第11話 子犬と手紙
まるで天気予報が外れたかのように女は言った。
「へえ、やるじゃない。なんだか変わった武術だけど、どこで習ったのかしら」
寿太郎は女の動きをじっと追いかけていたが、戦意がないのが分かると両手をひらひらと振って言った。
「武術? 半分我流だけどちゃんとした
「知らないわ、そんなヘンテコな武術もどき」
「いやいやいや、最新の和英大辞典にもちゃんと載ってるって。そっちこそヘンテコな技を使ってずるいぞ。それに俺はちゃんと教官から習ったんだ。一年だけど」
「辞書と何の関係もな――一年ですって!? それで私の古式武術を見切ったって言うの。これでも
驚く女に寿太郎は腕を組んで首を捻った。
「あんたすごく強いんだろうけど、それ本当に得意なやつじゃないだろ。俺にも見切れたからな」
「私の得意なのは棒術だもの。ほ、褒めたって教えてあげないわよ!」
女は口では文句を言っているが、その表情は嬉しさを隠しきれていない。
「いや、いらねーし。しかしあんた何者なんだよ。始末屋とかじゃないよな?」
「違うわよ。暗殺するなら入ってくる前にそうしてるもの。さっきだって本当は一撃必殺の技なのよ。ああ、そうだわ用事を忘れる所だったわ。はい、
翁は女中から受け取れと言ったはずだ。なぜこの女が封書を持っているのだろうか。寿太郎は女が差し出した封書を不審な目で見る。
――いや、それより今、さらっと一撃必殺とか言わなかったかこいつ。
不用意に近寄ってまた攻撃されてはかなわないと寿太郎が二の足を踏んでいると、女は「正真正銘、ホンモノよ」と言って封筒を振った。
余計に胡散臭いと思いつつ、寿太郎はあの慎重そうな翁が側に居ることを許している事実の方を優先した。
「わかった」
「あら、案外素直じゃない。もう少しお話したかったけど残念。では
「なんだって? おい、せめて名前くらい言っていけよ」
女は寿太郎の話も聞かずにさっさと玄関から出て行ってしまった。
屋敷から出て行ったということは、ここに住んでいるわけではないのだろう。あんな物騒な女が一つ屋根の下など命が幾つあっても足りない。寿太郎は打ち抜かれずにすんだ顎を撫でながら、庭木に提げておいた子犬を救出に向かった。
翌朝。横濱の自宅から大きなトランクケース二つに当面必要な物を目一杯詰め込んで東城邸に戻った。玄関を開けると執事服を着た壮年の男がホールに立っていた。
「お帰りなさいませ、高村様。わたくし東城家の執事長をしております
「は、初めまして……だよな?」
神経質そうな男は静かに頷いた。
「はい。まずは昨日の主人のお詫びを。翁の悪戯心でご挨拶ができませず大変失礼いたしました」
「飯塚さん、今日からよろしくお願いします」
しっかりと挨拶をした寿太郎に飯塚は上品な笑みを浮かべ、まるで手本のようなお辞儀をした。
「お部屋にご案内しますので、スーツケースをどうぞ」
「自分の分だからいいよ。重いし」
寿太郎は飯塚に案内されて二階に上がる。
飯塚がこちらですと扉を開くなり茶色い塊が寿太郎の
「うわっ! え、お前か!」
昨日の子犬はあんなにドロドロだったのに、すっかり綺麗になっていて心なしか毛並みもつやつやとしている。
「申し訳ございません。どうしても家に入ろうとするので、洗った女中たちがこのお部屋に入れてしまったようです」
子犬は口の周りが少し黒く、少し長めの毛はこんがりとした狐色で、腹側はごく薄いミルクティーの色をしていた。
「洗ってくれたのか。俺が世話するって言ったのにすみません」
「女中たちも楽しそうでしたからお気になさらず。不足のものがありましたらお申し付けください。朝食は食堂、夕飯は大広間でございます。こちらでお食事されても構いませんが、週に一度は翁とお話をして頂けますと、私としても嬉しく思います」
「わかった。言ってくれれば家の手伝いもするよ。体力は余ってるからさ」
飯塚からトランクを受け取ると、寿太郎は二の腕に手を当ててぐっと力を入れた。
「有り難いお申し出ですが、私どもの仕事がなくなりますので、高村様には子犬のお世話をして頂くだけで十分でございます。ミルクがご入り用でしたら厨房にございます」
――はは、仕事の邪魔だってことね。
「ありがとう。早速で悪いんだけどさ、こいつの寝床を用意したいんだ。犬小屋だと外になっちゃうからさ、子犬の間だけ」
飯塚が出て行くと寿太郎は宛がわれた部屋を見回してみた。他の荷物は追い追い自宅から持ってくるつもりだが、全部入れたとしても有り余るほどの広さがある。
横濱の仮屋敷が
寿太郎はトランクケースから引っ張り出した服の皺を伸ばしクローゼットに片付ける。
洗われてふわふわになった子犬は
「後で遊んでやるから噛むな、引っ張るな。ジャケットはこれしか持ってきてないんだぞ」
昨日、子犬を包んだコートは自宅の出入りのクリーニング店に出したためまともな上着が一枚しかない状態だ。
寿太郎は父親のクローゼットからくすねてきたシルクの赤い蝶ネクタイをトランクから取り出すと、子犬の首に付けた。
「おお、親父より似合ってるぞ」
指先を子犬の鼻に突きつけると、フンフンと臭いを嗅いでいるだけでまるで聞いていない。するとコンコンと扉を叩く音がした。
「高村様、飯塚でございます。入ってもよろしいでしょうか」
ノックの音に寿太郎が扉を開けると、先ほどの執事が、竹で編まれた籠を持って立っていた。
「着物を入れる
「ありがとうな。蓋も閉められ……冗談、閉めないって!」
困惑した表情の飯塚から行李を受け取ると、中にぼろ切れを敷き詰めて上からタオルを被せる。
中に入れると子犬は直ぐにタオルを見つけて玩具よろしく口にくわえて振り回し始めた。
「お前、少しは落ち着こうな……そうだ、飯塚さん。申し訳ないけど今日だけミルクをやってもらっていい? 今から行かなきゃいけない所があるんだ」
「構いませんよ。翁からのお仕事ですね」
寿太郎は頷くと、子犬に向き直ってびしっと指を差した。
「外出するけど、飯塚さんの言うことを聞いて、ちゃんと大人しくしてるんだぞ」
子犬は寿太郎の声には反応したがすぐに興味を失ってまたタオルで遊び始めた。
――こりゃ先が思いやられるなあ。
一頻り子犬と遊んだ寿太郎は下宿を後にしたのだった。
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