第12話 内務卿の依頼
翁から預かった封書には簡単な地図が添えられていた。
「すごいお屋敷ばかりだな」
一張羅を着てきたつもりだが、少々不安になってきた。今更ながらにスーツの埃を払って子犬の毛が付いていないか確かめてみる。
宮城に近づくにつれ一つの屋敷の塀の長さがどんどん長くなっていく。銀灰色の本瓦が一際眩しい通りを折れて私道に入ると、目的の屋敷に到着した。
「これが家? 寺じゃないのか」
寿太郎はメモ書きを取り出して見直す。
入り口にはまるで城のような巨大な瓦屋根の門がそびえ立ち、背伸びをしても中を窺うことはできなかった。表札も無いため大門の前でうろうろしていると、小門の横の小窓から男がぬっと顔を出した。これ幸いと寿太郎が近づくと男が制帽を被りながら慌てて飛び出てきて「ここは立ち入り禁止だ」と立ち塞がった。どうやら門衛らしい。
「内務卿に東城伯爵から手紙を預かってきました高村寿太郎と言います」
寿太郎がそう言うと、門衛はポケットから紙の束を取り出し何枚か捲って頷いた。
「ああ。では中へどうぞ」
手紙さえ渡せば終わりだと思っていた寿太郎は、門衛に軽く頭を下げると、おっかなびっくりで小門を潜る。
ご大層な門の中は回遊式の日本庭園になっていた。
池には一等目立つ赤い太鼓橋が架かり、庭園を囲むように建物が建てられている。
真ん中に見える一番立派な建物が母屋だろう。門衛は池を迂回し、なまこ壁の蔵が建ち並ぶ小道を通って母屋の玄関先で立ち止まると「こちらでしばらくお待ちください」と言い残して戻っていった。
程なくして母屋の中から太い縞模様の和服を着た女中が出てきた。
女中は玄関から出ると腰を低く落としたまま、屋敷の奥へと寿太郎を案内した。母屋横の小道を抜けると玉砂利と青石が配された美しい中庭に出る。
中庭は沈丁花の香りで満たされていて、つくばいに張られた水には満開のコブシの白い花が雪のように映り込んでいる。欧州の庭園にも劣らない丁寧に作られた庭を眺めていると、背後でカラリと障子が開く音がした。
「君が高村寿太郎君かね?」
声のした方を振り向くと、渋色のチェックのベストに丸い銀縁眼鏡を掛けた学者風の男が縁側に立っていた。寿太郎は深く頭を下げる。
「はい。東城伯爵の使いで来ました。こちらが封書です」
「先に確認してもよいかね?」
寿太郎は頷いて封書を差し出した。男は封緘を丁寧に開いて手紙にざっと目を通すと、蓋付きのポケットに手紙をしまい込んだ。
それから寿太郎を検分するように見ると、西洋式に手を胸に添えて丁寧に言った。
「私はこの家の
寿太郎が思わず「おじいちゃん?」と漏らすと、鴨井が胸に下がっている金飾りを揺らして笑った。
「老中、家老などと呼ばれる職ですな。
「とても偉い人なのは分かりました」
寿太郎が頭を下げると鴨井は軽く手を挙げ、
「堅苦しいのは苦手でね。まだるっこしい敬語も不要だ。時間がもったいない」
と言って庭下駄を引っかけると縁側から庭へと降りてくる。
実利的な考えは分かり易くていい。現場で動く寿太郎のような人間にとっては有り難い存在だ。
「応接間でなくてすまないが、さっそく本題に入ろうと思う。内務卿様からのご指示はある作家の贋作調査だ」
応接間に通さないということは客人扱いはしないという意思表示だ。
――手紙の配達は建前で、俺自身が届け物ってわけか。
まったく翁に一杯食わされた。親父といい親指の上で世界を回す奴ばかりだ。
寿太郎は早速渡された目録を開くと、そこにある名字を見て眉を上げた。
透かし入りの奉書紙には経歴、主な作品名も併記されていたがそれだけだ。依頼内容など一つも書かれていない。
寿太郎が唸っていると、鴨井がカラコロと庭下駄を鳴らして歩きながら言った。
「先日、新聞で未発表の作品が見つかったという画家だ。あの絵は少し疑わしくて真贋の鑑定中だ。出所もよく分かっていない状況でね」
「それを俺に?」
「そうだ。他にも出回っているらしいのだが、先日の横濱の一斉捜査で捜査員の面が割れてしまってね。補充として信頼できる人間を探していたのだよ」
――信頼か。俺が何か
「一月だが給料は出るし追加の報酬の用意もある。それと、こちらの都合で申し訳ないが諸経費は内務省宛ではなく内務卿個人にして欲しい」
「役人なのか役人じゃないのかどっちなんだ?」
「雇い主は内務省だが、建前上は文部省職員だ。臨時ではあるが警察官に準じる待遇だ。権限もある程度は与えられている。悪くはないと思うがね」
「文部省だって?」思わず寿太郎は聞き返した。
「捜査するのは内務省だが、美術品の管理は文部省の管轄でね。ああ、それと今この時点で守秘義務が発生する。言動にはくれぐれも気を付けて頂きたい」
話し終えてからのこの仕打ち。最初から自分には拒否権などなかったわけだ。仕事内容もかなり曖昧でわかりにくい。
