蛍舞う夜の初陣に




 振袖にたすきをかける。

 しゅるり、という絹のこすれる音が静かな部屋に響く。

 せっかくの二尺九寸の袖ではあるが、凜花はまだこずえのように巧みに刀を振るうことはできないので、たすきをかけることにしたのだ。

 しなやかな重みをもったなめらかな絹地は、盂蘭盆会という夏の暑い盛りにもさらさらとして心地いい。


 外はすでに夕陽の赤さで埋め尽くされている。障子越しの光が入ってくる部屋の中で、背の高い凜花はいっそう長い影を作っていた。


「凜花、そろそろよろしいですか?」

「はい。大丈夫です、こずえ様」

 支度を手伝ってくれていた他の女中たちが退室すると、こずえに促される。

「初陣おめでとう。凜花」

「あ、ありがとうございます」

 もじもじしながらそう応じる凜花に、こずえは柔らかく声をかけてくれた。

「今夜はあなたの初陣ではありますが、むやみに功を立てようとは考えなくてよろしいのよ。とにかく今は実戦の空気を感じ取ることです」

「は……はい」

 思っていたことを見抜かれたかのような気恥ずかしさから、凜花は思わずうつむいてしまう。

「最初はあまり私や他の人から離れずに、ね。では参りましょう」

 愛用の刀を携えて、こずえは夕陽も暮れかけの廊下に出た。


 彼女に導かれるように、凜花もまた帯びた刀の柄の感触を確かめてから外に出る。

 ふっ……とそのとき、赤い太陽はちょうど沈んで、空は赤から紫、紺、そして黒へと変わり夜闇に支配されていく。


 夜はあやかしたちの時間。

 御錠口がお役目を果たす時間だ。



 今日のこずえと凜花の持ち場は、庭園にある大きな川の近くらしい。

 御側室や姫君が船遊びを楽しめるようにとわざわざ人工的に作った川だという。側には小さいがこぎれいな家があって休めるようになっている。夜間のお役目中は御錠口たちも使うことができるらしく、交代で仮眠を取ることも出来るそうだ。


「凜花さん!」

「こんばんは、凜花さん」

「……初陣おめでとう、せいぜい無茶をしないことね、凜花」


 一緒の持ち場に配置されたのは、いつもの三人娘――喜多、千恵、久深だった。

「こんばんは、みんな」

 凜花も挨拶を返す。……自分だけ部屋親であるこずえが一緒なので、ちょっとした気恥ずかしさがあるせいか、そっけない挨拶になってしまった。

 その気持ちを見抜かれたのかどうなのか、こずえは「私はあっちを見てきますね」とその場から離れてくれた。正直、少しほっとしてしまう。

 こずえが立ち去ると、三人娘はわくわくした目で取り囲んできた。

「凜花さん、格好いいです……振袖がすごく似合ってます……格好いいです……」

「大きな帯結びも映えますね、この袖の長さとも釣り合いがとれています。赤を中心とした組み合わせなのもまた……」

「悪くないんじゃない。……いえ、その、むしろいいわね。すごくいい。椿の錠前は振袖は長い袂に刃が入り込むと危ないからって。お母様がそう言って着ないから、娘の私たちも着られないのよね、羨ましいわ」

