あなたとなら地獄でも
守るためには戦わねばならない。戦えば犠牲が出る。だから、守るためには犠牲はつきものだ。
つつじの錠前とあじさいの錠前の弔いの場で、こずえがそんなことをぽつりと口にしたのが凛花には聞こえた。
なんでも、あじさいの錠前がよく言っていた言葉らしい。
この世のしがらみをよく表した台詞だと、思う。
彼女がどんな人だったのか、凛花は知らないままだった。一度も言葉を交わしたこともなかった。
ただ、彼女が長く御錠口助役として勤めていたこと、よく年若い者を補佐してくれていたこと、つつじの錠前ととても仲がよく、いつも一緒にいて軽口を交わしていたことなどを、こずえが今にも泣きそうな声で教えてくれた。
つつじの錠前のことは、凛花も知っていた。
まだ大奥に来て間もない頃に、呼び止められて、頭のてっぺんからつまさきまで眺められたかと思うと、馬に乗ってみないかと誘われたのだ。
結局、そのときはよくわからないままに断ってしまったのだが、こんなことになるのなら、彼女のことをもっと知っておけばよかったのかもしれない。
「もっと、お二人のことを知っておきたかったです」
思いが言葉となって口から転び出る。
すると喪服の裾をひるがえし、振り返ったこずえはこう言った。
「知っていたら、きっとつらくなりますよ」
「それでも、知っておきたかったです。たくさんお話してみたかったです。そして……お二人のことを覚えておきたかったです」
「凛花は優しい子ですね」
「優しいことなんてないです」
こずえは泣きそうな瞳を伏せて、それ以上はなにもいわずそっと向き直った。
大奥でアヤカシと戦って亡くなった者は、大奥で弔われて埋葬される。それは、亡骸がアヤカシの気に侵食されてしまっていることもあるための措置だという。
亡くなってなお、この大奥という場所から逃れることはできない。
そのことを思い知って、凛花は背筋に氷の棒を突っ込まれたかのような冷え冷えとした感覚を覚えた。
つつじの錠前も、あじさいの錠前も、大奥で生きて死んだ。
きっと、こずえもそうなるのだろう。
大奥で生きて死に、そして亡骸は大奥の土地に埋められて、心もきっと囚われたままで何処へも行けない。
こずえだけではない。久深も、千恵も、そして喜多もそうなるのだろう。
……凛花だけがそこから逃れられるかもしれないのだ。
そのことに罪悪感を覚えながら、凛花はつつじとあじさい、二人の錠前の亡骸に手を合わせる。
白い布がかけられていたので、どのように亡くなったのかはわからない。ただ、つつじの錠前の亡骸の横には、彼女の愛馬の物と思しき千切れた手綱が置かれていた。……きっと、主と命運を共にしたのだろう。
冷え冷えとした風が吹く。
まだ昼間だというのに、どんよりとした重たい色の雲が天を隙間なく覆っていた。
凛花の前で、こずえが紅衣と何かを話していた。
「こんな日なのに、いやな天気ですね」
「せめて、アイツらが埋められる土の中が冷たすぎなければいいんだけどね」
「それはあなたらしい気遣いですね、紅衣」
「……フン」
凛花も、紅衣の言う通りだと思った。
この地獄から出られないのなら、せめてこの地獄が居心地のいい場所であれば、少しはマシなのだろうに、と。
そう願っても、吹く風は相変わらず冷たかった。
もうすぐ雪も降り、土も凍りつく頃だ。
つつじとあじさいの新しい錠前もすんなりと決まり、大奥では何事もなかったかのように年の瀬がせまってくる。
大奥でももちろん大掃除は行われる。それも何日もかけて。
他の女中よりひときわ背の高い凛花は、煤払いにかりだされて大奥御殿中全部の部屋の煤を払うことになってしまった。
身分の低い女中の部屋から順に煤を払い、日が進むごとに高位の女中たちの部屋、最後に、御台所様の部屋の煤を払う。
こうした何気ない行事のしきたりも、大奥での身分をあらわしているのだ。
凛花は『宵姫様』の部屋にもはじめて入ることができたが、掃除をするために入っているので家具や調度品は片付けられていて、彼女の匂いをまったく感じ取ることはできなかったのが、少しだけ残念だった。
「さすがに上ばっかり見てたからちょっと疲れたな……」
「ふふ、大奥の御煤払いは十二日間も続きますからね。お疲れ様です、凛花さん」
鍛錬場で休み休み素振りをしていると、喜多が笑顔でねぎらいの言葉をかけてくれた。ここ最近は、彼女ぐらいしか話しかけてこない。久深と千恵は目があってもきまりわるそうに目をそらして、遠巻きにしているだけだ。
