誘惑
ずきずきと頭が痛い。
頑丈さが取り柄で、風邪ひとつひいたことのない凛花だが、最近はどうにも体が重たくて、頭の痛みや胸のあたりの締め付けるような痛みがずっと取れなかった。
いつもなら飯を食べて眠れば朝にはすっきりとしているのに、疲労は癒えることなく重くのしかかってくるような感覚。
心の不調が体の不調にもつながるということを、凛花は初めて思い知った。
それでも凛花は刀を構えなければいけない。
それがお役目だからだ。
「……行きます!」
今夜は月が大きくて赤い。
こんな夜は強力なアヤカシがでることが多いと、こずえから聞かされている。用心したほうがいいだろう。
「おう、アタシはせいぜい後ろから豆鉄砲撃ってるから、頼んだよぉ」
ニヤニヤ笑いながら声をかけてくるのは、ほうせんかの錠前である織人紅衣だ。そんな彼女を、こずえがたしなめている。
今日はかなりの人数が不寝番についていた。それだけ警戒しているということなのだろう。
「凛花さん、大丈夫ですか?」
呼吸を整えているところで、そっと近寄ってきたのは喜多だった。
「大丈夫って、何が」
「その、最近の凛花さん……体調がよくないみたいなので。それで、大丈夫なのかと……私、心配で」
「大丈夫だよ」
ぴしゃりとはねのけるように、言葉を返す。
凛花はどこも怪我をしていないし病気をしていない。それは確かなのだから。
「でも」
「大丈夫。お役目はちゃんと果たすよ」
彼女の目が明らかに心配だと訴えていたが、凛花はそれを見ないふりをして大奥の庭をずんずんと突き進む。
落ち着いた色合いの秋の花が植えられて、ススキがさわさわと風になびき、人工の池に赤い月がうつっている庭は、どこもかしこも美しく整えられていて、こんな気持ちと体調でなければ景色を楽しむこともできたかもしれなかった。
秋の涼しい夜風でさえも、今は不愉快で仕方がなかった。
「アンタ、珍しく荒れてるじゃないか」
不意に背後から声をかけられる。
ほうせんかの錠前、織人紅衣だった。
「紅衣様」
「アタシが言うことじゃないけどさぁ、もうちょっと周りのことも見るんだね」
喜多やこずえが心配してくれていることを言っているのかと、最初は思った。だが、そうではない。
紅衣が火縄銃を構える。
その彼女を守る位置で、凛花も刀を構えた。
「流石にカンがいいね。大したもんだ」
「そりゃあ、うちのお母様に鍛えられていますし」
「数は……五ってところか」
「多いですね」
「こんなに赤い月の夜なら珍しくもないさ。たいして強くもなさそうなアヤカシだ。アタシが援護するから、さくっと行ってきなよ」
「はい!」
アヤカシは、鬼火を纏ったヒトガタだった。戦国のころの足軽のような鎧を纏っているから、刀が通じにくいかもしれない。
まず一体、紅衣の火縄銃で眉間を撃たれて落ちた。ヒトガタのアヤカシは、だいたい人間と同じ急所を持っているからわかりやすい。
残り四体。凛花も刀を振るう。大きな振袖がそのたびにくるくると翻る。
ぶん、と振った刀で、足軽アヤカシの首がすぱんと落ちる。気持ちいいほどあまりにきれいに切れた。
残り三体。
アヤカシの鎧の隙間に刃をねじ込み、胴を切る。
「せいやぁっ!」
誰にも遠慮なく声を張り上げ、思いっきり刀を振り回す。何も考えなくてもいい、ただ、あのアヤカシを屠ることだけ考えていればいい。
「あと二体っ!」
「はいはい、暴れるのもいいけど、背中にも気をつけてねぇ」
鉛玉が、凛花の背後に忍び寄ろうとしていた足軽アヤカシの首筋を射抜く。
「ありがとうございます」
「これであと一体。アタシは他に行くから、アンタもちゃんと仕留めておくんだよ」
ざく、ざくとじゃりを踏みしめる足音が遠ざかる。
「……はい、紅衣様」
心の中で頭を下げて、凛花は足軽アヤカシと刀を向け合う。
「お覚悟」
そう小さくつぶやいたのは、独り言のつもりだった。
だが。
