第19話 カタログ・レゾネ

「――それを知ってどうするんですか」


 射貫くような視線は寿太郎の雨に濡れた体を一層冷たく感じさせた。完全に何かを踏み抜いてしまったようだが、ここで引いては何のためにここに来たのか分からない。寿太郎は気圧されないように腹に力を入れた。


「レストランで見た新聞に白茲の新作が見つかったってあっただろ」

 信乃は姿勢を正したまま口を挟まず、じっと耳を澄ませて聞いている。


「気になって白茲のこと図書館で調べてみたんだ。だけど全然分からなくて、それで親父に聞いてみたんだよ」

 小さく「嫌だけど」を挟んだ寿太郎に信乃は長い沈黙で返した。

 寿太郎は先日の重雄との電話内容を思い出しながら、信乃の言葉を待つことにした。


 それは寿太郎が深山家に電話をして、八重子に通話を切られた後のことだ。

 寿太郎は定期連絡を兼ねて父の重雄に電話をした。小言の嵐が過ぎるのを我慢して待つと、咳払いが聞こえ、パラパラと紙を捲るような音がした。重雄は情報は少ないがと前置きをしてから言った。


『深山白茲、本名は深山久仁信くにちか、明治二十二年帝国美術学校入学、大正六年没、小藩のお抱え絵師の家系とあるな』

「家族構成とかは分かる?」

『日本の画家はまだ作品総目録カタログ・レゾネもなく展覧会情報だって収集し切れていない。だが、個人的には白茲を見たことはあるな。確か息子が一人いたはずだが、詳しい事は知らん』


「じゃあ本当に出回ってる情報ってそれだけなのかよ。電話して損した」

『損とはなんだ。幻の天才画家という触れ込みで売っているなら尚更詳細など出さんよ』


 上手い宣伝文句スローガンで釣るのは商売の常套手段だが、その程度の画家だったのだろうか。

「博物館にも収められていないし、好事家だけが買うような感じか」


 寿太郎も新聞記事で白茲の事を知り「瑞雲と白鹿」の粗い白黒図版を見たきりだ。


『生前から注目度は高かったが、いつの間にか画壇から姿を消した。美術館にあるものだけが価値ある物とは限らないぞ』

 父親とは顔を合わせると反発ばかりだが、機械一つ挟むだけで格段に話しやすい。重雄もそう思ったのかいつもより饒舌なようだ。


『噂だが白茲は描いた絵を自ら売っていたそうだ。しかも気に入らない相手には一切売らない偏屈でな、贋作の噂が多いのは蒐集家同士のやっかみもあるらしい』

「なんだか気難しそうな人だな」

『画家なんてそんなもんだ。他に聞きたいことはあるか』


 今日はかなり機嫌がいいようだ。ここで乗っておくのも悪くないと更に質問をしてみる。


「東城の翁は東城白水か?」

 しばらく沈黙が続いた。


『翁とは大戦前に一度だけお会いしたが、その頃には既に目は不自由で絵は描いてはおられなかった』

 重雄ははっきりとは答えなかったが、それで十分だった。


「通りでパトロンっぽくないと思ってたよ」

 寿太郎は廊下に飾ってある品の良い油絵を眺めながら言った。


『翁は絵画の蒐集家ではあるが、誰のパトロンにもならないと公言されている。これ以上翁の事を探るのはやめておけ』

「どうしてなんだよ」

『この国で商売が出来なくなる。大事なのはプライドより飯のタネだからな』


 そこはプライドを持てよと言いたかったが、翁はこの自信過剰な父親が逃げ道を作っておくほどの人物だということだ。

 余計なことに首を突っ込むな。今度は船底に閉じ込められるだけでは済まないぞと言われ寿太郎は「なるべくそうする」と言って通話を終えたのだった。



 寿太郎が数々の小言を思い出して苦い顔をしていると、ようやく信乃が長い沈黙を破った。心なしか硬かった表情が少しだけ解れている。


「白茲が私の父だということは特に隠してはいませんよ。お父上は他に何か仰っていましたか」


「いや、親父も新聞の内容以上の事は知らなかったな。そもそも取り扱ってないって言ってたし。俺が聞いたのは白茲自身の噂くらいだ。数が少ないから贋作の噂が多いってことだけ。つまりお手上げ」


「それで直接、私の所に来たんですか」


 寿太郎はびしょびしょになってしまった手拭いを縁側から手を出して絞りながら頷いた。


「ちゃんと先に電話で連絡を入れたんだぜ。しかしあのバ……奥様マダムに名刺を見せても全く効果がなくて弱った」


「義母は一見社交的に見えますが明治の女ですからね。排他的で変わったことを極端に嫌います。それで私に何の用事だったんですか。父の名前を確認しに来たただけじゃないでしょう」


