第8話 ポークカツレツと名刺

 いつも外から見ていただけの洋食屋は驚くほど豪華だった。昼のためか店内はカフェもしているようだ。


 寿太郎は会計横の書棚から本日付の新聞を手に取って、カフェ側の窓際席に座った。信乃もそれに続いて席に着くと給仕がメニューを置いていった。

 景色は抜群に良い。だが、あんな事故があったばかりの池を見下ろす席にわざわざ座るのはいかがなものかと信乃は思う。


 信乃の前にメニューが広げられる。案の定の値段だ。

「好きなの頼んでいいよ。俺は朝飯を食べ損ねてるからさ、ちょっと早いけど昼飯にする」


 給仕がやってきたので寿太郎はカツレツを頼み、信乃は紅茶を頼むことにした。


 緩く波打った赤銅色の髪が光に透けて揺れる。青みがかった灰色の瞳が細められ、悪戯っぽい顔でにっと笑った。


 信乃は寿太郎の和蘭陀おらんだ人にしては薄口の顔を眺めながら疑問を口にした。


「朝食を食べ損ねたって、いつからいたんですか」

「始発の市電」


 寿太郎は信乃を見送った後、荷物の事を思い出したが連絡先が分からず、今日ならと博物館の前でずっと待っていたらしい。


「私が今日来るとは限らないのに?」

 寿太郎は信乃の「荷物」に視線を移して言った。


「その荷物、大切な物なんだろ? 絶対に取りに来るって思ってた。入れ違いになったら困るから早め来て正解だったよ」


 早めにも限度がある。また警官に追われるとは考えなかったのだろうか。


 ――しかも人の荷物を勝手に受け取ろうとしていたし。


 信乃が複雑な顔をしていると、寿太郎は顎に手を当てしたり顔で言った。


「中身は絵なんだろ?」

 信乃は驚かなかった。画商の息子なら大きさで見当をつけていたはずだからだ。

 ここは下手に隠して勘ぐられるより素直に会話に乗るのが得策だろう。


 信乃は空いた椅子の上に立てかけてあった風呂敷包みの結び目を解く。中から現れたのは狩猟を題材にした油絵の小品だった。


「やっぱり油絵だった……これ先生が描いたの?」

「――いえ、私の絵ではありませんよ」


 寿太郎が大仰に驚いた。何をそんなに驚くことがあるのだろうか。

「先生は絵を描く人じゃないのか?」


「描きますが――この絵は違いますよ。なぜそう思ったのか知りませんが」


「弁償しなくていいと言ってたから。いつでも手に入るっていう意味だったら、自分で描いた絵なのかなって思ったんだよ」


 寿太郎は体を乗り出し気味にじっくり絵を見てから、信乃の方を向いた。説明を求めているらしい。


「これは祖父が道楽で蒐集していたものです。あまり大きな声では言えませんが、質草にしようと思って」


 信乃は給仕がカトラリーを並べている間にさっさと風呂敷で絵を包み直して言った。


「無名の画家ですし二束三文にしかならないのは承知ですが、画商の息子にがっかりされると少々落ち込みますね」


「ごめん。そこまで聞くつもりはなかった。だって、この前先生からテレピンオイルの臭いがしたから、てっきり先生の絵が見られると思って期待してたんだよ」


「テレピン油? 普段は趣味の日本画しか描いていませんし、片付けが面倒で油絵は滅多に描きませんが、そこまで臭いますか」


 信乃は袂を鼻に近づけてみた。今朝方まで離れで絵を描いていたが香の匂いしかしない。

 あの日も今日と同じように作務衣から着替えて家を出たのだが、髪に付いた微かな臭いまで嗅ぎ分けたとでもいうのだろうか。


「知らない匂いに知ってる臭いが混じってたら気付くよ」

 寿太郎は運ばれてきたポークカツレツを切り分けながら、さも当然のように言った。


「普通は気付きませんよ、そんなの」

 いくらテレピン油の癖が強くても、屋外でそれも白檀や丁字ちょうじなどの強い香りの中から嗅ぎ分ける事などできるのだろうか。


「そう? まあ住所を聞いておけば早かったんだけど。先生さっさと帰っちまうし」