喜多の気遣いに、心が痛む。
「大晦日の催し事はとくにないのですが、その分新年はすごく忙しくなるってお母様が言っていました。新年は、御台所様は一番格式の高い髪型にして、装束を整えられて――」
「……喜多」
話を切るように声をかけても、彼女の笑顔は変わらなかった。
「そんな風に、気を使わなくてもいいから」
そう言い捨てて、鍛錬場を出ていく。
自分はなんてみっともないんだろう。
生まれてこの方何度も思っていたことを、何度も心の中で繰り返す。
床が割れそうなぐらいにどすどすと足音を立てて、鍛錬場から離れる。礼儀作法など、今は知ったことではない。
空が見える渡り廊下まで来て、凛花は足を止めた。
小さな足音が追いかけてきていたからだ。
「……凛花さん!」
喜多の声だ。
ついさっき、あんなにひどい態度をとったのに、また何の用だというのだろう。
「……凛花さん」
「何の用なの、喜多」
「その、知りたくて」
「一体何を」
「本当のことを知りたくて。追いかけてしまいました。申し訳ありません……凛花さんが朱保志こずえ様の部屋子を辞めて、姫様にお仕えすることになるというのは、本当なのですか」
「……それ、は」
正面から尋ねられて、凛花は言葉に詰まってしまった。
一体何から話せばいいのだろうか。小さくても頭が良くて誠実な彼女に、嘘をつくことはできない。
「私も竜胆のお母様に聞いただけなのですが、本当なんですね」
なんとか、こくりと一度だけ頷いた。
喜多ならばそれできちんとわかってくれるだろう。そう思ってのことだった。
「そう……なんですね……本当なんですね……」
彼女はうつむいて、しばらくの間黙り込んだ。
その頭をいつもどおりに撫でようと思わず手が伸びかけるが、それを寸前で止める。今の凛花にそんな資格は、ない。
ひゅうひゅうと雪混じりの冷たい風が吹き抜ける。
壁もない渡り廊下は、足元から凍りつくのではと思うほど寒かった。
「……か、ないで……」
喜多の声が、風にまぎれて聞き取りづらい。
それでも彼女が何かを必死に訴えているのはわかる。
「喜多?」
「行かないで、行かないでください、凛花さん。大奥にいてください、ずっと。行かないでください、どうか」
「喜多、落ち着いて」
矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出す彼女を落ち着かせるためにも、凛花は彼女の肩をなるべく優しくつかんだ。
「……凛花さん、どうしても、姫様とともに行ってしまうのですか」
「わからない。もしかしたら彼女の――宵姫様の気が変わってしまうかもしれないし。まだどうなるかなんてわからない」
「気が変わるなんてこと、ないです。絶対にないです。だって私はずっとお二人のことを見てきたんですから、お二人が思い合っていることぐらい……わかります」
言葉の最後の部分は、まるで血を吐き出すかのようなつぶやきだった。
「ずっと……?」
「えぇ、ずっとです。でもそれより前から、私のほうが凛花さんをずっと見てきたのに、なのに、かなわなかった」
「喜多」
「凛花さん、私はお慕い申し上げております。どうか、これからも
それは、きっと気持ちを振り絞ったのだろう喜多の告白。
「それは、できないよ」
だけど凛花は彼女の想いに応えることはできなかった。
凛花が想っているのは――宵ただ一人だったから。それは誰かが代わりになることはできない想いだ。
「それはできない。ごめんなさい」
一歩だけ後ろに退いて、凛花は喜多に深々と頭をさげた。
どのぐらいそうしていたのだろうか。
喜多が何か言いたげにしている気配は感じたが、顔は見えないのでどんな表情をしているかはわからない。
「っ……!」
結局、何も言わずに喜多はその場を走り去ってしまった。
びゅうびゅうと吹き付ける雪混じりの風が、まるで罰であるかのように凛花の体を冷たく責めさいなむ。
頭をあげて、凛花は空を仰ぎ見た。
いつか見たような桜の花びらほどもある大きな雪粒が、風に遊んでいる。
思わず手のひらを差し伸べて、雪のひとひらを手に受けた。そして、雪の花に話しかける。
「ねぇ、きっと……これで良かったんだよね」
雪の花は何も言わない。
「これで、良かったんだよね……きっとこれで良かったんだよね……」
しだいに、手の熱でそれは溶けていき、やがて儚く消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます