震える声




 居場所が欲しかった。認めて欲しかった。役に立ちたかった。


 だけどそれさえも出来ないようでは。


 意識がどんどん底に沈んでいく。


 暗くて、冷たくて、何も無いところに。



『居場所が欲しければ―――がなる。だから、誰かの役に立つためにと焦らないで欲しい』



 ふっと射し込んだ光は、いつかどこかで誰かに言われた気がする言葉だった。


 あれは……誰に言われたのだろう。

 そんな優しくてあったかくて、幸せな言葉が、本当にこんな自分にもたらされたのだろうか。

 そう思いつつも、凜花はその言葉に触れることで、ふわりと心が浮き上がるような感覚になっていた。どこまでもどこまでも、ふわふわと温かなところまで。



 そうして――やがて目を覚ます。


「え……」

 視界に入ったのは見慣れた部屋の天井。それに、こずえ様の美しい顔だった。


「気がつきましたか」

「こずえ様……私」

 どうやら凜花はあの後に意識を失って、部屋で眠っていたらしかった。こずえは、ずっと付き添っていてくれたらしい。目の下に薄くクマがあり、結い上げた髪はやや乱れている。


「藤の錠前による治療で外傷はほとんど塞いだようでしたが、血と気が足りなくて倒れたのだろうとのことでした。食欲は無いでしょうが、今はきちんと食べて血を補いなさいな」

「こずえ様……」


 体が重いこともあるが、頭の中でいろんな感情がぐるぐると渦巻いて、うまく言葉が出てこない。

 無様をさらして申し訳ありません。

 勝手に持ち場を離れて、ごめんなさい。

 こんな私はもう見限ってください。

 ……ずっと付き添ってくれて、ありがとうございます。

「まだもうしばらく眠っておいでなさい。今、滋養のつくものをもらってきますからね」

 そう言って、凜花のおでこにそっと触れる少しひんやりとした手。

 その心地良さに、思わずするりと言葉が出た。

「ありがとうございます、お母様」

「……!」

 おでこに触れていた手が、ぴくりと震える。

 だけどこずえ様はとくに感情は顔に出すことはせずに、するりと立ち上がり背を向けた。

「えぇ。娘を守り育むことは……母の……お役目ですもの……」

 そう言って、部屋を出る。

 彼女の肩と声が震えていたことは、凜花だけの甘やかな思い出としてしまっておけばいいのだ。




「はぁ……寝てばかりでいいのかな……」


 初陣から数日。

 凜花は未だ部屋から出ることはおろか、寝床から出てきても叱られてしまう生活を送っていた。

 しかし、昔から体だけは頑丈で風邪にかかったこともない凜花なので、ロクに床から出ない生活など物心ついてからはしたことがない。ようするに養生すると言うことに慣れていないので、すぐにどうしていいかわからなくなってしまった。

 こずえがいるときは話し相手をしてくれたり、子守歌のようなものを聞かせてくれたり、滋養のありそうな食べ物を勧めてくれたりはする――つまり、ものすごく甘やかされているのだ。


 これはいけない。

 なんというか、こんな怠惰で甘くて幸せなばかりではすぐに駄目になってしまう気がする。これはいけない。


 そう思い立った凜花はこずえの居ない時を見計らい、愛用の木刀を携えて部屋のふすまを開け放つ。


 ふわあっ、と夏の終わりの青く強い匂いが吹き込む。

 夕暮れ時の赤い日差しは長い長い影を作り、凜花の後をけなげに追いかけてくる。

 気持ちのいい風が吹いている夕方だった。

 と、その廊下の向こう。まるで百年も二百年も前からそうしている人形であるかのように、きちんと着物の裾まで整えた正座をして、しゃんと背を伸ばし、座って庭を眺めている稚児髷の少女――宵がいた。


「宵。こんばんは」

「……凜花、その怪我はどうしたというのだ。なんでずっと会えなかったのだ。お役目で何かあったのか?」

 彼女は凜花の姿を認めると、まず驚いたような悲しそうな顔をして、それから矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。

