決別の朝




 年の瀬が迫る忙しい夜に、宵が会いに来てくれたのは奇跡と言ってもよかった。

「凛花、今は大丈夫だろうか」

「大丈夫だよ。今は部屋には私だけだし」


 今夜はこずえは不寝番についていたので留守だった。宵は、あらかじめそういう日を選んで来てくれているのかもしれない。

「この部屋は寒いな。火鉢が少ないのではないか」

 こずえと凛花、二人しかいない部屋ということもあり、この部屋の火鉢はひとつだけだった。宵は心配そうに凛花の手を取る。


「凛花、風邪をひきはしないか?」

「頑丈なだけがとりえだもの。それにこの赤い髪もふわふわで、顔まわりだけはちょっとあったかいんだよ」

「本当なのか」


 疑わしそう、というより不思議そうにしているので凛花は彼女の手を握って、自分の頬に触らせてやる。

「ね、あったかいでしょ」

「ふふっ……本当だな。凛花の髪はすごいな」

 無邪気に笑う宵に、凛花も思わず笑みが溢れる。


「でも、姫様の傍仕えとしてはこの赤い髪は悪目立ちしてきっと駄目だよね、ちゃんと髷も結えないし」

 お姫様の傍に仕える女中なのだから、きっと身なりもきちんとしていなければいけないのだろう。背丈は、まさか体を削り落とすわけにはいかないからどうしようもないが、髪ぐらいはどうにかならないだろうか。


「こんな髪なら、いっそ剃髪しちゃおうかな」

「尼僧になるというのか」

「もともとは尼寺にいたから、そのはずだったんだし」

「凛花が尼僧になってしまうのは……困る。仏門に入られてしまっては、宵が手出しをできないではないか」


 宵が少しだけ体を伸ばして、自分のおでこと凛花のおでこを触れ合わせる。まつげ同士が絡み合ってしまうのではないかと思うぐらいに顔が近い。

 呼吸も脈も心音もなにもかも、お互いの皮膚だけを隔てたところにある。

 それは、ずっとそうしていたいぐらいに心地が良い。

 何もかも違う二人だけれど、ずっとくっついて重なって溶け合って一つになりたい。


「凛花」

「宵」


 とくんとくん、と、どちらのものともわからない心音が聞こえる。

「凛花、宵は凛花のことを想っている。だから、すぐにでも宵のところに来てほしい。いろいろと支度はあるだろうが……」

「大丈夫だよ、ちゃんと宵のところに行く。だから待っていて。もう少しだけ待ってほしい」

 きゅ、と彼女の手は凛花の広い背中をつかんだ。


「……このところ思うのだ。宵は、凛花に悪いことをしてしまっているのではないだろうかと。宵が勝手に、凛花を救い出した気分になって、今までの環境から切り離して苦しめてしまっているのではないかと」

「……」

 それは実際、そうなのかもしれない。

 けれど、少し違う点もある。

 凛花は宵の近くにいたい。それがどんなに苦しいことだとしても、そうしていたい。


 居場所のなかった凛花に、はじめて隣にいていいと思わせてくれたのはお母様――こずえだった。

 けれど、生まれて初めて、隣にいたいと焼き付くような願いを抱いたのは、宵だった。


「違うよ。忘れないでね、私は宵の傍にいたい。どんなことがあっても、あなたを傍で支えていたいんだよ」

「凛花……」

 だから、そろそろ自分の気持ちや境遇にけじめをつけないといけない。

 喜多の想いをはっきりと拒絶して、自分の想いを整理できた。

「ちゃんと自分から話すよ。大丈夫。こずえ様とちゃんとお話をして、御錠口の部屋子を辞めますって言ってくるから。……大丈夫だよ」

「……凛花、すごく辛そうな顔になっているぞ」

 彼女の声は、不安そうに震えていた。

「やはり、宵が無理に召し上げたことにしたほうが」

「それはだめ」

 宵の華奢な体に腕を回し、優しく抱きしめる。


「私はこれから――あなたの傍であなたの一生を見届ける。他の男の人のところに輿入れすることになるあなたを見届ける。決して自分一人のものにできないあなたをずっと想いながら見届ける。それは全部、私が選んだこと」


「……ありがとう、凛花」

 宵はただそれだけを言った。すまないと詫びるでもなく、泣くのでもなく。

 彼女はどんなに幼くとも、たしかに、徳川家の姫君として生まれて生きてその使命を果たすことになるだろうお人だった。

 そんな彼女を、凛花の生涯全部で支えよう。




 その朝は、きんと冷えた静かな空気が心地良かった。


 決意を告げるのにふさわしい朝かもしれない、と凛花は一人思う。

「……井戸、凍ってるかもしれないな」

 ふすまを開けて廊下から庭を眺めると、地面が白く凍っていた。

 この様子では、昨夜はさぞ冷え込んだことだろう。


 凛花は部屋にひとつきりの火鉢でお湯を沸かして、こずえが不寝番から帰ってくるのを待つことにした。

 やがて、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。こずえは普段はなるべく足音を立てないように上品に歩いているのだが、疲れているときは小さな足音を立ててしまっているのだ。

「もどりました」

「おかえりなさい、お母様」

 凛花は指をつきながら頭を下げて、いつものように母を出迎える。

「お湯を沸かしていますのでお使いになってください」

「……ありがとう」

 礼は言ったものの、こずえはかなり疲れているのか自分の座布団に座り込んでそのまま動かない。布団を用意したほうがいいのだろうかと迷っていると、声をかけられた。

「凛花」

 その響きで、こずえの言いたいことを察することができた。

 こずえは――お母様は、凛花に縁切りを申し渡すのだろう。ずっとそのことは直接話はしなかったが、その準備をしていることは凛花も知っていた。

「はい、お母様」

「……私の言いたいことはわかっているようですね」

「……はい、お母様」

 こくりと頷くと、こずえは苦い顔で一度だけ頷きを返した。


「では言わせてもらいましょう。由良崎凛花、お前には今日限りで私の部屋子を辞めてもらいます。……お前のような娘は要りません」

「……っ」

 何を言われるのかわかっていても、その言葉は心の中に氷の刃のように突き刺さった。

「お前のような娘は要りません。どこへなりとも行っておしまいなさい。そして、二度と戻ってはいけません。こんなところに、二度と戻ってくるんじゃありません」

 震えてはいるが毅然とした声で、こずえは言葉を続ける。

「宵姫様のおはからいで、お前の部屋が用意されているようです。陽があるうちに荷物をまとめておしまいなさい」

「お母様……」

「もう母と娘ではありません……私とお前は他人なのですから」


 こずえが顔をそむける。

 凛花には痛いほどわかっている。こずえがこうして凛花を突き放すことで、大奥から逃そうとしてくれているのだということを。だからこそ、彼女の心遣いをきちんと凛花は受け取って、行動しなければいけない。


「はい、今までお世話になりました。こずえ様」


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