散る花は
ほうせんかの錠前である織人紅衣に話しかけられたのは、それから二日後の昼。鍛錬場でのことだった。
「よう、アンタは随分賢く立ち回ったものだね」
その言い方が、いかにも侮蔑の意味がこもったものであることは、いくら世間知らずの凛花でもわかる。
「……」
「大出世じゃないか、姫様のお傍に仕えられるなんて。これでアンタは姫様の化粧料から禄を食むことができて一生安泰ってわけだ」
「……別に、禄が欲しかったわけでは」
「じゃあこんな地獄みたいな戦いが嫌になったかい? アンタは姫様のお陰でこの無意味な戦いから一抜けできたんだ」
「……っ!」
紅衣の赤くて大きな唇が、皮肉に歪む。
「母親も友達も見捨てて、アンタはこの戦いから逃げれるんだ。アンタだけはこの戦いをもう続けないで済むんだ。もっと喜びなよ」
「逃げ……る……?」
なんてことを忘れていたのか。
ずっと浮かれていたが、紅衣に指摘されてようやく気づいた。
宵の傍仕えとして大奥を出るということは――仲間たちを見捨てることと同じなのだと。
「なぁんだ、そんなことにもきづいてなかったのかい。まったくもって救いがたいおバカさんだね」
大きな刀を振り回してアヤカシを倒してくれて、頼りになる久深。
いつも優しく怪我を見てくれて、癒やしてくれる優しい千恵。
小さいけれどしっかりもので、いろんなことを教えてくれた喜多。
それに――こずえ様。居場所を持っていなかった凛花に居場所をくれたはじめての人。大切な『お母様』である、美しい人。
「……」
「アンタは、いい桜の錠前になる器だったけど、姫様のお召しとあっては仕方がないよね。お輿入れ先でも、せいぜい巧くやるんだよ」
いつもとげとげした皮肉ばかり言っているけど、赤く塗りたくった口紅の下に、優しさを隠し持っている紅衣様も、凛花を心配してくれている。
「紅衣様」
「なんだい、いまさら迷いを見せてんじゃないよ。はっきり決めな。そうでないとあまちゃんのこずえの奴も次の娘を迎えられないじゃないか」
凛花はうつむく。
なんて心が脆いのだろう、自分は。
宵姫の輿入れの話に泣きぬれて、アヤカシの甘い誘惑に心惑わされて、こうして紅衣の言葉で迷っている。
なんて優柔不断。
こんなにも心が脆い人間だなんて、自分でも思っていなかったことに、また衝撃を受けて、心がばらばらに砕けそうになる。
凛花が何も言えず立ち尽くしていると、紅衣は皮肉げな笑いを浮かべてそのまま立ち去ってしまった。
周囲では他の御錠口の部屋子たちが遠巻きに見ているが、誰も話しかけてこない。
当然だ。
凛花はもう……彼女たちの仲間ではないということなのだろう。
その日は、大きな赤い三日月が冴え冴えときれいな夜だった。
こずえが不寝番に向かったのを見送って、凛花はもやもやした気持ちを抱えたままふとんに入った。
だが、夜の間中ずっといななきが耐えない。あれは――つつじの錠前様の愛馬だろうか。それに悲鳴や泣き声も聞こえてくる気がする。
凛花は一人、桜のふすまの部屋で布団をかぶって眠れぬ夜を過ごした。
ようやく朝が来て――
こずえが常に無いほど乱れた足取りで部屋に駆け込んできた。
「……凛花、凛花!」
「お母様、一体何があったのですか……?」
こずえは、ひどくぼろぼろだった。
着物はぐちゃぐちゃで、血と泥で汚れていて、きれいなお顔も涙と汗で化粧がすっかり落ちてしまっていた。それに手にしている刀だ。ひびが入っていて、今にも折れそうな状態だった。
彼女は倒れ込むように部屋に入り、なんとかふすまを閉める。
「……あなたにも、話しておかなければなりませんね」
「お母様?」
「でもその前に、水を一杯だけもらえませんか。もう喉も舌も乾いてしまって、巧く話せそうになくて、手をかけさせますが」
「は、はい」
凛花は急いで水差しから湯呑みに水を注いだ。急ぎすぎて少しだけこぼしてしまったが、こずえは注意する気力すら残ってないようだった。
渡された水を一気に飲み干して、彼女は深いため息をつく。
それからしばらく、言葉を選ぶように何かを言いかけて止まるを何度か繰り返し、こずえはようやくその言葉を口にした。
「喪服を用意してください。私とあなた、両方とも必要です」
「お母様、一体何が」
その問いに、こずえは一粒だけ涙をこぼしながらも教えてくれた。
「つつじの錠前とあじさいの錠前が散りました」
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