くなりどちらからともなく息を吐いた。


「いやー、爺さんは今日も元気だったなあ」

「隠居なさるようなお歳には見えませんでしたけれど。いつもああいう感じなのですか」

 翁は生きていれば信乃の父、白茲と同じくらいの年齢だろうか。


 翁が誠意のある優しい人柄なのは分かる。しかし信乃は翁の意図を推し量りかねていた。優しさに老獪ろうかいさが加わると途端に難解さが増し、いっそ義母の方が分かり易いほどだ。


「俺の親父よりは上だとは思うけど、親父が仕事で知り合った時にはすでに翁って呼ばれてたみたいだ。いつもは知らないけど、食事の時も大体あんなのらりくらいした感じだよ」


「こちらでは一斉に食事をされてるのですか」

 これだけ大きな屋敷なら広い食堂もあるのだろうが、下宿人と主人あるじが一緒にというのは珍しい。


「ああ、下宿契約の中に相伴しょうばんが入ってるんだよ。週に最低一度はこうやって顔を合わせて食事をすること、ってな」


「かん……お父様のご要望なのですか」

 つい監視と言いそうになって信乃は慌てて言い直す。直ぐに自分を基準に考えてしまうのは悪い癖だ。


「はは、どっちの提案かは分からないけど監視には違いない。ま、ここに来てから親父の部下につけ回されるようなことはなくなったけど、その代わり親玉が出てきたってとこかな」


 あっけらかんと言った寿太郎に信乃が何も言えずにいると、寿太郎は片方の頬を引きつらせ柏手を打つように大きく手を叩いた。


「あ、そうだ。掃除道具を持ってくるから先生はその辺に座って待ってて。ついでに下に置いてきたカステラも連れてくるよ」


 寿太郎が慌ただしく出て行くと、信乃は片手で顔を押さえた。


 広い洋間は畳敷きにして十五畳はあるだろうか。一人で使うには有り余るほどの広さだ。調度らしい調度はほとんどなく、ただでさえ広い部屋をさらに殺風景にしている。


 輸入物のベッドと上部が斜めに欠けた小ぶりの箪笥、木製の肘掛け椅子、子犬の寝床らしきボロ切れの敷き詰められた行李が置かれているだけだった。


 信乃はその一つしかない椅子に自分が座ってもいいものか悩んだが、珍しい天鵞絨ビロード張りの椅子には興味を持った。


 手を添えて座面の弾力を確かめてみる。思った通りの柔らかさに辺りを見回してからそっと腰掛けてみた。洋風座布団クッションは沈み込みすぎず固すぎず、なかなかにいい案配だった。


