第29話 頼むと頼まれては犬も絵を描く

 信乃は鮮やかな朱赤色の粉末が入った乳鉢を両手で捧げ持ち、硝子戸から差し込む光に透かしてみた。


 粉末は光の加減でキラキラと宝石のように輝いたり、或いはこぼれ落ちた鮮血の様にぬらりとどす黒く光ったりと見ているだけで飽きない。


「これが天然辰砂しんしゃか」


 他の乳鉢には緑色の粉末と青い粉末が入っている。それぞれ、緑青ろくしょうと群青だ。


 信乃しのは口元に三角巾を巻いて吸い込まないようにしていた。有害だからというのもあるが、どちらかというと息で高価な岩絵の具が飛んでいかないようにの方だ。


 鮮やかな色の使い所は難しい。鉱石の美しい色を活かすには混色にしてしまうのは勿体ない、しかしそのまま使うとなると錦絵や雷門、鳥居に神社の柱くらいしか思い浮かばなかった。


 ――分けてくれた飯塚さんには悪いけど、辰砂は扱いにくい画材なんですよね。


 辰砂は空気に触れると次第に黒色変化を起こしてしまう。劣化を考えると密閉容器に入れ直すか早々に使い切らなければならない。


「そうだブリキの缶なら。茶筒で代用できそうだ」


 水屋をごそごそと漁っていると騒々しい足音が近づいてきた。通り過ぎろという信乃の祈りも空しく襖は派手な音を立てて開いた。


義兄にいさん、大変だ。泥棒だよ!」

「襖はそっと開けてくれ。絵の具が飛んでしまう」


 乳鉢を集めて急いで木箱に片付けると、大股で近寄って来た頼次よりつぐが両手で座卓を叩いて喚いた。


「悠長に冗談言ってる場合じゃないよ。無いんだよ。うちの土地権利証が!」


 信乃は手を止めて口元を覆う三角巾を引き下ろした。

「どういうことだ。書類はお前が管理していたんだろう?」


 頼次は落ち着きなく身体を揺すりながら座卓の前を行ったり来たりしてしきりに手を揉んでいる。


 人は先に驚かれてしまうと、どうやら逆に冷静になってしまうらしい。信乃は木箱を部屋の隅に押しやって頼次に座布団を差し出した。


 水屋から湯飲みを取り出して卓に置き、鉄瓶から急須に湯を注ぐ。その間も頼次は忙しなく行ったり来たりしている。二番煎じだか三番煎じだか分からないほぼ白湯を注いで頼次の前に差し出した。


「とりあえず座りなさい。無くなったのに気付いたのはいつだ」


「昨日の朝にはあった。居間で帳簿付けをして片付けた時にはまだ一緒にあったから間違いない。その後はその……義兄さんの後を付いていったから知らなくて」


 ――付いて? 付けての間違いだろう。


義母かあさんは知っているのか」


 頼次は首を振った。

「わからない。きっと誰かが持って行ったんだ!」


「まだ泥棒と決まったわけじゃないだろう。義母さんが移し替えたかも知れないし」

「移動させる理由がないよ。あれ以上の保管場所はないし」


「お前が一番安全だと思っていた所から消えたんだろう? 盗まれる事などあり得ないなら、泥棒だと決めつけるのはおかしくないか」


「そう……だけどさ」

 信乃はいっそ聞かなかったことにしたかった。ただでさえ寿太郎絡みでややこしい事を二つも抱えてしまっていて、これ以上余計なことは考えたくもなかった。


 しかし、権利証となればそうも言ってはいられない。


 信乃は紛失した時間からして一番可能性のある人物に思い至ったが、先に頼次を落ち着かせることにした。


「今日は水曜日か。義母さんは駅前へ出ているはずだな。いつもなら戻ってくるのは正午過ぎ。まだ一時間程度はある。そんな顔するな。私も一緒に探すから」


 信乃は興奮している頼次の背中を撫でた。

 居間は中庭の離れを繋ぐ渡り廊下を越えてすぐの場所にある。

 最後に居間に足を踏み入れたのはいつだったか。

 父が亡くなり、義母に追い立てられるようにして離れに部屋が移されてからは、母屋に立ち入ることは滅多になくなった。


 居間は十五畳はある広い和室だ。

 床の間と和箪笥が一竿置かれており、一番奥には襖で仕切られた二間続きの仏間があり、信乃の両親の位牌がある。


 義母は法要を三回忌以降行っておらず線香の一本でも上げたかったが、信乃は今やるべきことを優先することにした。


「頼次、権利証はどこに置いてあったんだ」

「それは……言えない」


 聞いても答えないだろうとは思ってたが案の定だ。信乃は床の間の置物の裏や、うっかり置き忘れそうな箪笥の裏などを探した。部屋の隅に積み上げられた座布団の間まで探したが権利証は見つからなかった。


