第13話 雨と電話

 東城の屋敷で下宿を始めてから二日が経ち、横濱の自宅から大方の荷物を運び終えた。子犬は引っ越しを遊びだと勘違いしたのか散々暴れ倒した後、今は行李の中で寝息を立てている。


「名前かあ……」子犬の鼻がぴーぷーと鳴るのを聞きながら呟く。


 内務卿の屋敷からの帰り道、寿太郎は電信柱に犬猫の登録と予防接種の張り紙を見かけた。役所の登録には名前が必要らしい。


 犬は一匹しかいないし、今まで名前の必要性を感じていなかったのだ。子犬は病気の心配はなさそうだが、野犬狩りもあると言うし早めに登録するに越したことはない。


「役所のことは後で飯塚いいづかさんに聞いておくか」


 窓の外は朝靄がかかっていて、よく見れば絹糸のような細い雨が降っていた。広い折衷様式の庭園の隅に植えられた八重桜も散り、小径沿いの椿の葉が雨に濡れてつやつやと輝いている。周囲を林に囲まれたこの屋敷は都会の中にあってもいつも静かだが、今日は一段とひっそりとしていた。


 寿太郎じゅたろうはライティングデスクの蓋を開けて奉書紙を手取り出す。内務卿の執事の鴨井かもいから預かったものだ。


 深山白茲みやまはくじの経歴書をもう一度読んでみたが、やはり大した情報は書かれていない。


 先日の信乃しのの態度から教えてもらえる雰囲気ではなかったが、それでも全く手がかりのない他の画家に比べれば格段に有利だった。


「取りあえずは白茲の情報を集めないと。親父に頼らない方法となると美術館と上野周辺の画商、図書館もありだな」


 寿太郎は奉書紙を鍵付きの引き出しに入れ、朝食を取りに食堂へ向かうことにした。


 部屋を出ると廊下の真向かいに何も書かれていないプレートが貼られている扉に気づいた。試しにノブを回してみたが鍵が掛かっているようだ。


 寿太郎は持ってきた子犬の餌入れをぶらぶらさせながら、吹き抜けの階段を下りる。子犬の餌を貰うため階段下にある厨房を覗いたが、案の定、女中たちは朝食の準備に追われて大忙しだ。


 餌は後回しにして小さい方の食堂に入ろうとした時、揚巻髪に手拭いを被った女中が声を掛けてきた。


「今朝は翁もいらっしゃいますので、お食事は大食堂にお持ちいたします」


 翁はいつもこの屋敷にいるわけではなく、朝にいることは珍しいらしい。

 寿太郎は女中に承諾の返事をし、ついでにお椀を渡して子犬の餌を頼むと、厨房横にある大食堂の扉を押し開けた。


 中に入ると翁は既に朝食を半ば食べ終えていた。


「おはようございます。ご一緒しても宜しいでしょうか」

「おはよう寿太郎君。さては飯塚に相伴しろと泣きつかれでもしたかね?」

「はは……遅くなりました。昨日のご報告とお礼を」


 寿太郎は入ってすぐの下座に着こうとしたが、翁は隣の席を指先で軽く叩いて手招きをした。寿太郎が座るとすぐに湯気が立ち上る朝食が運ばれてきた。


 焼き鮭と茄子の味噌汁、春らしい菜の花のおひたしは鰹とみりんの風味がよく効いている。香の物は中央に置かれ、ご飯も好きなだけ食べていいらしい。食費以上の料理ではないかと少し心配になるほどの豪華さだ。


