大事な話




 しとしとと、雨が降る。

 秋の長雨はとにかく退屈だった。外にも出られないし、せっかくの紅葉も落ちてしまって無粋だ。


「今日は錠前達との会合がありますから、昼間は留守にしますね」

 凛花がそうこずえに言われたのは、朝食の時だった。

「かしこまりました。おかえりは夕方頃ですか」

「えぇ、そのぐらいには戻ります。お前も今日は鍛錬が休みですから、ゆっくりと体を休めて英気を養っておくんですよ」

 茶碗に注がれたお茶で漬物を食べながら、こずえはそう念押しをした。

 見抜かれているな、と凛花は苦笑いをするしか無い。最近よく眠れていないので、室内にある稽古場で素振りでもして無理やり体を疲弊させようと思っていたのだ。


 朝食後、立ち上がったこずえに萩の花模様が染め抜かれた打ち掛けを一枚差し出して、袖を通させる。このところ随分と冷え込むようになったので、着物が一枚多くなった。

「あなたも随分と部屋子らしくなってきましたね」

「お母様のおかげです」

「ふふ。……では行ってきますね。ちゃんと休むんですよ」

「わかっております」

 指をついて頭を下げながら、こずえがふすまを閉めるのを見送る。

 あとは気楽な自由時間――というわけでもない。部屋子である凛花は、朝食の膳を二人分下げなくてはいけないし、部屋の掃除や、刀の手入れだってあるのだ。

「ま、ゆっくりやればいいよね」

 部屋の外では、しとしとと雨が降り続いていた。勢いは弱まっているから、今日の夕方か夜あたりには降り止むかもしれない。



「ふぅ、こんなところかな」

 こずえがいない分、いつもよりしっかりと掃除をしていたら昼食の時間になっていた。

 自分一人なので、何か軽いものでも御膳所で貰えればいいと思っていたのだが、凛花の体格を見た、まだ新入りらしい御末女中に「でっかいお人なんだからたくさん食べますでしょう」と親切を焼かれてずいぶんと大きな握り飯を四つも貰ってしまった。

 これは流石に多いかとも思ったのだが、最初に食べた梅干しおにぎりが美味しくて食欲に火がついてしまい、おかかおにぎり、味噌入りおにぎり、鮭おにぎり、と全部たいらげることができた。


「あぁ、そういえばもうお米の収穫終わったのかな」

 お米が妙に美味しく感じるのは、秋の新米だからなのかもしれない。

 凛花は食材とそれを調理してくれた御膳所の女中たちに感謝するための「ごちそうさまでした」をいつもより丁寧に口にした。

 食べ物を美味しいと思えるのは、まだ健康な証だ。たぶん、きっと。だから凛花は健康だ。多分、きっと。

 食後のお茶を飲んでいたら、桜のふすまの外で気配がした。

 今日は他の御錠口の娘たちも鍛錬が休みだそうだから、喜多か久深か千恵あたりだろう。そうあたりをつけて「どうぞ」と気安く外に声をかける。


 ことり。

 おずおずと、桜の描かれたふすまが開く。

 そこに立っていたのは――豪奢なお姫様の着物を着た、宵だった。


「……宵、姫」

「凛花、入ってもよいか。宵一人だ」

 何度見ても、宵だった。

 凛花が抱きしめたくて仕方がなくて、ずっと焦がれている愛おしい少女だった。

「入って、いいよ」

 否はない。あるわけがない。

 こくこくと何度もうなずきながら、部屋に入るように促した。

 宵は、髪にたくさん刺さっているかんざしや豪奢な打ち掛けがいかにも重たげなゆっくりとした所作で部屋に入ってきて、丁寧にふすまを閉める。

 これで、桜のふすまの部屋には凛花と宵の二人だけになった。


「……」

「……」

 宵は、座布団など勧められる前に畳に直接座った。

 こうして姫様装束を身に着けていると、やはり彼女が徳川家の姫君なのだと思い知らされるようで、凛花の心は外側から冷たくなっていくのを感じる。

「あの」

「凛花、今日は大事な話があってきたのだ」

 自分の部屋であるにも関わらず居心地が悪くなってきて何か話そうとしたところで、宵が真面目な口調で話し始めたので、続きを促す。

「何かな」

 彼女は、呼吸を整えてから『大事な話』を始めた。


「凛花には、宵の……宵姫の傍仕えになってもらいたいのだ」


 思わぬ言葉に、凛花の呼吸が止まりかける。

 それに気づいているのかいないのか、宵は話を続けた。


「凛花には宵の傍仕えになってもらいたい。そうすれば凛花はもうあんな戦いをして傷つくこともないのだ。それに、宵の輿入れ先にもついてこられる。そうすれば……宵は凛花とずっと一緒にいられる、ずっと」