「帳簿と間違えて自分の部屋に持って行ったんじゃないのか」


 中廊下を挟んだ東側に三つの小部屋がある。それぞれ玄関に近い方から客間と義母の部屋、一番北側に頼次の部屋がある。


「それは無理だよ。最近は帳簿を付けるのにも母さんが居間にいる時にしかできなくなったんだ」


 信乃はまさか義母がそんな事まで管理しているとは思いもよらず、暫し言葉を失った。

 義母の目があるのなら頼次が持ち出して紛失することはあり得ない。


「ツグ――義母かあさんの部屋は探したのか」


 頼次は途端に顔色を失うとぶるぶると小刻みに震えた。

 信乃は居間の大時計を見上げた。もう正午を過ぎている。義母が戻ってくる前に離れに戻らなければ。


「頼次、私は部屋に戻らないと。お願いだ、どうか真剣に探してくれ。大事なものなんだ」

「わかってる……わかってるけど……でも」


 いかにも頼りない返事に不安が増したが、いつまでもここにいるのは良くない。

 信乃が部屋の敷居を跨いだ時、廊下先の暗闇からいきなり怒声が響いた。


「あなたたち、そんな所で何をやっているの!」


 荒い足音に信乃が後じさると、珍しく洋装をした八重子が手提げ鞄を持った手を襖に掛けて足音高く居間に入ってきた。


 その剣幕に慌てた頼次が信乃を押し退けて前に出る。

「母さん、ちょっと義兄にいさんに探し物を手伝ってもらってただけなんだ」

「一体何を探していたっていうの。こんな役立たずを連れ出して!」


「そ……それはその、帳簿と一緒に入れてたはずの権利証が見つからなくて」

 頼次は義母の前では一切の嘘を吐けない。臆病なのではない。長年の支配的な関係性はそうそう消えるものではないし、自ら断ち切るには余程の覚悟ときっかけが必要だ。


 信乃も同じ環境で育ったが、信乃は尋常中学を上がった時からなので、頼次よりは義母の癇癪を受け流せる。


「私がいない間に開けるなと言ったでしょう!」


 哀れな程に縮こまっている頼次に八重子が手を振り上げた。咄嗟に割り込んだ信乃の頬で思ったより派手な音が響いた。


 顔のほぼ半分がじんじんと痺れ、口の中に鉄臭い匂いが広がる。邪魔をされた八重子が信乃を睨み付けた。


「邪魔よ、退きなさい。それとも頼次が見つけたら掠め取るつもりだったの?」


 そのあまりな言い草に信乃は一瞬息を詰めてしまった。信乃は怯みそうになる足を踏ん張って腹に力を入れた。

「私が守るべきはこの家です。権利証を奪う理由などありません」


 八重子は信乃の言葉を無視して尻餅をついている頼次の腕を掴んで立たせると、引きずるように引っ張っていく。


 その時、八重子がちらりと仏間の方を見た。

 信乃は言うべきかどうかなど悩む間もなく口を開いた。


「義母さん、あなたが権利証を持ち出しましたね」


 頼次がはっと顔を上げた。義母と同じように仏間に視線を投げた頼次を見て、信乃は確信した。


 元は武家屋敷なので商家のように帳場箪笥があるわけでもなく隠し場所は限られている。変わり者で有名だった父が仏壇に何やら仕掛けを施していたのは信乃も知っていたからだ。


「やはり仏間に隠していましたか。大方、父が酔っ払っている時に仏壇の絡繰りを開けていたのを見たのでしょうけれど」


 義母は端正だが棘のある美貌を歪めた。


「権利証を譲渡した所で家督相続者の本人証明がない限り効力がないのはご存じですよね」


 信乃が淡々と告げると八重子は吐き捨てるように言った。

「お前がさっさと次の作品を仕上げないからよ!」

「――それで担保にしたんですか」


 目の前が真っ暗になった気がした。もし借りた金が返せない場合、信乃が自ら足を運んで実印を押すことになる。


「ちゃんと権利証の預かり証はあるわ。隠しているんでしょう?」

「何をですか?」

白茲あのひとの最後の真作よ」


 義母は一体いくら借りたというのか。須長すながは信乃の贋作では到底払いきれない金額だとして、最後にふっかけてきたのだろう。


「頼次、帳簿をここへ」


 突然名前を呼ばれた頼次は一旦八重子の顔を見、それから信乃の顔を見た。信乃の方が義母より余程厳しい顔をしていたのか、頼次は慌てて仏間へと入っていった。直ぐに藍色の分厚い和綴じの台帳を持って戻ってくる。