「終わりのないアヤカシである我らに、何を覚悟せよというのか」
返事がかえってきた。アヤカシの声だ。
「な……」
アヤカシがこんなに理性的に話すのに直面したことがなかった凛花は、思わず手が止まってしまう。
「驚いているのか。赤い娘よ。それも仕方がない。我らのような言葉を理解するアヤカシは、あまり徳川の居城に姿を現さぬようにしているのでな」
「……」
刀を持つ手になんとか力を込め直し、凛花はアヤカシを睨む。
こいつは、一体何なのだ。
「赤い娘よ。お前もこちら側に来ないか?」
「な……馬鹿にしているのか……っ」
「馬鹿になどしておらぬ。だが、こちら側は人の世のしがらみからは自由でいられる。その髪、その瞳、その容姿、人の世ではさぞかし苦労しておろう」
「黙れぇ!!」
あらん限りの力で振るった刀は、しかしアヤカシに簡単にいなされた。
「哀れな娘だ」
「……黙れ」
アヤカシにまで哀れみを受けるほど、自分は惨めなのか。
凛花の手がぶるぶると震えて、刀をまともに持つこともできない。足にも力が入らない。
自分は、惨めだ。
そんな凛花に、とても優しい声でアヤカシは語りかける。
「あぁ……そうか。ならば、あの徳川の姫とともに来てもよいのだぞ。お前が誘えば、あの姫君もこちら側に来るだろう。そうに決まっている」
「……!」
それは……じわりと、ひび割れた心に染み入りこびりつく甘い甘いねっとりとした蜜のような誘惑だった。
「来るがよい、あの姫とともに」
人の世のしがらみから逃れて、宵とともに暮らすことができる。
それは。
なんという。
甘い毒。
凛花がその甘さにつられ、アヤカシの瞳に魅入られかけたその時。
「聞いちゃ駄目です!」
風を切る音とともに、槍が飛んできた。いや、槍ではない、穂先があるが戦旗だ。
喜多が、凛花の隣に懸命に走ってやってくる。
アヤカシはギリギリで飛んできた戦旗を躱すと、悔しそうに舌打ちをした。
「なんだ。もうすぐだったのに」
「させません!」
喜多が、アヤカシから凛花を守るように、小さな体を震わせながら懸命に両手を広げる。
「凛花さんは、私が守ります。連れて行かせたりなんかしません」
その様子にアヤカシはつまらなそうな表情を浮かべた。
「興がそがれた。今夜は出ていくとしよう」
アヤカシが霞のように消えてからしばらくの間、喜多は手を広げたまま黙っていた。
「……喜多」
「凛花さん。行かないで、行っちゃ駄目です」
「ごめんなさい。心配をかけた」
「そういう事を言っているんじゃないです!」
叫びながら振り返った喜多の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「ごめん。ごめんね」
泣いている彼女に、いつものように頭を撫でようと近づく。
心配をかけてしまった。不安にさせてしまった。怖い思いをさせた。だから、落ち着かせてあげなければいけない。
「ごめんね」
いつものように頭を撫でると、彼女はいつものように怒ることもなく、されるがままになってくれた。
「ごめんね」
「……謝らなくていいんです……私の方こそ申し訳ありません。取り乱して」
べそべそと泣いていた喜多がようやく涙を引っ込めてくれた。それだけでも凛花はちょっと安心できた。
「こんなんじゃあ、お母様に怒られちゃうね」
「そうですよ。きっと凛花さんも私もお叱りを受けると思います」
「それはちょっと怖いなぁ」
凛花は笑いながら地面に突き刺さったままの喜多の戦旗を引き抜いて、彼女に手渡してやった。
「ありがとうございます。さぁ、凛花さん行きましょう」
「そうだね――朝は、まだまだ来ないもの」
振り切るように、二人はその場を離れる。
――それでも凛花の耳には、まだあの甘い誘惑の声がこびりついていた。
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