「ち、ちょっと、ちょっと待って」

「どうしたのだ凛花、やはり嫌なのか」

「そうじゃなくて、今の話を咀嚼する時間を」

 冷めかけたお茶を一気に飲み干して、凛花は体の中の空気を入れ替えるように深く呼吸を繰り返した。


「傍仕えって、誰が」

「凛花に宵の傍仕えになってほしい。輿入れ先にもついてきてほしい。そうすればずっと一緒だぞ」

「……輿入れ先に」


 それはつまり、凛花が、誰か他の殿方の妻になった宵姫の、近くで仕え続けるということだ。大奥を離れて。一人ぼっちで。

 公には他の殿方の奥方になった宵を、ずっと、見ていられるのか。宵はそれで平気なのか。凛花にはまるでわからなかった。


「宵は、それで平気なの……?」

 その疑問をつっかえつっかえ口にすると、彼女は少し戸惑いながら思いを話してくれた。

「平気ではない。だが、宵は……凛花がそばにいてくれれば、きっとどんなことも乗り越えられるから、だから、そのためにも。凛花に来てほしいのだ」

「……宵」

 彼女の手は、震えていた。

 きっとこの決断をするのにも、すごく勇気を奮ったことがわかる。


 しゅるっ、と衣擦れの音がする。宵が正座したまま近づいてきてくれているのだ。


「宵は、凛花が一番好きだ」


 彼女の小さな手が、凛花の両頬を柔らかく包んでくれる。

 ……そのまま、整ったかんばせが近づいてきたかと思うと、柔らかく温かく、甘やかなものが唇に触れた。


 その逢瀬は、ほんの僅かな時間だった。

 けれどそれで充分に凛花には気持ちが伝わる。


「宵……」


 唇が離れてもなお名残惜しくて、凛花は大きな腕で小さな彼女を抱きしめた。

 彼女の腕も、それに応えてくれる。

「私も、宵が一番好きだよ」

「それは嬉しいことだ」

「ちゃんと、守るからね」

「あぁ、宵も凛花のことを守る。任せてくれ」

 まだ幼さを残した声でそう力強く宣言するのが可愛らしくて、凛花は彼女の首元に唇をよせた。やわらかな、いい香りがする。

「宵はいい匂いがするんだね」

「着物に香を焚きしめているからな。この匂いは好きか?」

「この香の匂いだけじゃなくて、どの宵の匂いも好きだよ」

「嬉しい。凛花といると、いっぱい嬉しい」

 きゅ、と宵の腕が凛花の背中を精一杯抱きしめてくれているのがわかる。


「好き、好き……」

「嬉しい、嬉しい……凛花、嬉しい」


 あぁ。

 なんて。可愛らしくて愛おしくていじらしい存在なのだろう。




 逢魔が刻には、雨は降り止んでいた。


 赤い夕陽に照らされて、雨のしずくを浴びた紅葉が一層赤い。

 まるで初めて宵と会ったときの、赤い空のようだった。


「秋は夕暮れ……か」

「枕草子だっけ」

「ああ」


 秋は夕暮れが一番美しい。

 それは凛花とてもよくわかる。

 だって、大奥の人工的に植えられた木々からはらりと池に落ちる紅葉と、それを照らす夕陽でさえ、とても美しいのだから。


「では凛花、傍仕えの件はお前の上役と、御錠口本役に話を通しておくからな」

「はい」

 居住まいを正して凛花もそれに返事をする。

「宵はもう戻らねばならぬ……残念だが。その、長居をしてしまって済まなかった」

「……もっと長居をして欲しいと思ったのは、贅沢なのかな」

「凛花」

 たしなめられるように名前を呼ばれるが、その響きには甘やかなものが混ざっているのが嬉しくなる。

「では、宵はもう行く。またな、凛花」

「……うん」


 幸せを噛みしめるように、凛花は桜が描かれたふすまをゆっくりと丁寧に閉める。

 ひとひらの紅葉が、また作り物の池にはらりと散っていった。



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大奥は花の錠前で護られて 冬村蜜柑 @fuyumikan

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