忘れないで
「ただいまもどりました」
桜の描かれたふすまを開けて、いつもの部屋にもどってくると、奥で書き物をしていたらしいこずえが顔をのぞかせた。
「あぁ、凛花。おかえりなさい。今日も鍛錬、おつかれさまでしたね」
どうしてか、こずえの声がいつもよりさらに優しく感じられる。それに、わずかに震えていて、何かを恐れているようにも。
何かあったのだろうか。
「お母様、どうかしたのですか」
「……いいえ。なんでもありませんよ。それより夕食にしましょう。膳をもらってきてもらえますか」
『母』であるこずえになんでもないと言われたら、それ以上食い下がるわけにもいかない。凛花は、わかりましたと言って部屋を出た。
大奥の食事を取り仕切る御膳所に向かう途中で、女中たちが噂話に興じているのが障子越しに聞こえてしまった。
外から切り離されて女だけの国である大奥で、何をそんなに話すことがあるかとも思うが、これも数少ない娯楽なのだろう。凛花も注意できる立場ではないから、そのまま通り過ぎようとしたが――
「そういえば、宵姫様のお輿入れがようやく決まったんですってね」
頭を重たい棒で殴られたかのような衝撃。
体がぐらぐらする、ちゃんと床にまっすぐ立てていないような。
膳を持っていなくてよかった、持っていたなら、せっかくの食事を床に全部ぶちまけてしまっていただろうから。
ふらつく足と頭で、どうやって御膳所までたどり着いて膳をこぼすことなく持って帰れたのかは凛花にもわからない。
気がつくと凛花は、こずえの部屋の布団で寝かされてた。
「宵、姫……」
思わず口をついて出たのは、宵のことだった。
「宵姫……宵……」
何が悲しいのかもわからない。なのに凛花は涙を一粒こぼしていた。
ついたての影から、そっとこずえが現れる。
あぁ、きっとお母様は知っていたのだ。
宵とのことも、凛花が宵を思っていることも、そして宵姫の輿入れの話も――
「凛花、今はお泣きなさい……泣いていいのです」
こずえに泣いていいと言われて、凛花は泣いた。
泣いて、泣いて、泣いた。
わんわんと声を立てて、多分、生まれてきた時と同じぐらいにたくさん泣いた。
泣いている凛花の背中を優しく撫でながら、こずえは宵姫のことを少しずつ教えてくれた。
生まれてすぐに産みの母を亡くしたこと。
最初の婚約者を六歳で亡くしたこと。
次の婚約者を十歳で亡くしたこと。
次第に上様も御台所様も、宵姫を疎んじるようになったこと。
今回の輿入れは外様大名家へではあるが、相手も年齢は近く、とてもいい縁組であること。
凛花はそんな話を聞きながら、ずっと泣いていた。
宵姫ではなく――『宵』という少女が、大奥から、自分の前からいなくなってしまうのが悲しくて、泣いて、泣いて、泣き続けた。
こずえは、そんな凛花に一晩中付き添ってくれていた。
どんなにつらくても、朝はやってくるし、果たさなければならない勤めはある。
「…………」
こずえは優しくしてくれたが甘くはない。凛花は自分の身支度を整えて、それからのろのろと室内の掃除を始めた。
はたきをかけて、机を拭き清めて、畳を掃き掃除して。
何も考えず、いつもの通りに手を動かすのはそれなりに気が紛れる。
これも、こずえなりの母としての気遣いなのかもしれなかった。
「ふぅ」
人が少ないので物も少ない部屋は、掃除もすぐに終わる。
鍛錬で体を動かそうかと思っていたところで、桜の描かれたふすまがことり、と音を立てて開いた。
「……凛花」
「宵」
現れたのは宵だった。
昨晩――今も――泣くほどに会いたくて仕方がなかった、宵だった。
「その、凛花に会いたくて、昼間だが来てしまった。……はしたなかっただろうか」
「ううん。そんなことない……私も、会いたかったから」
人目につかないうちに、ということで宵を部屋に手招きすると、宵はそっと桜の描かれたふすまの内側に入ってきてくれた。
「他に人はおらんのか」
「もともと部屋親の方と私だけだから、昼間はほとんど私一人だけだよ」
「そうなのか」
とりあえず凛花が普段使っている座布団を勧めて、彼女に座るように促す。凛花のぶんの座布団がないが、仕方がないだろう。
「凛花」
いつものようにきちんと人形のように正座した彼女が、この部屋にいるのはなんだか不思議な気持ちだった。
「その……噂などは聞いただろうか」
「噂?」
「……宵の、輿入れの話だ」
「……っ」
本人から改めてそのことを聞くと、重たい棒で殴られたかのような衝撃がまたも襲ってくる。聞きたくはなかった。だがやはり、本当なのだ。口の中に苦い味が広がる。
「じゃあ宵は、本当に」
「上様と御台所様が決めたことだからな。宵は……父上と母上にずっと迷惑をかけてきたから、少しでも徳川家のお役に立ちたいのだ。……凛花が、命をなげうってお役目を果たしてくれているように、宵も」
ぽつぽつと話してくれるのを聞くうちに、胸が締め付けられるような思いが襲ってくる。こんなに小さくていたいけな少女が、けなげにも役目を果たそうとしているのだ。
「そんなのって……」
「宵は、お役目を果たしたい。父上と母上に喜んでいただきたい」
「それで、宵はいいの?」
我ながら卑怯だと思う言葉を投げかけてしまった。
「私は、宵にもう会えないのが悲しくて辛い。宵は……そうじゃないの?」
「……そのことなのだが、凛花」
彼女が何かを言おうとした時、ふすまの向こうに誰かが立っている気配を感じた。
「凛花さん。いらっしゃいますか?」
喜多の声だった。
鍛錬場に現れない凛花を心配して来てくれた、ということだろう。
「うん、いるよ。ごめんね。…………その、掃除が長引いちゃって」
「そうですか……」
「もう少ししたら鍛錬場に向かうから、先に行っていてくれるかな」
「わかりました。では先に行ってますね」
そう言うと、ふすまの向こうの喜多の気配は静かに遠ざかっていった。
「ふぅ……」
思わず安堵のため息をつく。
この部屋に宵姫がいることを喜多に知られたら、どうなるか――多分、あまりいいことではないだろう。
「それじゃあ。私は鍛錬に行くから。宵も早めにお部屋に戻るんだよ」
すがるような彼女の目を見ないように、凛花はふすまに手をかける。
そのときだった。
「……凛花」
絹のなめらかな感触と、ふんわりと柔らかな宵の腕の感触。
後ろから、抱きしめられているのだ。
「忘れないでほしい。宵は、凛花のことが一番好きで、一番守りたい。それだけは忘れないでほしい。信じてほしい。ずっと、ずっと」
切実さがこもった声が、背から響く。
「……忘れてないよ」
凛花は彼女の柔らかな腕をそっと振り切って、廊下に出た。
本当は――ずっと宵に優しく抱きしめていてほしかった。でもそういうわけにもいかなかった。勤めは果たさなければ、凛花は大奥にいられないのだから。
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