 信乃は受け取った台帳から先月質に入れた「瑞雲と白鹿」の項目を見つけた。三十円の入金。これは頼次の言った通りだ。別の行には信乃の教員の給金二十円も書かれている。普通に考えればこの屋敷一つ十分養える金額だ。


 支出の項目には食費、光熱費、電話代、屋敷の普請代、庭木の剪定、井戸さらい、通いの女中の給金など。それと月々の税の支払い……それらに特に怪しい所はなかった。


 その中で信乃は時折、十円の支出が書き込まれているのに気付いた。過去に遡ってページを捲っていくと、やはり定期的に支払いが発生している。


「この十円は何に使ったのですか」


 義母は派手な着物もあまり着ないし、洋装と言っても今着ている物と数着しかない。頼次も含めて外食をすることも滅多にない。一体何に使った金なのか。


 義母は臍を曲げてしまったのか一切喋らなくなった。信乃は苛立ちを隠せずに言った。


「最後の真作なんてありません。利息が嵩む前にお金を返して権利証を取り返してきて下さい」

「まさか、そんなはずはないわ。ちゃんとこの目で見たのよ。あの人が描いている所を!」


 口を開いた八重子の言葉に信乃は首を振った。


「見間違いでしょう」

「じゃあ、あんたが描きなさいよ! 知ってるわよ。あの人が描いてたのはほんの少しだけで、ほとんどがあんたの絵だったってこと」


「今後は白茲の本印は使いません。流派の工房作品としてなら多少のお目こぼしもあるでしょう」

「それだと高く売れないじゃないの!」


 信乃は首を振った。

「既に王手が掛かってるんですよ。お縄も時間の問題です」


「なによ、展覧会一つ出したことのない三文絵描きの癖に。バレたら全部あんたのせいだわ!」

「母さんやめてよ!」


 流石に言い過ぎだと思ったのか頼次が八重子の肩を掴むも八重子はそれを振り払った。よろけた頼次が座布団の山に背中から突っ込んだ。


「屋敷を維持するだけなら大金は必要ありません。私が復職して、頼次も外の仕事を探せば済むことです。穴倉で札束が舞い降りるのを待つ生活の方が惨めですよ」


 そう言って信乃が居間を後にすると、背後で八重子が何かを喚きながら鞄を畳に叩き付ける音が聞こえた。


***


 信乃は自室が離れにあることに感謝した。あのまま母屋に留まっていれば到底自分を抑えることは出来なかっただろう。


 義母が悪くないと言えば嘘になるが、元はと言えば、義母に請われるまま贋作を描き続けた自分が悪い。


 手軽に大金が手に入ることに慣れ切ってしまった。それを引き起こしたのは自分なのに、面倒な事に目を逸らし続けた結果がこれだ。


 ――自分で格子を下ろして天岩戸よろしく閉じこもってしまえば、いっそ何も見なくていいのに。


 信乃は離れの襖に手を掛けて隙間から見える格子戸を少し引き出してみた。


 最晩年、アルコールによる譫妄せんもうが激しくなった白茲は死の直前までこの離れで過ごした。暴れる成人男性を押さえるのは難しく格子戸に閉じ込めるしかなかったのだ。


 義母が借りた金額は五十円は下らないだろう。


 国内復古主義で波に乗った時の白茲の絵の最高価格は八十円。八十円と言えば古美術市場では日本画と版画の違いはあるものの、有名浮世絵師の――死後三十年に満たないとはいえ――価格を上回る。


 しかし、現在ではいくら白茲が幻の作家として蒐集家に有名でも、真っ当な美術商なら精一杯見積もっても四十円が関の山だ。

 それも質草にすれば三割程度の額しか手に入らない。


 だが、質草でなければ? 海外に流出する目的だったとしたら? 数倍の価格で売っても十分元は取れるだろう。


 だとしたら義母が金を返しに行ったところで権利証は戻っては来まい。それこそ白茲の真作を差し出すまで。


 ――そもそも、毎月の十円はどこへ消えた。


 考えることが多すぎて、いっそ寝てしまおうかと思った時、何やらガリガリと障子を引っ掻く音が聞こえてきた。


 またぞろ近所の野良猫でも入り込んできたのだろうと縁側に出た。以前、うっかり雨戸を閉め忘れて、朝起きると絵の具を踏んだ猫の足跡が畳や画仙紙にそこら中ついていたことがあったからだ。


 硝子障子を開けて縁側に立つと足下からはっはと獣の息づかいが聞こえてきた。


 見れば香ばしそうな焦げ茶色と玉子色の毛玉が短い四肢で踏み石によじ登り、濡れ縁の縁に小さな前脚を置いて千切れんばかりに尻尾を振っていた。


「カステラ――!?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る