 傷はほとんど塞いでもらったとはいえまだ包帯の取れていない箇所もあるので、それで不安がらせてしまっているのだろう。彼女のような少女なら血が苦手ということもあるだろう。このような姿を見せてしまって、申し訳ないことをしてしまった。


「ごめんなさい」

 だから凜花は謝った。不快にさせてごめんなさいと。


 しかし宵はというと、今度はぷりぷりと怒り出してしまった。

「どうして凜花が謝るのだ。宵はただ……会えないのが寂しくて、不安で、何事かあったのか、それを聞いておるだけだ」

「えっと…ごめん。って、また謝っちゃったね」

 何をどういったらいいものかと考えながら、彼女の隣に座る。


 廊下から見えるのは、出会ったあの日と同じような赤い空。だけど今日だけしか見られない色の、夏の終りの赤い空が重苦しい。


「初めてのお役目で焦っちゃってね、やっちゃったんだ」

「……」

「大丈夫大丈夫。見た目通りで体だけは頑丈なんだから、こんなのすぐ治る」

 宵の肩が震えているのを見て、怖がっているのだろうと思った凜花はわざとさばさばと言ってみせる。

 そう、こんなの、なんでもない。


「これも御錠口のお役目だもん――といっても私はまだ部屋子としてお手伝いしているだけなんだけど。とにかく、なんてことないよ」

「…………」

 ぼそぼそと何か言われたようだったが、聞こえない。

「え、何」


 よく聞こえるようにと顔を近づけると、その顔を突然小さな両掌で掴まれた。

「なんてことないわけがない。そんなの、なんてことないわけがなかろう……!!」


「宵……?」

 彼女は、泣いていた。

 幼くも美しい顔を歪ませて、口元は震え、真っ黒な瞳からはぽろぽろとしずくがこぼれ落ちてきている。

「すまない、凜花。すまない……」

 彼女は謝罪の言葉を繰り返していた。

 一体何に対して謝っているのかは、凜花にはわからない。

 むやみに感情をたかぶらせてしまって泣いていることを謝っているのかもしれないし、大声を出してしまったことに対して謝っているのかもしれない。


「すまない……」

 繰り返される謝罪の言葉に、凜花は彼女の背をぽんぽんと撫でるように叩いてやる。赤子にするように、優しく、暖かく。

 それで次第に宵も落ち着いてきたようで、涙が次第に止まっていく。

「人前で泣くことなど、幾久しい気がする。赤子のとき以来かもしれないな……」

 言葉の代わりに、彼女の背中を撫でる。


「宵」

「すまない。だが宵は凜花の身を案じておるのだ。凜花が心配なのだ」

「そんなに頼りないかな」

 掴まれた両頬に少し力がかかるのがわかった。

「頼りなくなどない、と思う。だが、たとえどんなに比類なきつわものだったとしても、その者と親しい者であれば不安になるときもある……だろう?」

 それはそうだ。物語や講談の主人公も、天下に並びないほど立派な武者ではあるが親兄弟や仲間からは行いを心配されている場面もあったりする。

「心配してくれてたんだね」

「……あぁ。そうだ」

 宵は少し考えたあとに、そう頷く。

「大丈夫大丈夫、さっきも言ったとおり、体だけは頑丈なんだもん」

 からりとした口調で先程と同じことを言うと、宵は何事か考えながらも「そうだな」ともう一度頷いてくれた。


 いつのまにか、赤かった夏の空が次第に薄青くなり、そして夜の色に染まっていく。

「いけない! 素振りしようと思ってたんだ!」

 木刀を掴みながらも急いで立ち上がる。久しぶりの宵との時間も貴重ではあるが、鍛錬を怠ることはできない。

「それじゃ、宵。また今度!」

「あ……あぁ、また今度……また今度な」


 背中にかけられた声は、少し寂しそうではかなく――そして震えていたような気がした。



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