幸せな味
そんな凛花が宵に会えたのは、町へ出てきた日の夜だった。
いつもどおり、暗い廊下で人形のようにきちんと座っている稚児髷の少女を見つけて、凛花は思わず彼女を抱きしめたくなった。
だが、ぐっとこらえて、なんでもないような風を装って隣に座る。
「宵、こんばんは。会えて良かった」
「凛花。うむ、会えて良かった。……なんだか、いつもと匂いが違うな」
「匂い? あぁ。町に行っていたからかもしれない」
「ふむ」
と言うと、彼女は凛花の首元にかじりつくように顔を近づけて、すんすんと匂いをかいでいる。
「宵……なんかかなり恥ずかしいんだけど……」
「ふむ? ……あ、あぁ、すまぬ。外とはこのような匂いがするのかと思ってな」
すまぬとは言ったが、宵は離れようとしない。
恥ずかしいしくすぐったいが、やめさせることはできそうになかった。
なにせ大奥で生まれ育った将軍家の姫である宵は、外を知らないのだ。そんな姫君が外の匂いのするものに興味を持っても仕方がないだろう。
凛花は自分の胸元で鼻をすんすんさせている姫君の背中を優しく撫でてやる。
「……いつもの凛花の匂いと……ちょっと砂っぽい匂いと……あとは、なんだか甘じょっぱい匂いもする。何だろう」
「それはきっとこれかな。宵と一緒に食べようと思って買ってきたの」
凛花が取り出したのは、町で売っていた袋入りのおかきだった。最初は何か甘いお菓子でも買おうと思っていたのだが、店先に漂う香ばしい醤油の匂いにつられて、ついつい買ってしまったのだった。
「宵も食べていいのか」
凛花の首元に埋めていた顔をあげ、つぶらな瞳をきらきらさせて言われてしまって「駄目だ」と言えるわけがない。それにもともと二人で食べるために買ってきたのだ。
「もちろん」
「それなら、凛花に食べさせてほしい」
「え」
「……凛花の手で食べさせてほしい。駄目だろうか」
駄目とかそういう問題じゃなく。
いやだがしかし。
……食べてほしいし、食べさせたい。
本人が食べさせてほしいと言っている以上、問題ない!
「だ、駄目じゃない……」
「それなら食べさせておくれ、凛花」
目を閉じて、小さな口をあーんと開ける宵の、その表情すら可愛らしくて、凛花はどきどきしながら震える指先でおかきの袋をあけて、その中からひとつ摘む。
「……はい」
「うむ」
宵が口の中のおかきを咀嚼する。
かりぽり。
かりぽり。
かりぽり。
可愛い少女は咀嚼音まで可愛らしいのかと、凛花は妙なことを考えてしまっていた。
「とってもうまいぞ、凛花」
「そ、それはよかった」
「次はな、宵が凛花に食べさせるぞ」
「それは……」
抗えない、甘いお誘い。
「駄目だろうか」
「駄目じゃない! ……です」
なぜか敬語になってしまいながらも、凛花はこくこくと何度もうなずく。
「なら、口を開けておくれ」
……さきほど宵がしていたように、目を閉じて口を開ければいいのだろうか。なぜだろう、食べさせる側も恥ずかしかったが、これはこれで異様なまでに恥ずかしい。
「ん」
どうにかこうにか覚悟を決めて、口を開く。目は開けたままだ。
清水の舞台から飛び降りる、という言葉があるが、もしかしたらこういう状態のことを言うのかもしれない。
宵が慈しむような笑顔を浮かべると、小さな手指でおかきを口に運んでくれる。ほんのわずかに唇に触れた柔らかい感触は、もしかしなくても宵の指先だろうか。
「はい」
かりぽり。
自分の咀嚼音が響く。
「あまい……美味しい……」
不思議なことに、宵に食べさせてもらったおかきは、店先で食べた同じものより甘く感じられた。
「美味しい……」
「そうか、ならもうひとつ凛花が食べるといい、ほら」
そう言って、宵はどんどん凛花におかきを運んでくれる。
噛みしめるほどに、美味しくて、甘くて、幸せな味だった。
「お月見?」
「はい、中秋のお月見ですよ」
「それならなんとなく聞いたことがあるような……お団子とか供えるんだっけ」
物知らずの凛花にとっては秋のはじめ頃にお団子が供えられていただけの日だが、大奥ではそれも立派な行事らしい。
今日も鍛錬場で一緒になった喜多が、いろいろと教えてくれる。
「月見の宴が催されたり、御歌合わせが行われるそうですよ。上様と御台所さま、それに姫様方の間で贈り物をしあったり」
「……贈り物」
思わず思い返してしまうのは、先日に宵と食べさせあったおかきのこと。あれも贈り物ということになるのだろうか。
宵の指の感触を思い出して顔が赤くなりそうなのを、ぶんぶんと首をふってごまかす。
「凛花さん?」
「な、なんでもないよ」
「ならいいのですけど……」
「それよりさ、上様たちや御台所様の贈り物ってどんなものなんだろうね、きっととっても豪華なものなんだろうな」
なんとなく場をごまかすために投げかけた言葉だが、喜多は目をぱちぱちさせて、それから真剣に考え込んでいる様子だった。
「竜胆のお母様が昔聞いた話では、京で織られた帯や、銀鎖の小物入れ、それに犬用の服などが大奥でもお偉い方々の贈答品として用いられているとか」
「犬用の服?」
「そのように聞きました。大奥ではよく
犬用の服。
人間でもろくに着るものや布団が手にはいらないこともあるのに、ところ変われば犬が着飾るらしい。
「馬具とかならまだわかるんだけどなぁ。つつじの錠前様はすごく喜びそう」
「あぁ、それはたしかに。……ふふっ、そうですね」
いつもしっかりものの喜多が、何気ない一言に笑っているのが年相応さを感じさせて、凛花は思わず彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「む……子供扱いは困ります」
「若者扱いしてるだけだよー」
「それは子供扱いじゃないですか!」
ぷくーっとふくれる喜多の顔が面白くて、凛花も笑い出す。
鍛錬場の隅で起こった笑いに、他の者達が何事だとこちらの様子を伺っていた。
「もう、注目されちゃってるじゃないですか……」
「気にしない気にしない」
「凛花さんのせいですよ」
むぅ、と唇を歪ませて睨んでくる喜多の頭を再びぽんぽん、と軽く撫でるのだった。
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