「贋作の疑いがあるってことはさ、真作の行方はまだ分からないんだろ? それで先生と協力して探し――」


「無理です」

「まだ全部言ってないって」


 真作を探すことは贋作の証明にもなって、贋作調査をしていると伝えるより印象がよさそうだという魂胆からだった。


 そこから一気に切り崩そうとしたものの信乃の方が一手早く、寿太郎の目論みは即座に砕かれてしまった。

「無理なものは無理です。つい先日は無職だと言っていたはずでしょう」


 寿太郎は待ってましたとばかりに内ポケットから名刺を取り出して信乃に渡す。信乃は濡れて萎れた角を指で摘まんで几帳面に伸ばすと小声で読み上げた。


「文部省専門学務局特別調査部美術班? そんな部門があるんですか」

「正真正銘オヤトイ様だな。今の所、俺しかいないけどな」

「まさにコネクション全開ですね」


 寿太郎の自嘲にあえて被せてきた信乃に、寿太郎は乾いた笑いを返した。


 信乃は訝しげに名刺をひっくり返しては、ためつすがめつ観察している。内容は胡散臭いが、名刺の素材と型押しされた省庁の紋は鴨井が用意した本物だ。ぱっと見では分からないだろう。


 ――でも信乃のおばさんが言ってたエセ役人ってのも、あながち間違っちゃいねえんだよな。


 観察し終えた信乃は名刺を返してきた。寿太郎はそれを手で押し返す。何度か無言の応酬を繰り返したがどうしても受け取ってもらえず、寿太郎は仕方なしに名刺をポケットにしまった。


「協力は内容によります」

「ほんと!? じゃあまた会える?」


 信乃は即座に首を振った。

「先ほども見たでしょう。私はあまり自由に家から出ることができません」


 重雄から聞いた白茲の性格と信乃は違うと思ったが、この頑固さはやはり親子だ。寿太郎は少々意地になって言い返す。


「まさか子どもじゃないんだしさ。それに当主なんだろ、近くのお姉ちゃんたちに聞いたよ」


 思いのほか良い答えが返ってきたので、つい調子に乗って聞き込みを白状してしまった寿太郎に信乃の顔が曇った。


「道を尋ねたついでにちょっと聞いてみただけだよ」


「何を聞いたのか想像はつきますけれど。義母ははは昔からああいう人なんです。人目とか体裁とか、とにかく理由がないと無理です。それも彼女にとっての正当な理由が」

「なんだよそれ」


 あの夫人が納得するような理由などあるのだろうか。訪問は駄目、電話も駄目、恐らく手紙も信乃の元に届くまでに破棄されるだろう。しかし、この機会を逃してしまえば町で偶然会う以外の手段が絶たれてしまう。


「あのさ、踏み込んだこと聞いて悪いけど信乃先生自身はどう思ってるの。その――この家での扱いとか、さ」

「私……ですか」


 予想外の質問だったのか、信乃はぽかんと口を開けたまま固まっている。


「家長なんだろ。黙らせることだってできるはずだろ。なんなら家を出てもいい」


「私に出奔しゅっぽんしろとでも言うのですか。血は繋がっていなくとも親ですし、年長者の言いつけを無碍むげには出来ません。それに私にはこの家を守る責務があります」


 信乃はそうはっきりと告げた。だが、その表情には自嘲するような笑みと、今にも泣きそうな表情が混在していた。


 そんな顔を見せられては寿太郎もどうにかして考えを改めさせたい意地の悪い気持ちがむくむくと沸き出してきてしまい、結果、言葉を重ねることを止められなかった。


「あんな奴らのためにか? そもそも家って、あいつらのことか、それとも土地とか屋敷のことか」


「どちらも、です」

 歯切れ悪く答えた信乃を見て、それで寿太郎は前のめりで彼を責め立てていたことに気付いた。


 自分は信乃に協力を仰ごうとしていたはずだ。なのに当の本人を追い詰めてどうする。

 寿太郎は固く握った拳で膝を打つと「また来る」と言って立ち上がった。信乃が身じろぎする気配がした。


「次はありません」

 信乃は強い言葉とは裏腹に消え入りそうな声で言った。


「ごめん。先生を困らせるつもりは無かったんだ。ああ、ちゃんとした理由は言ってなかったよな」


 寿太郎は一度開いた口を閉じて細く息を吐いた。

「親父の伝手で紹介された仕事でさ。俺が探してる絵の情報を親父にもらう約束をした。でも、行き詰まってしまって、その、先生に協力してもらいたいくて」


「それが……この家を引っかき回した理由なのですか」


 正座の膝に置いた手をぐっと握り締めて言う信乃の声は震えていた。

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