第10話 東城の翁
「誰かいませんかー?」
玄関ホールに入ると、どこかで蝶番が軋む音がした。ほどなく、階段下の扉から執事服を着た壮年の男が現れた。
目が悪いらしいのか杖をついている。そんな状態で執事の仕事が出来るのかと疑問に思ったが、とにかく人がいて助かったと寿太郎は声を掛けた。
「すみません。親父――
執事はピントの合っていない目を向けて「こちらへ」と言うと、意外にしっかりした足取りで寿太郎を案内した。
ホール右手の応接室に通されると、そこには一人の女が立っていた。
翁と聞かされていたのでてっきり老人だと思っていた寿太郎は困惑しつつもとりあえず頭を下げる。
美しい女だった。
短く揃えられた前髪から覗く大きな瞳、艶やかな黒髪をシニヨンに纏め、耳元には牡丹の造花を刺している。
七分丈の真っ赤な広袖の上衣に、襟の詰まったベストと足首まで届く長いスカートは同じ黒で、細かな
服装だけなら、どう見ても中国人にしか見えなかった。
親父は「うまくやれ」と言ったが、まさか挨拶から躓くとは思わなかった。
「あの……」
日本の作法すらままならないのに、相手が中国人ではまったくのお手上げだ。
――初めましてって中国語でなんていうんだ? くそっ、
寿太郎がまごまとしていると、女は寿太郎に微笑みかけ執事の元へと歩み寄った。そして執事の持っているトレーを受け取ると、テーブルで茶の用意をし始めた。
驚いた寿太郎は女と執事を交互に見遣った。
しかし、仕事を取られた執事は慌てるどころか、突然しゃっきりと背中を伸ばしたのだ。
しょぼくれた執事は、今や堂々たる紳士へと様変わりしていた。執事は女が引いた椅子に優雅に腰を下ろすと、骨張った指を腹の上で組んで穏やかに言った。
「さて、君は聞いていたよりは慎重なようだ。庭の子犬を助け、目の悪い執事にも丁寧に振る舞い、女性にも高圧的な態度を取らなかった。余計なことは言わず、状況を落ち着いて観察していた。――いいだろう」
単に事態が飲み込めず動けずにいただけだったが、良いように解釈してくれたらしい。わざわざ自分から不利にする必要はない、寿太郎はいっそ堂々と挨拶することにした。
「初めまして。父、重雄の紹介で来ました。高村寿太郎です。翁とお呼びしても宜しいですか」
翁は少々白髪の交じった髪を撫でつけると、眼球は動かさずに寿太郎の方へと身体を向けた。どうやら目が悪いのは本当のようだ。
「翁でも伯爵でも。外では伯爵の方が通りが良いかもしれんがね。君のことはお父上から聞いておるよ」
翁は女から湯飲みを受け取ると一口飲んでから言った。
「二階に空き部屋があるから、今日からここに住みなさい。鍵の掛かっている部屋以外自由に使って構わない」
「今日から!? あ、すみません」
翁は茶托に湯飲みを置いて寿太郎の方に顔を向けた。
「そんなに畏まらずとも自然にしてくれて構わない。それと儂の事は気にしないでくれたまえ。屋敷には女中も本物の執事もいる」
「俺……私はここで伯爵のお手伝いをすればいいんですか」
「いや、君の仕事は別に用意してある。いきなりで悪いが、明日、麹町の内務卿の邸宅へ届け物をしてもらえないかね」
仕事の内容はまだ分からないが、下宿の話は願ったり叶ったりだった。ここなら東京に出てくるのに一時間もかかる横濱より遙かに便利だ。
東城伯爵が何者なのかは分からないが、父からの紹介ならば問題はないだろう。あんな父親でも身内を騙すことはしないはずだ。
しかし仕事をすると言うのに、内務省庁舎ではなく内務卿の私邸への使いとはどういうことなのだろうか。届けるだけならば郵便でも構わないはずだ。余程、重要な事柄なのだろうか。
「分かりました。いつお伺いすればいいですか?」
「省庁の始業と同じ時間で良い。渡してもらいたい物は手紙だ。後でホールの女中から受け取ってくれ。それとこれを」
翁は卓の上にあった分厚い封筒を寿太郎に向かって押し出した。
「君の父上からだ」
受け取った封書の中には、札束と言っても差し支えない金額と一枚の手紙が入っていた。手紙にはこれが最後の金だと角張った筆記体で書いてあった。
――あの狸親父。
この手紙が今ここにあるということは、寿太郎の返事がどうあれ、最初からここに下宿させるつもりだったのだ。絵画取引なんとかというご大層な契約書も途端に怪しく思えてくる。
完全に乗せられたが、突き返しても金は手に入らず、代わりに見張りが増えるだけだ。既に罰は受け終わり本来なら晴れて自由な身のはずなのにだ。
寿太郎は封筒を握り締めた。
もし絵が帰国までに見つからなければ、仕事を見つけて一人ででも日本に残るつもりでいたのだ。元手は多い方がいい。だが、素直に受け取るのは癪に障る。
「寿太郎君、いきなり家賃のことで申し訳ないが、先払いでお願いしたい」
翁に唐突に言われ、寿太郎は翁の顔を見る。
「そうですよね。失礼しました」
翁はただにこにこと笑っているだけだ。寿太郎は手元の封筒を見た。
「あの……これ全部預かって頂けませんか? 当面はここから家賃と食費全部引いておいて下さい」
「それでは君のお小遣いがなくなってしまわないかね」
「多少は自分で稼いだ金があります。金は後で親父に叩き返すつもりです」
寿太郎が封筒をテーブルに置くと、翁は笑って言った。
「ではこれは預かっておこう。成功した暁には重雄がどんな顔をしたのか私にも教えて欲しい」
話は終わりに近づいていたが、寿太郎には最後に一つだけやることがあった。
「ありがとうございます。ところで先ほどの子犬なんですがここの犬じゃないですよね」
泥だらけだしと寿太郎が言うと翁は「そうだった」と膝を叩いた。
「昨晩、屋敷の庭に迷い込んできてな。どうだ君がいる間、小遣稼ぎに面倒をみてやってくれないか。最近は世間も色々と物騒だからな。良い番犬にしてやってくれ」
犬の世話をしてお小遣いとは太っ腹だ。寿太郎が快く引き受けると翁は嬉しそうに頷いた。
客間を出てホールに戻ると、いつの間にか部屋からいなくなっていた先ほどの女が立っていた。
女は両手を腰に当てて寿太郎につかつかと近寄ると左手を豊満な胸の下に入れ見せつけるように胸を張った。婀娜っぽい仕草で唇に右の人差し指を添える。
「
中国語混じりのため寿太郎はほとんど聞き取れずに曖昧に笑った。
すると女は「日本人みたいな笑い方をするのね」と日本語で言うと唇に添えていた指先をくるりと上に向けた。
まるで口づけを求めるように伸ばした指先に気を取られていた寿太郎は、女の左手が間近に迫るまで気づかなかった。
咄嗟に防ごうとした寿太郎の腕を左手で受け流した女は、ほぼ予備動作なく右手で寿太郎の顎を打ち抜いた。
「外れたわ」
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