「洋食も用意させた方がよかったかな」

 気を遣った翁に寿太郎は頭を振ったが目が見えない事を思い出すと、寿太郎はしっかりと誠意を込めて言った。


「いいえ、とても美味しいです。和食は作れないのでありがたいです」

「ほう、他の料理はできるというのかね?」


「軍隊で簡単な料理は覚えさせられたので一通りは。でも和食は何から覚えていいのかも分からなくて、なかなか手が出せないですね」


「昨今は男子も厨房に立つか。良い良い、厨房も空いていれば自炊して構わんよ。ほら味噌汁が冷めるぞ。食べながら話そう」


 翁の茶がなくなったのを見て寿太郎が急須で注ぎ足すと、その音に気付いた翁が手を上げて止めた。


「ああ、自分で注ぐからよい。皆、隙あらば儂の仕事を取り上げようとして困る。ところで鴨井君に会ったそうじゃないか。どうだ?」


 寿太郎は昨日のことを話すつもりではいたが、いざ話すとなると、どこまで話して良いのか悩んだ。


「とても気さくな方で話しやすかったです。仕事も引き受けた以上、精一杯頑張ります」

「うむ。もし何かあれば、儂の知る範囲でなら助言もやぶさかではない。大した力はないが、画壇に話を通すくらいならば手を貸そう」


 当たり障り無い受け答えで無難にやり過ごそうとしたのを見透かされたのか、翁はもう一歩踏み込んだ話をしてきた。寿太郎は思わず唾を飲み込む。


 ――大した力もない、か。


 貴族社会と密接にある画壇で顔が利くというのが、どれほどの権力なのかを知らない寿太郎ではない。途端に緊張した寿太郎に翁がからからと笑う。


「そんなに畏まらなくていい。儂は親から貰った椅子にただ長く座っているだけだ。儂に報告は不要だがお父上には居所くらいは伝えておきなさい」


 あの親父のことだ、寿太郎の心配など毛ほどもしないだろうが、親切心で言ってくれている翁に反発するのはお門違いだろう。


「お心遣いに感謝します」

「応接室の電話は自由に使ってよいと言いたいところだが、それなりに料金もかかるのでな」


 寿太郎は確かにそうだと頷くと、翁がにんまりと笑った。

「女子衆と気兼ねなく使いたいのなら、電話代は別途、飯塚に渡しておきたまえ」


 翁は寿太郎に片目を瞑ると、呆気に取られている寿太郎を置いて杖を振りながら鼻歌交じりに食堂から出て行く。

 寿太郎は空いた席に溜息を吐くと、残りの飯を掻き込んだのだった。




 昼からは晴れ間も見えて、寿太郎は早速情報集めに出かけることにした。玄関から出ようとした所で執事の飯塚に呼び止められる。


「寿太郎さん、翁と朝食をご一緒頂きありがとうございます」

「お礼なんていいよ。親父と食うよりずっと楽しかったし。時間が合えばまたお邪魔するよ」


 表情筋があるのかどうか疑わしかった飯塚が口の端を上げて目礼したので寿太郎も慌てて頭を下げる。


「飯塚さん、調べ物をしたいんだけど、この近くに図書館ってあるかな。なるべく大きな所がいい」

「それなら帝国図書館がよろしいでしょうね」


 図書館は先日行った奉献ほうけん美術館のすぐ裏手にあるのだそうだ。寿太郎はまた上野かと少々うんざりしたが今は伝家の宝刀がある。鴨井には悪いが銀時計は使い倒させて頂こうとほくそ笑んだ。



 日暮れに下宿に戻ってきた寿太郎は自室でばったりとベッドに倒れ伏した。

「一日走り回って得られた情報が、内務卿からもらった情報とほぼ同じって……紳士録にも載ってないし……どうすんだよこれ」


 寿太郎は屋敷を出た後、まず美術館へ向かった。学芸員に尋ねてみたが、そもそも白茲はくじの絵は収蔵されておらず資料も見つからなかった。


 その後、図書館に向かったが館内は恐ろしく人が多く、四六時中警備員が目を光らせていて、やれ本に印を付けるな壁に落書きするなと引っ切りなしに注意の声がするものだから、館内は身じろぎの一つも許さぬ監獄のような状況だった。


 西洋の厳かで心安まる図書館を想像していた寿太郎はまったくかけ離れた雰囲気の館内でいつ怒られるかと絶えずビクビクしながら館内をうろつく。


 司書に質問をしようとしても本の整理だけで大忙しで、そんな状態では来館者全員に対応などできようはずもなく、寿太郎は早々に質問を諦め自力で探すことにした。


 館内表示から第七門の美術書架に向かった寿太郎は、その膨大な量と分類方法の違いにたちまち途方に暮れてしまった。


 取りあえず総合書架の分類目録を引っ張り出し、難しい漢字に頭を抱えながら読んではみたものの、大半が書道や明治以前の古美術品に関するものばかりだった。


 ようやく近代の資料を探し当てたものの美術史論や西洋技法書でほぼ占められていて、役に立ちそうなものは見当たらなかった。


 結局、半日潰して寿太郎が得たのは表向きの情報しか載っていない画家の名簿のみだ

 図書館を出た寿太郎は、電話番号簿で周辺の画廊や画商を調べ、ここ数年で白茲の絵が持ち込まれたかどうかを二三件回って直接尋ねてみたが、それもさっぱり網に掛からず、一旦自室へと戻ってきたのだった。


「白茲本人の情報すらほとんどないのに、贋作の真贋とかどうやって調べるんだよ」


 寿太郎はのろのろとベッドから起き上がり、鞄からノートを取り出すと書き写した内容をもう一度読み直した。


 ――深山白茲は西洋絵画の技術を取り入れた大らかな画風で、繊細な筆遣いと大胆な構図が特徴。寡作な作家で知られる。


 これでは単なる作家紹介でしかない。ノートをベッドに放り投げて腕を組むと、子犬が足元にじゃれついてきたので抱え上げた。


「それにしてもギャラリーに持ち込まれてもいない絵の贋作ナーマークが出荷されてるってどういうことだよ……何か別の道筋ルートがあるのか」


 美術館に収められていない画家の絵にそこまでの高値が付くとは到底思えない。死後に評価が上がった作家もいるが、白茲の今の評価では贋作を売っても金額とリスクに見合わない気がする。


「贋作の行方を追うより元を辿った方が早いかもな」


 寿太郎はじゃれついてくる子犬を小脇に抱えて備え付けのライティングデスクの蓋を開くと、メモクリップに挟んであった名刺を取り出した。


 ベッドに仰向けに寝転がって子犬を腹の上に乗せると、信乃からもぎ取った名刺を見ながら考えを巡らせた。

 深山派について調べるのに一番手っ取り早いのは信乃に聞くことだ。


「連絡したら絶対に怒るだろうなあ」


 信乃は自分の家ではないなどと言っていたが、どういう意味なのかも分からない。それに昨日の今日ですぐに電話などしたら、二度と会ってくれなさそうだ。


 寿太郎はしばらく考えていたが、パンと一つ手を叩いた。


「――やっぱり、明日電話しよう」


 そう決めたものの、電話口でちょっと困った顔をしながらため息を吐く信乃の顔が浮かんだ。それから、袖口に手を入れて言うのだ『これで最後ですからね!』と。


 寿太郎に与えられた時間は少ない。会えないくらいなら、怒った顔でも会える方が断然いいに決まってる。


 腹の上で子犬が寝息を立て始め、その温かさに誘われるように寿太郎の意識はそこで途切れた。

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