「まさか、本当にただこの絵を見るためだけに会いに来たのですか」

「それもあるけど、他に聞きたいこともあったんだよ」


 実に美味そうにカツレツを食べる寿太郎を見ていると何となく気分が上向く。あまりに見つめていたからだろうか寿太郎が食べる手を止めた。


「先生も味見してみる? このちょっと甘いソースが美味いんだ」

「お腹を空かせている人からもらえませんよ」


 信乃はふと自分が妙に愉快な気分になっていることに気づいた。先日のミルクホールでは義務感ばかりが先に立ってあまり実感はなかったが、人と食事をすることが楽しいと思えたのは久しぶりだった。


 自宅での食事が味気ないのは、料理のせいだけではなかったのだろう。


 カツレツを食べ終えた寿太郎は、信乃に断りを入れてから邪魔にならないよう新聞を縦半分折りにして開いた。蛇腹のようにパラパラと捲ると、あるページで手を止めた。


「何か探している記事でも?」

「一昨日の入水の件が載ってるかなって。あった。貸し金会社の社員だってさ。でもそれ以上は何も書いてないな。いや、俺が知りたかったのはこっちの記事」


 信乃は食べ終わった皿を片方へ寄せ、新聞を覗き込んだ。大見出しには『横濱港で密輸一斉捜査』と書いてある。


「これが私に聞きたかったことですか」

「そう。信乃先生も言ってた美術品の密輸出だ。こういうのが蔓延はびこると商売あがったりだって親父が言ってたんだけど――」


 逆さまの文字を読むのに信乃が身体を傾けていると寿太郎が何気なく言った。


「先生は色が白いな。モデルとかできそう」

 カラカラと笑う寿太郎に「やりませんよ」と否定すると、

「もったいない。俺に絵を描く才能があればお願いしたいくらいなのに」

 と、残念そうに言った。


 信乃が不満を露わに眉を寄せると、寿太郎は両手を挙げて降参をした。それから信乃のために新聞を横に向けて置き直した。

 紙面には幾つかの著名な画家の名前が挙がっていた。記事の中にとある名前を見つけた。


深山白茲みやまはくじの幻の未発表作発見か』


 その名前に信乃が身動いだ。それはほんの少しの動きだったが、寿太郎はすかさず信乃に尋ねてきた。


「深山って、もしかして先生の親戚かな?」

「……一門のようなものです」

「へえ。見つかって良かったじゃん。戻ってくるといいな」


 軽い口調だが寿太郎の目は笑っていなかった。流出した作品が所有者の元に戻ってくることなど滅多にないからだ。


「所有権は既に移っていますから、余程の事がない限りは無理でしょう。せめて公的な機関にでも寄贈されれば良いのですが」

「ふうん。鑑定依頼とかあるの?」


 信乃は首を振った。

白茲はくじの作品は出回っているものが少なくて、弟子でも真贋の鑑定はとても難しいでしょうね」


 その時、レストランの大時計が鳴った。

「ああ、約束の一時間ですね」


 信乃は丁度良い機会だと、信玄袋から懐紙を取り出すとそれに十銭札を一枚挟んで寿太郎に差し出す。


 荷物を掴んで立ち上がろうとすると、羽織の袖が何かに引っかかって体が傾いだ。見ればテーブルの上に身を乗り出した寿太郎が信乃の袖をしっかりと握り締めていた。


「先生の名刺くれ」

「は?」


 腕を上げると袖と一緒に寿太郎の手が付いてきた。名刺をもらうまでは袖を離さない気らしい。一張羅というわけではないが、こんなにきつく握られては湯熨斗ゆのしをしなければならない。


「お金は要らないから、名、刺!」


 頑として譲らない寿太郎に信乃は首を振った。

「分かりましたから離して下さい。でも家に来られても上げられませんからね」


「どうしてだ?」寿太郎が首を傾げた。


「――そこは私の家であって私の家ではないからです」

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