「姫様」




 夏も終わりかけの夜は、冷たい風が吹き渡る。

 その風とともに、鎌のような手を持つ獣型のアヤカシがひゅんひゅんと飛び回っていた。


「皆さんっ、お手持ちの武器を強化します。こちらに!」

 戦旗をかざした喜多が、風を切り裂く音にまけじと声を張り上げる。

「怪我をしている方は今のうちに止血いたしますね」

 千恵がそう言って負傷者の手当にあたっているが、先程まで薙刀を振るって前で戦っていた彼女も血を流していた。

「さっきからずっとかばってもらっているわね……こっちも少しはいなせますから、気にしなくてよろしいのよ」

 今夜はずっと大刀を振るいっぱなしの久深が、こちらを気遣ってくれる。

「ううん。久深さんはアヤカシを屠るのに集中してほしい。私は頑丈だから」

 しかし、凜花はぷるぷると首を振って、こちらはまだまだ大丈夫で問題ないことを伝えようとした。

「けれど今日は、随分数が多いですね。今、お母様――御錠口本役の雪緒様に増援をお願いしているところですが」

 一般に、小さな獣型のアヤカシはそう大した力も知恵も持たない。つまり、普通なら苦戦するような相手ではない。

 しかし今夜大奥に出没したアヤカシは、数が多く、統制が取れているようにも見えた。おそらくは一つの群れなのだろう。


「これだけ統制の取れた群れなら、逆に群れの主を倒せばあとはてんでに散っていくかもしれません」

「だったら」

 ざんっ、と大刀を地面に突き刺して胸を張る久深。

「その群れの主を倒すのは私たちの役目ってことですわね」

「……『私たち』……?」

 凜花が首を傾げると、久深はこちらを見上げて「えぇ、私と凜花さんですわ」とこともなげに言った。



「今です!」

 喜多の合図の声とともに、凜花と久深は着物の裾をひるがえして走りはじめた。


 ――群れの主は、これまで前線に姿を見せていない。おそらくは、自軍の本陣でゆうゆうと構えているような性質なのでしょう。

 千恵の知識と勘を信じるなら、群れの主は安全なところにいるはず。

 二人は、前線に出てきているアヤカシには構うことなく走る。

 目指すは大将首、ただひとつというわけだ。

 時折、鎌状の刃がかすめて派手に血が飛び散るが、大したことはない。流血こそ多いが皮膚の表面を引っかかれた程度の傷だ。

 かばうなと言われてはいるが、なるべく久深を護れる位置取りで走っていく。

 彼女に先に倒れられてはいけない。


「……このぐらい守ってもらわなくても」

「こっちは問題ないもの」

「まったく、そんなに着物を血まみれに汚していたら、洗濯係の御末おすえ女中が泣いてしまいますわよ」

呉服之間ごふくのまからはよく怒られてるよ。これはいい反物だったから丁寧に縫ったのにってね」


 そんな軽口を叩きながらも、足は止めない。

「見つけた!」

 凜花は夜目がきく。おかげで、今にも尻尾を巻いて逃げようとしている群れの主らしきアヤカシの姿を見つけることができた。

「見つけたからには、逃しませんわよ!」

 示した方向に向かって、久深が跳躍する。


 と――何か、背後で人の叫び声がした。アヤカシではない、生きている、人間の女性と少女の声だ。


 聞き覚えのある声に、凜花は敵中であるにもかかわらず思わず振り返る。


「いけません! 危のうございます!」

「嫌だ! 凜花、凜花、凜花!!」


 ずっと向こう、大奥の渡り廊下から庭に裸足で飛び出そうとしている少女――宵を止める、女性たち。

「凜花っ……」

「お出になってはいけません、宵姫さま!」

 思わず、刀を取り落しそうになる。


 今なんと聞こえた。

 ……姫と聞こえた。

 宵姫、と。


「凜花……凜花……凜花……」

 泣きじゃくる宵、いや、宵姫は、侍女らしき女性たちによって室内に引きずり戻される。

「……宵、姫……?」



 久深によって大将を討ち取られ、鳴き声を上げながら逃げていくアヤカシたちの只中で、凜花は呆然とその名を呟いた。




 凜花が宵に会えたのは、その五日後。夏の最後の暑さを見せた日の夕暮れ時のこと。


「……待っていた、凜花」

「宵」


 姫と呼ぶべきなのかどうなのかと迷ったが、するりと口から出たのは彼女の名前だった。

 どこまでも赤い夕陽がゆっくり落ちていくのを眺められる廊下で、宵はいつもどおり人形のようにお行儀よく座っている。

 凜花も隣に座るように促されたので、長い足をどうにかこうにか折りたたんで隣に座った。


「本当はすぐにでも会いに来たかったのだが……その、なかなか部屋から出してもらえなくて、な……」

 うつむいて、目を合わせずに宵はそう切り出した。

 無理もない。あんなことがあった後なら、宵姫の侍女たちはそれはそれは心配したことだろう。きっと侍女たちは部屋から出ないように言って、ゆっくり静養させようとしたのだろう。それは想像に難くなかった。


「すまない。凜花」

「えっと……どうして謝るの」

「宵が何も知らなかったからだ。凛花たちはいつもああやって、宵達を……大奥を……そして徳川家を守ってくれていたのだな」

「宵姫……」

 彼女が、凜花に向き直って深々と頭を下げる。女中に向かって頭を下げるなど、それは徳川家の姫君がすべき行動ではない。

 凜花はこういう時、姫君に対してどうすべきかわからない。

 けれど自然に体が動いていた。


「宵、頭を下げなくていい、こっちを向いて」

「……凜花」


 凜花は、自然に宵の小さな体を抱きしめていた。

 夏の薄い着物ごしに感じられる彼女の肌は、あまりにも柔らかくて華奢だった。

「宵を守りたかったの。他の何でもなくて、宵を一番守りたいの。それだけなの」

 その言葉に、驚いたようにぴくりと宵の体が震える。

「それは……まことか」

「うん、宵を一番守りたい。宵のいる大奥を守りたかったの。宵のことが好きだから」


 おずおずと、彼女は凜花を抱きしめかえしてくれた。小さな細い腕で懸命に広い背中に力がこもっているのがわかって、胸が締め付けられそうなほど甘くて心地よい。

「それは宵もだ。宵も、凜花のことを一番守りたくて一番……好きだ……」



 夕陽がすっかり隠れ、やがて空にいくつもの星が輝くまで、凜花と宵は離れることなく互いに思いを語り合っていた。





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