第17話 招かれざる客

 夕暮れ、信乃が自宅に戻ると大きな男物の黒革靴が玄関に揃えてあった。八重子の客ならと、信乃は玄関から上がらず直接離れへと向かう。


 離れに戻ると信乃は火鉢の炭を火箸で掘り返し、汲み置きの水が入った飴色のやかんを五徳に乗せた。水はすっかり冷めていて沸くまではしばらく掛かりそうだ。


「頼次、そこにいるのなら火鉢を見ててくれ。たらいを持ってくる」

 信乃が戻ってきてからずっと見ていたらしい頼次に言った。

「僕が取ってくるよ。義兄さんも帰ってきたばかりで疲れてるだろ」


 信乃が訝しげな顔をすると頼次はかなり苦しい言い訳をした。本当に親切心だとしても義母に見つかれば頼次に雑用をさせたと思うだろう。信乃は首を振った。


「母屋にはいかないから大丈夫だ」

 頼次をどうにか部屋に押し留めて、信乃は屋敷の奥にある裏庭へと向かった。


 使い古した唐傘を開いて苔だらけの裏庭に降りると、雨粒の当たった油紙がバラバラと騒々しい音を立てる。信乃は井戸小屋で一番小さな木枠の洗濯盥を見つけ束子たわしを放り込む。


 その時、母屋に繋がる渡り廊下から言い争うような声が聞こえてきた。

「厠はそっちじゃありませんよ!」

 義母の外面の良さは筋金入りで、客がいる時に声を荒げたりなど絶対にしない。信乃は耳をそばだてた。


「へえ、離れって敷地内にあるんだ。ブケヤシキって面白い造りだな。でも似たような畳の部屋ばかりで分かりにくい」

「突然押しかけた上に人様の家に難癖をつけて、失礼極まりないですよ!」


 薄暗い中廊下に目を凝らすと大きな人影が渡り廊下へと飛び出してきた。

「あっ、先生、久しぶりだな!」


 信乃は傘と盥を持った少々間抜けな格好のまま素っ頓狂な声を上げた。

「なんで君がここにいるんですか!」

「先生に大事な話があるって言ってるのにマダムが全然話を聞いてくれなくてさ」


 未だ混乱している信乃が口を開く前に、八重子の方が先に信乃に詰問した。

「信乃さん、あなたがこの失礼なエセ役人を家に呼んだのかしら?」

 八重子は眦を吊り上げて握った両手を震わせていた。信乃が雨の降る裏庭にいなければ、とっくに張り倒されていただろう。


「いえ、勝手に――役人って誰がですか?」

「エセって酷いな。事前に電話もしたんだ。でも電話をマダムに切られてしまってさ」


 険悪な空気に気づいたらしい寿太郎は、八重子に慌てて向き直ると弁解をした。


「用件は本当ですって。信乃先生が現在のご当主だと聞いて絵画の真贋をですね――」


 片頬を引き攣らせている八重子は強烈な不快感を押し殺しているらしかった。しかし八重子はその怒りを爆発させることなく二、三回深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、鼻を鳴らして言った。


「まだ居座るのなら通報しますよ。頼次、お客様をお見送りして!」

 八重子の怒声に離れの襖から顔を半分だけ出していた頼次が慌ててすっ飛んできた。


「お前はこの前の変な奴。家まで押しかけてくるなんて非常識だろ。さあ帰った帰った」

 頼次は自分よりも頭一つ分は高い寿太郎の襟首を掴んで廊下を引っ張っていく。


「まだ用事は終わってないって」

「それが迷惑だって言ってんだよ赤毛野郎!」

「いつ先生が迷惑だなんて言ったかよ。なあ信乃先生!」


 信乃は縋るような目を向けてきた寿太郎に何か言おうと口を開いたものの、義母と寿太郎を見比べ、何も言わずに傘を前に傾けて彼の視線を遮るしかできなかった。


「何をしているの信乃さん。それを置いて今すぐ仏間に来なさい」

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