第9話 捨てる紙あれば拾う子犬あり
名刺に書かれていた住所は駅からほど近い場所だった。来るなと言われると俄然行きたくなるが、人間欲張りすぎるのは良くない。
なにしろ信乃は寿太郎にとって初めて出来た日本の友人だ。芸術にも造詣が深く趣味も合いそうだ。電話番号も書いてあるし、これからはいつでも連絡が出来るはずだ。
朝自宅を出た時はあんなにも心が騒ついていたのに、たった一枚の小さな紙があるだけで明るい気持ちになれるのは不思議だった。
市電を降りて国鉄山手線に乗り換える。
行き先表示を見ただけで、まだ遠いはずの横濱の自宅が一気に近づいた気がして途端に足が重く感じた。
寿太郎は胸ポケットに収めた名刺を襟の上からそっと押さえてみた。少しだけ力が湧いてきた気がした。
翌朝。朝食を食べに食堂へ向かうと、そこに目当ての男はいなかった。寿太郎は仮屋敷付きの女中に声を掛けた。
「旦那様ですか? 今朝は書斎の方で朝食を取られましたよ」
「ありがと!」
用意されたスクランブルエッグをライ麦パンに乗せてかぶりつくと温かいミルクで一気に流し込む。
食べ終えた食器を持って厨房へ行き、菓子入れからクッキーを二つ三つ掴むとポケットに突っ込んで、一階奥の書斎へと向かった。
書斎は洋風の窓枠と梁や柱はすべて黒い建材で統一され、天井には透かし彫りの欄間と黒鉄のシャンデリアが設えてある重厚な作りだった。
しかし、その重苦しい雰囲気は色合いだけが理由ではないはずだ。
その半分は目の前の男が醸し出しているはずだと寿太郎は確信していた。場の空気に飲まれまいと寿太郎はぐっと腹に力を入れた。
「あれだけ仕事から逃げ回っていたくせに、一体どういう風の吹き回しだ。エルネスト」
ピンストライプのダブルのツイードに白いポケットチーフを差した、いかにも洋行帰りの男は寿太郎の父、
重雄は紫檀のケースから細めの葉巻を一本取り出すと、シガーカッターで吸い口を切り落とした。据え置きのガスライターで火をつけると、重雄の吸い込む息に合わせて葉巻の先が赤く点る。
寿太郎は煙から顔を背けると声を低めて言った。
「その名前で呼ぶなよ。母さんが付けてくれた名前がある」
重雄は灰皿に一つ灰を落とし、ゆっくりと立ち上がった。五十を越え、ますます活力が漲っている重雄の壮健な背中を目で追う。窓の向こうには、遠く横濱湾の白波が庭木の間に見え隠れしている。
重雄が換気のために上げ下げ窓を持ち上げると、不意に窓の隙間から潮風に乗って薄桃色の花びらが数枚、室内に舞い込んできた。
「勢い込んでやって来た割にどうした。書類の名前が気に食わないだけならさっさと書き換えて出て行け」
重雄が揶揄するように言う。
――この男はいつもこうだ。自信満々でまるで世界の中心が自分にあるかのようだ。
だが、結果を出しているのも事実だった。そこがまた寿太郎の癇に障る。
寿太郎はテーブルの上に視線を落とした。樫の一枚板で出来た重厚なローテーブルには一枚の書類とセルロイド軸の万年筆。
書類には絵画取引業務受託書とあり、厚みのある手漉きの奉書紙に帝国政府の透かしと内務卿の花押、責任者の所には毛筆で、「寿太郎・エルネスト・ヨハン・ファン・デル・バーグ・高村」と長たらしい名が記されている。
――長いし、くどすぎるんだよ。
「そ、それは本名なんだから仕方ないだろ。仕事は――手伝う。ただし条件をつけさせてくれ」
「条件だと? 先日、警官に職務質問されたそうじゃないか。何かあれば即、
寿太郎は舌打ちをした。連絡が早すぎる。
――あの髭警官、保身に走ったな。
警察は内務省管轄だ。外務省との衝突を避けるために別途で報告を上げたのだろう。
この場を切り抜けなければ連れ帰られるどころか、この頑固親父は今すぐに荷物を纏めろと言うに決まっている。
「俺だって遊んでたわけじゃない。
重雄は振り返ると片眉を上げ、尊大な口調で言った。
「ほう、社交界を無視して勝手気儘に生きてきたお前が人脈か。ならばその条件とやらを聞こう」
「貿易じゃない仕事。できれば東京で身分が保証されているのがいい、動き回れないことには絵は見つからないからな。滞在期間も延ばして欲しいけど……」
重雄はテーブルに戻ってくると硝子の灰皿に灰を一つ落とし、また葉巻を咥えて言った。
「帰国は予定通り一ヶ月後だ。見つからなければどうするつもりだ?」
「あんたを説得するのに三年、船で一月以上もかけて日本まで来たんだ。絶対に見つける」
傍らに立つ重雄を半ば睨み付けるように見上げて寿太郎は即答する。確信なんてこれっぽっちもない。この父親に対して交渉材料になるものが、やり遂げようという青臭い意志しかなかったからだ。
重雄は煙をゆっくりと吐き出すと、寿太郎に背を向けた。
「そこまで言うのなら東京府の翁の屋敷を訪ねなさい。そこで上手くやれたのなら帰国も、なんならお前の探している絵の情報も気に掛けておいてやろう。精々頑張ることだ」
なんとかもぎ取った権利を行使するため、寿太郎は午後一に横濱の仮屋敷を出ると、紹介状を持って指示された場所へ向かった。
国鉄を乗り継ぎ一時間ほどかかって
青い屋根が目立つ木造二階建ての瀟洒な白い洋館は、寿太郎にまるで欧州にいるかのような錯覚を起こさせた。門扉に近づくと
――そういや、この前の絵も東城なんとかって名前だったような。よくある名前なのか?
呼び鈴はなく、獅子を象った真鍮のノッカーが扉に二つ据え付けられていた。
寿太郎はとりあえず鉄の輪を叩いてみたが、人が出てくる気配はない。試しにノブを引いてみると、なんと鍵は掛かっていなかった。
勝手に中に入ってもよいか悩んでいると、いきなり一匹の汚れた子犬が足元にじゃれついてきた。
「うわっ、どこから出てきたんだ!」
寿太郎は慌てて扉を閉めた。子犬をつまみだそうと思ったが、人様の家を訪問する前に泥だらけの犬を触るのはいただけない。
「ここは余所のお家だから、入っちゃだめだろ」
子犬は相手をしてもらえたのが嬉しいのか、寿太郎の周りを飛び跳ねている。よく見れば首輪もしていないし、恐らく野良犬なのだろう。下手に触れて噛まれでもしたら大事だ。
困った挙げ句、寿太郎はコートを脱いで子犬を包み込んだ。袖で輪を作り、首だけ出して包んだ子犬を近くの木にぶら下げる。
「すぐ出てくるから、ここで待ってな。粗相はするなよ?」
子犬はぶらぶら揺れるのが楽しいのか一声鳴いて返事をした。
子犬と約束した手前、手早く用事を済まさなければならなくなり、寿太郎は大きく息を吸い込んでドアノブに手をかけた。
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