「生きよう」
一人っきりのがらんどうの部屋は、ひんやりと冷たい空気が流れていた。
今日の夕暮れ前に、凛花はこの桜が描かれたふすまの部屋から出ていった。今夜からは宵姫様の用意した部屋に住むことになっている。
陽が落ちて、灯りもつけないままの部屋でこずえは思う。
これでよかったのだ、と。
愛情に飢えたあの子が、誰かを心から愛し愛されることになる道を歩めてよかったのだと。
この大奥を守り閉ざし、アヤカシを倒すためだけに必要な錠前の部品として消耗され、死んでいくだけの地獄から救い出せてよかったのだと。
自分のしたことは間違っていない。
そのはずだ。
そうは思っても――ひとりぼっちの部屋はあまりに冷たくて暗かった。まるで、先代の桜であるお母様を亡くしたばかりの頃にもどったかのようだった。
「……っ……う……」
一人で涙をこらえていると、桜の描かれたふすまが、すぱーんと音を立てて、勢いよく開いた。
「なに泣いてるのさ。あんたがやったことだろ」
「紅衣……でも」
遠慮なくどすどすと足音を立てて入ってきたのは、紅衣だった。彼女はそのまま許可も求めずに畳の床にどっかりと座り込む。
「あんたはちゃんとあの子の母の役目を果たしたよ」
じっと見つめてくる紅衣の目は、いつもの皮肉な光を宿しているわけではなくて、真剣なものだった。
「自己満足だとわかっていても、あんたはあの子を逃してやったんだろ。救ったんだろ、あの子の命と心を。なら胸を張れ」
「……私はあの子を本当に、救えたのでしょうか」
「救えてないって言うやつがいたら、アタシがそいつを地獄に叩き落としてやるよ」
「……ふふっ、ふふ」
紅衣の真剣な言い方がなんだか面白く思えてしまって、こずえはつい吹き出してしまった。
「なに笑ってんのさ」
「ふふっ……ごめんなさい紅衣。なんだか……こうしてあなたの前で笑うのは久しぶりな気がしたから、余計に……ふふふ」
「……お互い、忙しかったからね。でもこれからはもっと忙しくなるよ。あんたはまた部屋子を雇いいれて、娘として教育しなきゃいけないんだし」
「あまりすぐにはそんな気にはなれないわ。そうね、次の春ぐらいまでは一人でいさせてくれないでしょうか」
感傷的なこずえの言葉に、紅衣は呆れたようにため息をつく。
「へぇ、少なくとも次の春までは、自分は死ぬつもりが無いってわけだね。大した自信じゃないか。ワタシは別にいいよ、御錠口本役様――雪緒がなんて言うかはわからないけど」
「そこは……なんとかします」
具体的な案も策もなく、ふんわりと頑張るとしか言えないが、なんとかする必要があるのだから、この世は厄介だ。
紅衣が、うつむいてこずえの着物の裾を掴んだ。彼女にしては、甘えた仕草だった。
「……紅衣」
「こずえ、死ぬんじゃないよ。一日でも長く生きて。アンタは生きて」
「えぇ、あなたもですよ。私が守りますから、だから一日でも長く生きてくださいね」
大奥で死んだ御錠口は、屍となってなお大奥から出られない。
それを逃れる方法は、御錠口を辞めるか、あるいはもっと上の役職に出世するかだ。
「生きよう、こずえ」
そう口にした紅衣の笑みは、とても儚くて美しかった。
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