 三人娘からそれぞれに似合っているという意味の言葉を投げかけられて、凜花は思わず顔まで赤くなってしまうのを感じる。

「あ、ありがとう……こずえ様には似合っていると言われたけど……私なんかに似合うわけないって、思ってたから嬉しい」

 しどろもどろになりながら、なんとかそう礼を言うことができた。

「褒めてなんていないんですからね、勘違いなさらないで」

「久深ちゃんてば」

「あとはその振袖をきちんと綺麗に夜明けまで保たせられるように、無様をさらさないことですわ」

「もう……久深ちゃんてば。心配なら心配って言えばいいのに」

 久深の一見トゲのある言葉に、千恵は苦笑いしている。

「大丈夫です、皆様がそんなことにならないよう、竜胆の錠前……の、部屋子ではありますけど、私がしっかり補佐させていただきますので!」

 喜多は戦旗をぐっと握り直して、勢いよく宣言する。


 その彼女の鼻先をふいっと光るものがかすめていった。

 暗闇の中にほのかに光を放ち、飛ぶそれは……蛍だ。

 そういえば盂蘭盆会の時期はには蛍が飛ぶのだと、ほうせんかの錠前である紅衣様が言っていたが、本当に見れるとは。

 アヤカシが出るかもしれない、戦わねばならないかもしれない、そういうものさえなければ、蛍見物にはいい夜なのだろう。


 月はおだやかな輝きを投げかけて、涼やかな風がさわさわと川辺の丈高い草を揺らし、そして蛍が舞い飛び、よくしてくれる友人達がそこにいるのだから。


 ……凜花は蛍の光に誘われるように、歩みを進めた。

 静かで綺麗な夜。

 絵の中の風景のような、よく整えられた川辺。

 真新しい草履が青草を踏みしめる感触が面白くて、凜花はつい一歩、また一歩と進む。


 ふいに、風が吹く。


 そわりと冷たく感じるその風に、凜花はいつの間にか皆から離れすぎたことにようやく気がついた。

「戻らなきゃ」


 振り返ると、たすきでまとめた長い袂がひるがえる。その感覚が今は重い。

「……戻らなきゃ」


 だけど、もとの場所はどこだっただろうか。とつもなく遠く感じられる。

 手が、足が震える。

 涼やかなはずの川辺の風が、今だけは冷たい。

「戻らな……きゃっ!」


 目の前を、蛍がかすめて飛んだ。そのほのかな光ですら、今の凜花には恐ろしいアヤカシのように思えてしまう。

 ぞわり。

 背筋が震える。

 嫌な予感がした。

「な……なに……なんなの……」

 恐る恐る、振り返る。だけどそこにあるのは真っ黒に塗りつぶされたかのような夜の川辺の風景と、舞い飛ぶ蛍の光だけ。


 ――否。

 蛍の光はあんな色をしていない、あんな、凍り付きそうな冷たい青い炎の色ではない。

 あれは、あれは。

「アヤカシか!」

 そう判断した凜花は、刀に手をやる。

 だけど抜けない。刀になにかあったわけではない。手が震えて、ろくに力が入らない。

 がたがたと凜花が震えている間に、青い炎はどんどん近づいてくる。あれはおそらく、人魂とかそういう類のアヤカシだろう。たいした相手ではないと聞いている。

 そう頭ではちゃんと教えられた知識を引っ張り出せるのに、体は恐怖に震えるばかりで言うことを聞いてくれない。


 こんなに怖いなんて。

 そんなこと、こずえ様は教えてくれなかった。誰も教えてくれなかった!


「せめて……一太刀でも……」

 震える指先と手のひらにどうにかこうにか力を込めて、刀を抜く。磨かれた鋼の輝きも、今は心を静める役には立ってくれない。


 人魂から、腕が伸びてくる。その先端にははさみのような鋭い爪。

「……あっ!」

 その爪をうまく躱すことができず、凜花は右肩を切りつけられる。

 振袖も裂けている。派手に流れた血で、汚れてもいるだろう。

 せっかくこんな立派な着物を用意してくれたこずえ様に申し訳がたたないな、と凜花の心は重苦しくなる。

 だけどそれ以上に、人魂から繰り出される爪が、青い炎が、あまりにも痛くて熱い。


 アヤカシは――声も無く笑っているようだった。

 凜花の無様を嘲笑っているようだった。

 それは、今まで凜花の容姿を嘲笑ってきた人とどこか似ている気がした。


 あぁ、私はまだ。

 まだ何も、変われてないのか――。


「凜花さん!!」

 ふいに飛び込んできたのは、濃紅色。椿の色だ。

 椿の部屋子、久深の振るったあまりにも大きな太刀が、人魂をいともあっさりと両断する。


 助けられたのだ。


「まったく、単独行動なさるなんて、あまりに無謀でしてよ」

「動かないで、今すぐ治療をしますから」

「凜花さん、ごめんなさい……私たちがついていながら目を離してしまうなんて」

 三人娘が凜花に声をかけてくれている。

 何か言葉を返さなきゃ、そう思っても声は喉の奥に張り付いたようになって、なかなか出てきてくれない。


 助けてくれてありがとう。

 心配かけてごめんなさい。

 皆のせいじゃないよ。

 こうなったのも、自分が悪いだけだもの。


「……あ……」

 力が抜けていく。

 足に力が入らない。

 ぐにゃりと視界が歪んで、真っ暗闇に抱かれて落ちていく――


 ……こうなったのも、自分が悪いだけだもの。

 三人に言おうとした言葉が、自分自身に突き刺さって、ずぶずぶと底へ沈んでいく。



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