第18話 瑞雲と白鹿

 仏間から戻ると信乃は畳にへたり込んだ。昔からあの部屋は苦手だ。


 どこで知り合ったのか、なぜ住所を知られたのかを散々問い詰められ、未練たらしく残してあった教師の名刺も全て火鉢に投げ入れられた。


 迂闊に名刺を渡したこと、自分を基準にして寿太郎の行動力を予見できなかったことは信乃の落ち度だった。


 八重子の機嫌は一日で直ることもあれば一週間以上の時もある。もし直ったとしてて何かにつけて引き合いに出されネチネチと責め続けられるのだ。


 信乃が盥に張った湯に足袋を浸け束子で泥を擦り落としていると、滑りの悪い襖が大きな音を立てて頼次が部屋に入ってきた。


 束子で足袋を洗っていると、バリボリという音に意識を引き戻された。座卓に肘を突いて頼次がかりんとうを食べている。呆れて「帳簿仕事に戻らないのか」と言うと、代わりに菓子盆を差し出してきた。


「帳簿つけは終わってる。あ、母さんにはしばらくは近づかない方がいいよ。手当たり次第に物をひっくり返して当たり散らしてる」


 後片付けをさせられるのは僕だけどと、頼次はうんざり顔で淹れ立ての茶を啜る。信乃は濯いだ足袋を手拭いで挟んで水気を飛ばし張り板代わりの雨戸に立てかけて言った。


「それでお前が私の監視をさせられてるのか」

「あいつの事を話してくれたら出て行くよ」


 そう言って頼次がまたかりんとうを口に放り込む。信乃が話すまで離れから出て行かないらしい。


「――あの男は高村寿太郎。和蘭陀人。帝国博物館に行こうとして公園で迷子になっていたのを助けただけだよ」

「やっぱり異人か。 本当にそれだけ?」


 信乃の説明に納得がいかなかったのか頼次が部屋から出て行く気配はない。

 作業用の座卓の上に敷きっぱなしの羅紗の下敷きを捲り、隠してあった骨書きの終わった絵を取り出す。卓に筆や小皿、梅皿、すり鉢を並べ、ついでに小鍋に膠を入れて、いかにも今から作業を始める演出を付け加える。


