赤色の季節
赤トンボが、人工的に植えられて管理されているというススキの上を軽やかに飛んでいく。
凛花が大奥にやって来て、初めての秋が訪れていた。
ひらひらと飛ぶトンボが刃の上に止まってしまわないように、凛花は刀を鞘に納める。
「凛花さん、これから真剣での鍛錬ですわよ」
「でもトンボが」
「天下に名高き名槍『蜻蛉切』ならともかく、刀の先に止まったぐらいでトンボが切られることはありませんわよ」
「さすがに切り合いしてたら危ないでしょ」
久深はよほど真剣での鍛錬を楽しみにしていたようで、凛花が刀を鞘に収めてしまったことにずいぶんと不服そうにしている
「なんだか赤トンボは他人に思えなくてね。わたしもこのとおり髪が赤いから」
「まったく、赤いというだけで身内にしていたら彼岸花からマグロの切り身までみーんな凛花さんのお身内になってしまいましてよ」
「マグロの切り身って……」
「それに……あぁ、あれも凛花さんのお仲間かしら」
と、久深が視線をやったのは、赤い夕陽だ。
随分とまた大きなものまで仲間にされてしまったものだ。
「さすがに夕陽は違うんじゃないかなぁ」
「ともかく、トンボが飛んでいるから鍛錬ができないというのなら、中に入りましょう。せっかくの真剣での訓練許可なんですから逃すことはできません」
「頑張ってください、ふたりとも」
「凛花さん。怪我をしたらすぐに呼んでくださいね。治しますから」
見送ってくれる喜多と千恵に手を振って、やる気満々の久深に引きずられるように、凛花も稽古場へ向かうことにする。
秋。
凛花が大奥に来てから、すでに半年ばかりが過ぎていた。
「ずいぶんと躱し方が巧くなりましたわね」
「毎回、藤の人たちにお世話になるわけにもいかないからね」
赤い夕陽がすっかり傾いて暗くなったので、二人とも刀を鞘におさめて、今日の稽古で気づいた点を話し合う。
久深にいわれた通り、最近は躱し方の鍛錬も積んでいる。何も体で受けるだけが桜の錠前の戦い方ではない。そのおかげか、このところは呉服之間の縫い物女中たちに文句を言われることも少なくなっていた。
「千恵が嘆きますわね、傷口が見られないって」
「残念だけど他の人を見てもらおうか」
傷が減ったので、藤の錠前の癒やしに頼ることも減ってきた。こうして熟達がわかるのだから鍛錬も楽しい。
「それでは、今日はこの辺にしましょうか。もうすっかり夜です」
「秋はすぐに暗くなっちゃうもんねぇ。今日の夕食って何だっけ。お腹すいちゃって」
「今日はサンマの塩焼きだと聞いておりますわね」
「サンマかぁ……ご飯、どのぐらいおかわりできるかなぁ」
献立がサンマの塩焼きということなら、いつも以上にご飯がすすむだろう。なんて言ったって秋の旬・サンマなのだから。多少冷めてしまっていても、ご飯がお茶碗四杯分はなくなることは間違いない。
そこまで夢想した凛花だが、ふととあることを思い出した。
「そういえば、サンマって上様の御膳には出ないって聞いたけど」
「えぇ。そうですわね。足の早い下魚ですもの」
上様がサンマを食べないということは、そのご家族も食べないということ。つまり、上様の姫君である宵もサンマを食べたことがないということだ。
「そっかぁ……美味しいのに」
サンマはあんなに美味しいのに、宵は食べたことがないのだ。なんとかして食べさせてあげられたらいいが、さすがにこれは赤い木の実のようにはいかないだろう。
「さぁ、早く出ますわよ。あなたがあんまりサンマのことを言うものだから、こっちもすっかりお腹が空いてしまいましてよ」
久深がいつもよりちょっと荒っぽい歩調で稽古場を出ようとするので、凛花も慌てて続く。
「そ、そんなに言ってたかな」
「言ってましたわ。あぁ、もう、これはご飯のおかわりは確実ですわね」
「それならよかった。たくさん動いて鍛錬した後に、いっぱいご飯を美味しく食べるのが強くなる一番の近道だからね」
「あなたが言うと妙な説得力がありますわ」
夕食を食べた後、お茶を飲みながらこずえに今日一日あったことを報告する。
報告ということにしているがそんなに堅苦しいものではなく、今日の鍛錬のことや、他の部屋子たちとのこと、赤い夕陽や赤トンボや、サンマの塩焼きを楽しみにしていたことなど、とても他愛無い内容だ。
凛花の『母親』が、もしもちゃんと凛花の話を聞いてくれる人だったなら、こんな会話をしたのかもしれない、というような内容だ。
それをこずえがいちいち頷いたり微笑んだりしながら聞いてくれる。
とても嬉しくて――どこか切ない時間だった。
「他の『娘』たちとも仲良くできているようで、なによりです」
「仲良く……できてますかね」
「できていますよ。あなた達の仲が悪いのだったら、今頃私と紅衣などは戦をしているかもしれませんね」
「そんなことはない、と思いますけど」
冗談のつもりだろうが、凛花から見ても、こずえと紅衣の絆は深い。というか、余人には理解できない絆があるような気がしていた。
……こずえの『母』が亡くなったことを、紅衣もずいぶん気にしているようだったところからも、それは伺い知れる。
「それより凛花。町へ出る日が近いから、これを渡しておきますね」
こずえがそう言って差し出したのは、紙でくるんだお金だった。具体的にどのぐらいかは見えないのだが、一日町へ出て遊ぶには充分な額だろう。
「よろしいのですか」
「えぇ、紅衣にもちゃんと渡すように言われてますから、凛花もちゃんと受け取ってくださいね」
また紅衣の話が出たことは、こずえはあまり気にかけていない。自然な様子だ。
「は、はい……ありがとうございます」
凛花がおずおずと紙のつつみを受け取ると、思った以上に重みがあった。
「きちんと遊んでくるんですよ」
「はい」
返事はしてみせたものの、凛花としては少しばかり複雑な気持ちだ。
久深や千恵や喜多と町に遊びに行けるのは楽しいだろうが、そこに自分のような者がいて、果たして他の皆は楽しめるのだろうか。
こんな、赤くてちぢれた髪の、へんてこな色の瞳の、背高のっぽな、赤鬼のような女がいて、他の皆は楽しいだろうか。
皆は気にしないそぶりをしてくれるのだろうし、気にするなといってくれるのだろう。
……あぁ、そうか。
そうなのかもしれない。
結局のところ、赤鬼のような自分の容姿を一番疎んでいるのは、他の誰よりも自分自身なのかもしれない。
そんなことを考えてしまうと、無性に宵に会いたかった。
――こんな恐ろしい赤鬼のような凛花のことを、一番好きだと言ってくれた、あのけがれない瞳の可愛らしい少女に会いたくて仕方がなかった。
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