 やはり今日初めて出会った人間に、しかも素人同然の自分にいきなり出資したいなど、どう考えてもおかしい。


 結託をしているようには見えなかったが、寿太郎に仕事を紹介したのが翁だということを思えばあるいはそうなのかもしれない。


 何度か椅子で弾みをつけて遊んでいると、ちょうど目線の高さに箪笥の取っ手があることに気づいた。


 勝手に触るのはどうかと思いつつ好奇心に負けて取っ手を引っ張ってみると、バタンと音がして箪笥の前面が手前に開いた。


 ――箪笥ではなくて折りたたみの机だったのか。なるほど便利にできている。


 中にはトレイに置かれた万年筆と、皺だらけの小さな紙切れが状差しに挟んであった。触らずに頭を傾けて見てみると、それは先日寿太郎に渡した名刺だった。


 皺だらけの名刺は状差しに挟まれていた。大切にされていたのか、捨て切れず仕方なく置いてあるだけなのか少々複雑な気持ちになる。


 次に、信乃は白枠の格子窓に近づいてみた。窓を押し上げると、ほの暖かい空気が部屋に吹き込んできた。先日までの長雨は嘘のように晴れてゆっくりと雲が流れていく。


 東城邸は高台にあり、二階の高さでも遠くまでよく見通せた。


 信乃はこの高さならばと窓から身を乗り出し、左側、東方面を少々の期待を込めて見てみる。

 目的の建物は十二階もあり直ぐに見つかると思っていたが、方角が悪いのか凌雲閣りょううんかくの威容は見えず仕舞いだった。


 扉を叩く鈍い音と声が聞こえてきた。

「おーい、信乃先生。ドアを開けてくれ。手が塞がってるんだ」


 大急ぎで扉を開けると、右手に大きな風呂敷包み、反対の手には子犬を抱え、脇にはハタキを挟んでいる寿太郎が立っていた。


「言ってくれれば私も取りに行ったのに」


 扉が開き切った途端、子犬は部屋に飛び込んで慣れた調子で自分の寝床へと潜り込むと、くるりと丸まりスイッチが切れたように眠り始めた。


「途中で飯塚さんに荷物を渡されたからこうなって――あっ、先生それ、もしかして見ちゃった?」


「何をですか」と言いかけて、信乃は机の蓋を開けたままにしていたことに気づいた。


 寿太郎は先ほどの名刺を取り出すと、両手を信乃に差し出して頭を下げた。

「ごめん。うっかり敷き込んで寝てしまってこんなことに」


「ああ名刺ですか。もう一枚お渡しできれば良いのですが、生憎、先日義母ははに全部燃やされてしまってもうないんです」


「えっ、もしかしてこれが最後の一枚!? 嘘だろ、先生に初めてもらった物なのに!」


 寿太郎は天に許しを請うようにがくりと膝を突くと、なぜどうしてと呪詛のように言葉を繰り返しながら床に突っ伏した。


「はあ。私だって燃やされたくなどなかったですよ」


 たとえもう使えなくても一度は手に入れた名刺じゆうだ。燃やされて悔しくないはずはない。自分の中では整理がついたと思っていたはずなのに、寿太郎のあまりの嘆き様を見ると、つい未練がましい本音が漏れてしまった。


「どこかにまだ残ってないかなあ。渡した人から取り返すとか」


「そんな非常識なことをしたら、二度と口を利きませんがね」

 当事者より諦めの悪いこの男に、怒りを通り越して呆れが先に立つ。


 信乃としてはその最後の一枚を燃やして一切の繋がり消してしまえれば一石二鳥と密かに思っていたのだが、寿太郎の方は大真面目らしい。この男と話しているといつも調子が狂う。


「そんなことより、君のその手に持っている風呂敷包みはなんですか」

「そんなことってなんだよ。俺にはとっても重要なことなんだってば」

「あるだけマシでしょう。人間最後は諦めが肝心です」


 寿太郎は口を尖らせながら、持っていた風呂敷をベッドの上に広げる。中には豆絞りや使い古した西洋手拭タオルが入っていた。


「はい雑巾。んで、コレ。飯塚さんが先生に渡してくれってさ。どうやって着るのか分からないけど」


 寿太郎は白い綿の服を広げて見せた。背中は開いていて共布でできた紐が何本も垂れ下がっている。信乃は手渡された服を広げると軽く唸った。


割烹着かっぽうぎですか。これは着物の上から着る前掛けエプロンです」

「俺だって割烹着くらいは知ってるって。ここのお手伝いさんはみんな洋装だけど」


 そう言えば、廊下ですれ違った女中は皆ぞろりとした黒い女袴スカアトと胸当て付きの白い前掛けをしていたのを思い出す。


 できれば割烹着より板前服の方がよかったが、それだと着替えなければならないので飯塚が気を利かせてくれたのだろう。


 生前、母はよく割烹着を着て土間に立っていたなと思い出しながら、古い記憶を頼りに割烹着の背中の上二つの紐を結んで頭から被る。


 ――多分、こうだったはず。


 紐が奥襟に引っ掛かってもたついていると、椅子をまたいで背もたれに肘を置いていた寿太郎が「手伝おうか」と聞いてきた。


「自分で着られますから大丈夫です」


 なんとか頭を通して着終えると、今度は裾が邪魔になったので絡げて帯に手挟んでおく。最後に髪を縛って手ぬぐいを姉さん被りにすれば、完璧な女中姿の出来上がりだ。それでも埃塗れになるよりは余程ましだ。


 支度を終えて信乃が振り向くと、椅子に座って待っていた寿太郎がじっと信乃を見ていた。


「言いたいことがあるならどうぞ」

「紐だけでよくそんなに色々できるもんだなって思ってさ。そういや信乃先生って料理できるのか」


「男子厨房に入るべからず。ですが、普段の食事くらいならできます」


 また何か変なことを訊いてきたと信乃は身構えたが、寿太郎はがたり椅子から立ち上がって言った。


「本当か。じゃあ俺に味噌汁作ってくれよ!」

「……それ、意味分かって言ってます?」

 寿太郎は大真面目な顔で顎に手を当てて言った。


「俺、和食なんて作れないし。ね、何かご馳走するからさ。最後の晩餐だと思って」

「縁起の悪いこと言わないで下さい」


 まるで子犬のように跳ね回って催促する寿太郎を捨て置いて、信乃は雑巾を持つと先に廊下へと出た。


 濃紺の絨毯が敷かれた廊下を見回すと、翁の言っていたプレートのない部屋は直ぐ目の前だった。


「ここかあ。前から怪しいと思ってたんだよな」

 寿太郎が倉庫の鍵を鍵穴に差し込んだ。


 開けてみると部屋に窓はなく、中は真っ暗で寿太郎が壁面を探るように腕を動かすと、パチパチという音と共に手前から順に裸電灯が点っていく。


 振り返った寿太郎に信乃が頷くと、二人は倉庫に足を踏み入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る