第28話 孤蓬と班馬

「あの絵は対だったのか。それであんなに偏った構図だったんだな」


 寿太郎は初めて孤蓬こほうを見た時、落款らっかんの位置が気になっていた。孤蓬は雄大な山河を背に一頭の馬と人物が大河を眺望している絵だ。


 落款の押印箇所には特に決まりはない。書画全体を引き締める役割もあって、概ね左下に押されることが多い。

 だが、孤蓬は左下に押印場所が十分あるにも拘わらず木々や人馬のひしめく右下の狭苦しい所に落款が押されていた。


 日本画の知識に乏しい寿太郎が見てもバランスが悪いと言わざるを得なかった。

 つまり「孤蓬」は二曲一隻の単作品ではなく左側がある前提で描かれた二曲一双の屏風絵だったのだ。


 ――信乃先生はあの絵が対であることを知っていたのか?


 尋ねようと振り向いた寿太郎は、信乃の顔色が悪いことに気づいた。乾いた唇から血の気が失せ、瞬きすら忘れて硬直している。


「先生、大丈夫か」

 信乃の額には脂汗を浮かんでいて、とても話せる状態ではなさそうだ。

「先生の具合が悪い。話は後で俺が聞くよ」

 寿太郎は翁に確認した後、信乃を連れて書斎を後にした。



 倉庫へと戻る途中、寿太郎と信乃は厨房で水を一杯もらって階段で休んでいると、飯塚が踊り場の上から声を掛けてきた。


「深山さん、どうかなさったんですか」

「少々立ちくらみを。もう大丈夫です」


 しっかりした足取りで階段を上りきった信乃からコップを受け取った飯塚が訊ねてきた。

「それで高村さん。絵はもらえましたか」

「約束は取り付けたけど、代わりに仕事が増えた。まったく人使いが荒いよな」


 かなり草臥れた様子の寿太郎に飯塚は苦笑いをしながら木箱を差し出した。


「それは難儀でございましたね。画材の方はこちらでお探ししておきました」

「ありがとう助かったよ」


 木箱を開けると中には封の切っていない瓶が三つと、赤や青が透けた乳白色のパラフィン紙の包みがいくつか入っていた。寿太郎は中から瓶を一本取り出して信乃に渡す。


貼り紙レッテルはそれで合ってる?」

 信乃は瓶を廻しながらラベルを読んで確認する。それからパラフィン紙に包まれた岩絵具を摘まみ上げると驚愕の声を上げた。

「これは辰砂ではないですか。それに群青に緑青まで。こんな高価な画材は頂けませんよ」


 寿太郎は信乃の手から薬包を取り上げ箱ごと信乃に押しつけた。

「あんな無茶を言ってきたんだ。もらっておいてもいいと思うけど。な、飯塚さん」


 飯塚は返事の代りに丁寧にお辞儀をして階下へと下りていった。その後を、信乃が追いかけていく。途中の踊り場で足を止めた信乃は寿太郎を見上げて言った。


「すみません、倉庫の片付けをしておいて下さい。直ぐに戻ります」

「え、俺だけで?」


 すみませんと言う声が段々小さくなって、直ぐに吹き抜けから話し声が聞こえてきた。

「飯塚さん。お陰で元気だった頃の母との最後の外出を思い出すことができました」


 寿太郎はそれ以上聞くことはせず、片付けのために倉庫へと戻った。

 倉庫内がほぼ片づいた頃、信乃が躊躇いがちに寿太郎の近くに寄ってきた。

 髪を覆っていた豆絞りを手に握って視線を彷徨わせている。辛抱強く待っていると、何度目かの逡巡で信乃がようやく切り出した。


「あの時は、その……ありがとう。今ここに私の絵があるのは君のお陰です」


 信乃が視線を向けた先には紙挟みカルトンの中に戻した水彩画がある。既に寿太郎のものだが、全てが解決するまで受け取らないと決めて片付けておいたのだ。


 寿太郎は顎に拳を当て天を仰ぐとしばし考えた。誠実かどうは分からないが、思ったことをそのまま言うことにした。


「俺の方こそ謝らないと。俺が先生を怒らせなきゃ先生も捨てるなんて言わなかっただろ」

「いいえ。君が買うと言ってなければ、私は絵を破り捨てていたと思います。だからお礼でいいんですよ」


 信乃にとってあの日は母との幸せな思い出になるはずだった。

 子どもに白茲の複雑な事情を理解するのは難しく、殺到した新聞記者たちに全てをぶち壊されたと思ってしまったのだろう。

 信乃は割烹着を脱いで几帳面に畳みながらもう一言付け加えた。


「あの水彩画は母のお気に入りでした。君は母との思い出も守ってくれたんですよ」



 寿太郎が信乃の見送りに玄関まで降りてくると何やらホール内が騒がしかった。


「離せって、僕は何もしてないって」

「人様の家を覗き込んでおきながら何もして無いはないでしょう。このコソ泥!」

 女の声は恐らく若溪だろう。もう一人の声は若い男のようだった。

「何やってんだ、あの女」


 どうやら若溪が若い男の腕を掴んでいるようだ。寿太郎の後ろで信乃が声を上げた。

「頼次!?」

 寿太郎は毒虫でも見るかのように顔を顰め、和蘭陀語で悪態をついて頭を掻き毟った。

「また面倒なのがやってきやがった!」


「義兄さん! こんな所で何やってんだよ。それとそこの赤い木偶の坊、早くこの乱暴女をどうにかしろ」

「若溪、その馬鹿を絶対に離すなよ」

「言われなくても離さないわよ」

 細腕の若溪に更に腕をねじり上げられ頼次の顔が歪む。


「若溪さん……義弟が何を?」