「そんな難しい仕事をまったくの素人の俺に? 具体的な指示もないし、これじゃあ何をしたらいいのか分からない」
鴨井は一際大きな飛び石の上で立ち止まると寿太郎を振り返った。背中で組んでいた腕を解くと欧米人のように肩を竦めた。
「君は正直だな。はっきりとはこちらから指示などできないということだよ。だから自由に動いてもらって構わない。素人目だからこそ見えてくる部分もあるだろう。肝心の犯人を取り逃がしさえしなければ、ね」
――その取り逃がしこそ自分が一番やらかしそうな気がするんだが。
寿太郎は不満を隠そうともせず下唇を突き出した。
「ご自由にって、犯罪者相手にこっちは素手なんだぞ。無茶が過ぎるだろ。お預かり扱いなんだったら、もう少し大事にしてくれてもいいだろ」
寿太郎が使い捨てを指摘すると鴨井は大笑いをした。
「気を悪くしたのならすまない。私も所詮、雇われの身だ。そうならないようにお互い頑張ろうじゃないか」
雇われ社長と一時雇いを同列にされても、寿太郎はどう返していいのか分からず、はあと頼り無い返事をした。
「それと、武器の携行は色々と手続きが面倒で許可できない。前段階の捜査で十分、犯人逮捕までは求めてはいない。それに君は
「たった一年だからそんなに期待して貰っても困るぞ」
「その一年で上官と同僚を十数人も病院送りにしたと聞いたが」
鴨井が顎を引いて丸眼鏡の上から鋭い視線を投げかけてくる。寿太郎はぐっと喉を詰まらせると盛大に息を吐いてから白状した。
「とっくに調べ済みかよ。確かに数人殴った。言い訳も何もない、その通りだからな」
「内容までは聞くまいよ。身元調査は私の仕事ではないからね。しかし処分の経緯は気になるから後学のために教えてもらまいか。君は重営倉入りを免れたそうだが一体どうやったのかね?」
「人聞きが悪いなあ。営倉は入ったぞ。親父の計らいで一ヶ月弱、船で檻の中さ」
鴨井は目を見開くと、顎に手を当てあり得ないと首を振った。
「我が国では営倉入りは長くても二週間、重営倉は三日だ。船の中で一ヶ月も耐えたのか。しかもそれが特別な計らいだって? 全く恐ろしい所だな
「どこの国だろうがそんなの普通じゃねえよ。まあ、営倉と言っても飯が不味いだけの鍵の掛かった船室だったし。そんな条件ですら俺にとっては願ってもない取り引きだったってだけ」
寿太郎はなんとも暢気に言ったが、鴨井は神経質そうに手の平で眼鏡を持ち上げた。
「ふむ、体力が余っているのは良いが、あまり派手に暴れられるとこちらも隠蔽に困る。ある程度までは対処もできるが、くれぐれも正体がバレないようにして欲しい」
「隠蔽……隠密行動……ニンジャだな!」
ぐっと拳を握り込んだ寿太郎に鴨井はまた眼鏡を押し上げた。心を落ち着かせる時の癖なのだろうか。
「往時は絵画改めというお役もあったがね。語感だけならスパイの方がよほど格好が良いだろうに」
「そうかな、ニンジャの方が粋だろ」と寿太郎が言い切ると、鴨井はとうとう耐えきれずに吹き出した。
――おっさん笑いすぎだって!
「すまないね。君の口から粋なんて言葉が出るとは思わなくて。では秘伝の巻物はないがこれを渡しておこう」
鴨井は懐から銀製の懐中時計を取り出し、寿太郎の手の平に載せた。蓋の内側には先ほどの手紙で見た内務省の徽章が、蓋の表側には何かの文様が彫られていた。裏返すとカタカナと幾つかの数字が刻印されている。
「身分証代わりだ。効果は絶大だが、あまり見せびらかさないように」
「つまりは印籠だな!」
寿太郎は銀時計の蓋を開け、鴨井に向かって捧げ持った。ひれ伏せと言わんばかりだ。
「その偏った知識は一体どこからなんだね」
「母さんだけど。そういう風に使うんじゃないの?」
「一応言っておくが、その紋を見せても誰も土下座なぞしないぞ。幕藩体制の世ですらそんな使い方はしていないし、ましてや今は文明明るき大正の世だ」
「なんだ。じゃあ終わったら返すよ」
途端に要らない物のように言った寿太郎に鴨井が眉根を揉む。
「返却は無論だが、紛失はもっての外だ。死罪とまでいかずとも厳罰対象になる。十分気をつけなさい」
鴨井のこれでもかという念押しに、さすがの寿太郎も直ぐさまジャケットのボタンホールにしっかりと懐中時計の金具を絡め、内ポケットに慎重にしまいこんだ。
「何かあったら鴨井さんに連絡すればいいのか?」
「連絡先はさきほど渡した目録に書いある。今後は全て電信で連絡を行い、君はもうこの屋敷に来ることはない。奉書紙の内容も厳重に管理、完了次第、適切な方法で廃棄すること」
その他、調査員の心得を織り交ぜた説明に寿太郎が頷くと、鴨井は右手を差し出した。
「それでは寿太郎君、是非とも良い報告を待っている」
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