第16話 書画材梅幸堂

 駅近くの大通りはまだ本降りではないせいか人通りは多かった。信乃はカフェーで談笑する有閑夫人を眺めながら市電の線路に沿って歩いていく。幾つかの筋を越え、煉瓦造りのこぢんまりとしたビルに入る。コウモリ傘を畳んで薄暗い亜麻色のリノリウムの廊下を歩くと濡れた雨草履がぎゅっぎゅっと鳴いた。


 その廊下を突き当たりまで進むと、書画材梅幸堂と書かれた焼き杉の看板を見つけた。

 扉を開けると狭い店内の棚の後ろからお下げ髪の女の子がひょいと顔を出した。


「あ、深山先生いらっしゃい!」

「みんな元気にしてる?」と訊くと女の子は新しい学級の事を楽しそうに話した。新任の先生とは仲良くやっているらしい。


「あ、あんまりおしゃべりしてちゃ駄目だね。お婆ちゃん、先生が来たよー」

 女の子が奥に引っ込むと代わりに顔馴染みの店主が出てきた。老婆は前歯の抜けた口でもごもごと言った。


「先生、お久しぶりやねえ。今日は何ぞお探しに来たんですかいな」

「こんにちは。鉛白はありませんか。随分前に頂いたんですけど切れてしまって」


 老人は腰を叩いて伸ばすと「最近は入荷がないんよ」と言った。

「そうですか、困ったな……」


 信乃は岩絵具の小瓶が所狭しと並んだ戸棚を見回すと、鉛白の所だけがぽっかりと空いている。渋い顔をしていると店主が言った。


「白いんなら胡粉でいけますやろ。油彩かて『しるばーほわいと』なんぞ使わんでも舶来のええ画材が増えてきましたさかい、そない無理して古くさい画材を使わんでもええんとちゃいますの?」


「胡粉は色合いが少し違うので……」

 信乃がまだ棚を見ていると、店主は老眼鏡を鼻先にずらして上目遣いに信乃を見る。


「白粉はもう使たらあかへんって言われて長いこと経ちますやろ。調子悪ぅなさった歌右衛門様のこともありますよってな。絵の具かてまだ売るなて言われてまへんけど、仕入れましたわ売れまへんでは困るんですわ」


 店主の本音なのだろうが信乃も譲れなかった。帳簿を付け始めた店主の注意を咳払いをして引くと、都合の悪いことには耳の遠い店主にも聞こえるように声を張る。


「どうか一ダースだけでも取り寄せてもらえませんか。少々高くても絶対に買いますから」


 老婆は台帳を捲る手を止め、ちびた鉛筆を簪のように束髪の中に差し入れてゴリゴリと頭を掻いた。


「堪忍してや。銭の問題やのうて問屋にもあらしまへんよって。神田の大店辺りで探すか誰ぞ優しい御仁にでも譲ってもらいなはれ」


 長い付き合いの店主にはいつも無理を聞いてもらっていたが、その店主がここまで言うのなら本当に手に入らないのだろう。


「無理言ってすみません。また来ます」

 諦めて店を出ようとすると、しゃがれ声が引き留めた。もしやと思って振り向くと店主は抜けた歯茎を剥き出してにっと笑った。


「先生、折角来たんや。画仙紙の一枚でも買うていきよし」

 信乃は黙って棚から膠の束を一つ取ると勘定台にそっと置いた。


 画材屋を出ると雨足は一層強くなっていた。大通りも泥濘みが出来はじめていて、少し歩いただけで白足袋が泥はねだらけになった。せめてもと慎重に歩いていると、革靴を手に持った裸足の男がバシャバシャと水溜まりを踏み抜きながら信乃を追い抜いていった。


 信乃は雨宿りついでに百貨店に立ち寄ることにした。少々狭いが画材売り場もあったはずだ。


 一階は色鮮やかな舶来のパラソルを広げて物色する小洒落た客たちや、明らかに雨宿りをしているだけの人たちでひしめいていた。


 濡れた羽織が人に当たらぬよう隙間を縫いながら歩いていると、姿見の中に時代後れな黒コウモリ傘を持った草臥れた着物姿の男が映り込んだ。信乃はできるだけそれを見ないようにしながらエスカレーターに向かった。


 美術品を扱っている五階につくと、そこにも鉛白は売っていなかった。最近は主力を洋画材に切り替えたのだそうだ。百貨を扱うと謳っているのに肩透かしを食らった気分だ。


 ――神田へはまた今度行くか。


 一階に降りると玄関は大混雑だった。背伸びして見れば黒い大きな車がべったりと横付けして玄関を塞いでいる。警備員を探して見回すと、後部座席の窓から大陸風の服を着た女が顔を出した。


請問一下チンウェンイーシァ。この辺りにスーチャン洋行商っていう会社ありませんカ?」


 どうやら信乃に尋ねているらしい。社名に聞き覚えはなく信乃は首を振った。


「いえ、知りません。向こうの交番で聞かれたほうがいいと思いますよ」

「イイ男に案内してもらおうと思ったのに」


 信乃はその女性に頭を下げ、車を傷つけないよう脇をすり抜けてから傘を開く。


「またお会いしたらお茶でもしましょう哥哥おにいさん


 信乃は走り去った車をどこかで見たような気がした。車などどれも黒いカブトムシで、何となく似ていただけだろう。


 雨の中、信乃は白茲の絵がなぜ横濱税関で見つかったのかを考えながら歩いていた。


 八重子が質に入れた作品は国内で流通しているとばかり思っていた。信乃の描いた贋作は一旦質に入れられ、そこで白茲の真作に変わる。恐らくその先のどこかで偽の鑑定書が添付されて海外へ流出したのだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると半ば崩れかけた漆喰塀が目に入った。いつの間にか家のすぐ近くまで戻っていたらしい。


 ――美術品の海外流出などとご高説を垂れておいてこれか。


 結果的にだとしても、真作とも贋作とも付かない物を海外に売って国内外の美術界を混乱させている事に一枚噛んでいたとは滑稽にもほどがある。


 水を吸った襦袢が重く足に絡みつく。

 潮時はとっくに過ぎてしまっていた。


 いっそ激しい雷雨であれば、誰かが罰を下すのではないか。泥濘の中に顔を押し込み、お前が選んだのだと断罪してくれるのではないか。もしくは、お前は被害者なのだと甘い言葉を与えてくれるのではないか。


 だらだらと降り続ける雨はとても止みそうになく、信乃は鉛白の仕入れ先だけを考えることにした。

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