「今日中に下塗りを終わらせておきたいんだ」

「静かにしてるから気にしないで」

 どうあっても動かないつもりらしい。


「その下絵、義父さんの図案帳にあった絵だよね。なんでそんな古い絵を描いてるの」

「鉛白がなくなったから別の絵に変更したんだ。図案帳にある絵は古いけど未発表ではないから、新作だと騒がれることはないし」

「白なら胡粉じゃ駄目なの?」


 頼次も小さい頃は父から絵の手ほどきを受けていたが信乃と違って描くことにはまったく興味を示さなかった。それでも絵を嗜まない人よりは遙かに詳しい。


「同じ白でも鉛白を使っていた作品の方が華やかで評判はいいんだ」

「鉛白ってあの『瑞雲と白鹿』か。確かにあれは高く売れたみたいだよ。なにより母さんの機嫌が良かった」

 頼次が算盤を弾く手つきをして満足そうに頷く。


「頼次は横濱税関で未発表作が見つかったと新聞に出ていたのを知っていたか?」


 頼次は菓子盆に伸ばした手を止めた。急に厳しい目つきで胡坐をかいた足先を揺する。


「もしかして税関で見つかったのは『瑞雲と白鹿』なの? あれは義兄さんが全部描いたやつだよね」

「あの絵だけは今までの作品とは違う。義母さんは幾らで質屋に売ったんだ」


 信乃の問いに頼次は目を逸らすと鼻の頭を指で擦った。

「頼次、帳簿を見せてくれないか」

「駄目だよ。母さんに怒られるよ」

「帳簿はなくともお前はあの絵がいくらで売れたか知っているはずだよな」


 頼次は日和見で流されやすい性格だが嘘つきではない。信乃に見据えられて頼次は居心地悪そうに尻をもぞもぞと動かした。


「……三十円だよ」


 相場より五円以上も高い。質屋では真作も模写も複製画も同じ条件で査定されるが、質入れは七掛けが通常だ。


「でも義兄さんが描いた絵なんだし贋物じゃないだろ」

 それならなぜ義母は街の画廊に持ち込まないのか。弟子だけで描いた絵は安いと知っているからだ。


 深山家に白茲の完成品はもうない。売り切った後、描きかけの作品に加筆して完成させたものを質に流していただけだ。それは工房作品としてなら問題がなかったからだ。


「工房作品でそんな値段は聞いたことない。海外に横流しをしていたんだろう。下書きがあっても未発表作品を流すべきじゃなかった」


 やはり自分の知らない所で贋作へとすり替えられていたのだ。


「義兄さんは税関から絵の照会を心配してるんだ。そんなの質屋に振ればいいんだよ」


 それでも信乃は首を振った。

「しばらくは新しい題材は描かない方がいい。丁度、絵の具もなくなったことだし」


 頼次は唇に挟んだかりんとうを上下しながら唸った。

「母さんは売れる方を描けと言うに決まってる。今はよくてもいつか鉛白が必要になるよ」


 小銭稼ぎの小品ばかりを描いていては、いずれ立ち行かなくなるのは目に見えている。

 制作途中で絵の具が手に入らなくなるなら鉛白を使わない作家が増える。そうなれば市場から消えるのも時間の問題だ。


「製造量も減ってるらしいから、どこかで手に入れるまでは急かされても小品で御茶を濁す程度しかできないよ」

 実際、白茲の古い作品の中でも鉛白を使っていないものの評価は芳しくない。


「あまり目立つことはしない方が――」


 その時、庭の隅で何かが動いた気がした。


「ツグ、障子を閉めて。早く!」

 信乃が指差すと頼次は部屋から飛び出し、後ろ手に障子を閉めた。だんっと濡れ縁を踏みしめる音に続いて、ばしゃばしゃと水を跳ね上げる音が聞こえる。信乃も急いで羅紗布を絵の上に掛けて隠す。


 跳ね上がった心臓を落ち着けていると、濡れ鼠になった頼次が息を切らせて戻ってきた。

「誰も居なかった。念のため閂は掛けてきたし大丈夫だと思う。ああ、ずぶ濡れだよ」


「雨だからと油断した。気をつけるよ」

 鬱陶しい雨でも信乃にとっては障子を開け放てる唯一の日だ。頼次は風呂を沸かしてくるとだけ言って離れを出ていった。

 信乃は頼次のために部屋を温めるついでに土鍋で板膠を溶かそうとして手を止めた。


 障子を開けて縁側に出ると視界の端で葉影が不自然に揺れている。

「誰ですかなんて、聞きませんよ」

 がさがさと音がして生い茂ったツツジの木の影からずぶ濡れの男が出てきた。


「そんな所で何をしてるんですか」

「あー……裏口が開いてたんで。しかも門を締められてしまって、この通りだ」

「開いていたら勝手に入るんですか」


 黙り込んだ寿太郎に信乃は嘆息し「傘は差した方がいいですよ」と言って部屋に戻る。


 信乃は母屋に繋がる襖を閉め、少しでも頼次の足止めができるよう下絵を足の踏み場がないほどに広げる。部屋の細工を済ませると新聞紙を縁側に敷いて寿太郎に手拭いを渡す。


「頼次が戻ってくるまでに出て行った方がいいです。今度こそ本当に通報されますよ」

 今から風呂を沸せば一時間はかかる。それでもいつ戻ってくるか分からない。


「それは困るけど、どうしても確認したいことがあったんだよ」

 寿太郎は濡れて色濃くなった赤毛を絞っている。手拭いで吸い切れなかった滴がぼたぼたと肩に落ち上等そうなスーツが台無しだ。


 信乃は寿太郎の前に端座して正面から見据えた。

「何を知りたいんです。ご覧の通り深山家は没落士族です。財産など何もありません」


 精一杯の牽制をしてみたものの寿太郎に効いた様子はない。それどころか寿太郎は手を止めて信乃の目を見返してきた。


「深山白茲って信乃先生の親父さんだよな」

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