「信乃哥哥お待ちしていましたのよ。玄関先でコソ泥を捕まえ――弟ですって?」


「コレって言うな。義兄さんこの女、怪しげな技を使うぞ。何か悪いことしてるやつだ」

「おお、初めてお前と意見が合ったな!」


 茶々を入れた寿太郎に信乃が間髪入れずつま先で膝の裏を突いた。その場で床に崩れ落ちた寿太郎と頼次の悲鳴が重なる。


「後で良く言って聞かせますので、今日の所は私に免じてお目こぼし頂けませんか」

「まあ、本当に哥哥の弟なの?」


 腕の拘束を解かれた頼次は真っ赤になった手首をさすりながらも喚いている。

「頼次、お前また私の後を付けてきたのか」

 頼次は口をへの字に曲げてそっぽを向いて言った。

「それは義兄さんが遅いから……」


 口籠もる頼次に信乃が深く息を吐いた。

 寿太郎は何が起きても対応できるように、さり気なく三人の間に割って入る。丁度、三角形の真ん中の位置に落ち着いた寿太郎は、頼次に言った。


「お前、本当にあのマダムの言いなりなんだな。少しは自分の頭で考えたらどうなんだ」

「貴様に指図される筋合いなんてない! こっちだって事情があるんだ」


 ――全く、兄弟揃って事情事情って。


 図星を付かれて真っ赤な顔をしている頼次に、信乃は持っていた木箱を開いて見せた。


「これは……鉛白じゃないか。どうやって手に入れたの?」

「彼の伝手でね。これを持って先に帰ってくれないか。私も直ぐに戻るから」

「一緒に戻ればいいじゃないか」


 若溪は偶然玄関先に居たわけではない。翁と詰め終わった仕事の詳細を寿太郎たちに伝えに来たのだろう。

 困惑している信乃の様子に頼次は何を勘違いしたのか寿太郎を指さして言った。


「義兄さんは異国人こいつに脅されてるんだな」

「違う。余計な波風を立てたくないんだ。義母さんには私はまだ画材屋を回っていると伝えてくれ。直ぐに帰るから」

「そうよ。また痛い目を見る前に年長者の言うことは聞いた方がいいわよ、坊や」


 踵の高い靴を履いている若溪に見下ろされて頼次が後じさる。

「義兄さんに何かしてみろ。許さないからな」

「どう許してくれないのかしら?」


 足捌きだけで玄関扉に追い詰められた頼次はいよいよ泣き言を言い始めた。

「義兄さん見てないで助けてよ!」

「頼次、諦めなさい。武道の心得のないお前ではその女性に勝て……あ」


 信乃が言い終わる前に頼次は外に放り出され若溪の「はい終わり」の声と同時にガチャリと扉が閉まった。


「流石、嫌らしいやり方だな。いっそ惚れ惚れするぞ」

「見てただけの人に言われたくないわね」


 顎を上げて若溪がふんと鼻を鳴らすと、寿太郎も片眉を上げてせせら笑う。

「俺が手を出したら死んじまうだろ」

「二人とも物騒な冗談はやめてください」


 剣呑な雰囲気で寿太郎を見返している若溪に信乃は「本当に?」と呟いた。


「さてと体力馬鹿さん。来週の計画書よ。ここで読んで覚えて。声に出さないでよ」

 寿太郎は書類に目を通すと、不機嫌な顔で若溪に書類を叩き返した。


「荒事になるかもしれないのに、先生を連れて行けっていうのか?」

「事務所に作品が保管されているのかしら?」

「私は鑑定できませんよ?」


 信乃が言うと若溪が細く白い首を傾げた。

「え、そうなの? ならどうしてかしら」


「すでに泥縄じゃないか。下調べは済んでるんだろうな。返り討ちとか洒落にならないぞ」

「それくらいしてるわよ! これでも青幇チンパンの幹部なのよ」

「これでもって、自分で言うなよ。それはそうと一日仕事になりそうだけど先生は大丈夫なのか?」

「わかりません。それに何かあっても連絡方法がありません。鳩でも飛ばすつもりですか」

「その辺はなんとかするさ」


「まるでロメオとジュリエットね。私の家も変わらないけど」

 若溪は寿太郎から書類を受け取って言う。

「あんたが深窓のご令嬢?」

「見て分からないかしら。この溢れ出る気品」


 お互いの隙を伺って両手を構える二人を余所に信乃は空気を読まずに言った。

「私はそろそろ自宅に帰らねばなりませんので。皆さんご機嫌よう」

 言い終わった時には扉は閉まっていて、慌てたのは寿太郎だ。


「私よりよっぽど深窓のご令嬢じゃない」

「ある意味間違ってねえけど。先生待って!」


 玄関を出て直ぐ寿太郎は大きく息を吸い込んで叫んだ。

「信乃先生!」

 夕闇にもう随分と薄くなった影が止まった。茜色に半分染まった顔がこちらを振り向く。


 寿太郎は全速力で信乃に追いつくと、息を切らせて言った。

「言い忘れてた。有名画家の息子だからとか、特等だったからじゃなくて、俺はあの絵だから欲しかったんだ」


 もう少し日が落ちると表情も見えなくなるその一時、淡く緑に輝いた光に信乃の笑顔が浮かぶ。


「それで十分です。ありがとう」

「先生一つだけ約束してくれ! 一人で無理しないでくれ。あ、そうだ。俺に一枚絵を描いてくれよ。とびきりの奴!」

「二つになってますよ。気が向いたらですが」

「約束な!」


 寿太郎は信乃の背中が闇に消えてしまうまでじっと見送っていた。

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