お参り
その朝は、不寝番をしていたこずえが随分と早く部屋に帰ってきた。
いつもよりかなり早いので、凜花は自分が寝坊をしたのではと思ったのだが、そういうわけではなさそうだ。
「おかえりなさいませ」
「ただいま戻りました、凜花」
心なしか、こずえはいつもよりにこやかで楽しそうな気がする。何かいいことでもあったのだろうか。
「凜花、今日の部屋掃除はごく軽くでかまいませんよ。朝餉をいただいたら、御火之番詰所へお行きなさいな」
「お使いでしょうか」
「いいえ、お使いではありませんよ。今日は御火之番詰所に観世音菩薩様をお祀りしている日です。お前も、お参りに行きなさいな」
「なるほど、そうでしたか」
どうやらこれも大奥の行事のひとつらしい。
「廊下では、外から商いに来た者たちが店を開いていますよ。せっかくの機会です。お小遣いをあげますので、何か欲しいものがあれば買っていらっしゃい」
掃除を済ませてお小遣いも受け取った凜花は、桜のふすまの部屋を出る。
こずえ様のお言葉に甘えてしまっていいのだろうか、とも思うが、観音様にお参りするにあたってはお賽銭が欲しい。それに、お店があるということなら……日持ちする菓子でもあれば、宵と一緒に食べるというのもいいだろう。
足取り軽く、廊下を歩く。
御火之番詰所前には、確かに品物を広げた女商人たちが何人も居て、縁日を思わせる賑わいだった。
だが、まずはお参りだ。
観世音菩薩の前で手を合わせて、心の中でこれまでの巡り合わせに感謝する。
思えばこの数ヶ月でいろいろなことがあったものだ。
最後にこずえや仲間たちの無病息災を願う。
どうか――皆がいつも元気でありますように。
詰所を出ると、喜多と久深と千恵の姿が廊下に見えた。向こうも気づいたようで、喜多が嬉しそうに近づいてくる。
「凜花さん、よかった会えて。桜のお部屋に迎えに行ったら誰も居なかったので……」
彼女の安堵の表情の中にも、心配していたという様子がうかがえる。
あぁ、そうか。誰かと一緒にお参りに来ても良かったんだ。
誰かと一緒に行動するという経験も発想もない凜花には、目から鱗だった。
「ごめんごめん。でも会えて良かったよ。こっちはもうお参り済ませちゃったけど」
「それなら、四人で一緒にお店を見て回りましょう。お小遣い貰えたので、ちょっとは余裕があります」
喜多たち三人を待っている間、詰所出入り口の側に立って廊下を見回す。
外からやってきたらしい商人女たちは、ほとんどが経験豊富そうな老婆だ。若い大奥女中が懸命に小物を値切ろうとしているが、まんまとやりこめられているのも見られる。
「女中さん、どうかね。うちの品を見ていかないかい?」
勇気ある商人の一人が、わざわざ凜花に話しかけてくる。よほど時間を持て余しているようにでも見えたのだろうか。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
風呂敷の上に並べられているのは、ほとんどがかんざしや櫛、匂い袋といったいかにも女が喜びそうな小物だった。とはいえ、かんざしや櫛は凜花のふわふわの髪ではあまり役に立たないし、匂い袋を身に着けるような雅やかさも持ち合わせていない。
「うーん……」
凜花が品物を吟味していると、店の老婆が小声で話しかけてくる。
「女中さんは、新しく入ったばかりなのかい?」
「えぇ、そうですね。この春ぐらいから」
「それならまだこれは知らないだろうね。ひっひっひ、いいことを教えてあげるよ……」
老婆曰く――今日の夜は大奥の七つ口は開いていて、大奥女中たちは宿下がりができる。とのことだった。
「……そうなんですか」
凜花があまり嬉しそうな反応を示さないので、老婆はあてがはずれた、という雰囲気になる。
宿下がり、つまり家に帰れるということだが、凜花の場合はそもそも帰る家がないので、老婆のご期待するような反応が出来そうに無い。
さてどうしたものかと迷っていると、厳しい声が振ってきた。
「これはそういう嘘なんですからね。凜花さん」
立っていたのは、喜多だ。参拝を終わらせてきたらしい。
「ちゃんと聞いているんですからね。毎年この行事でやってくる商人がそうやって、新入りの女中をだましてからかってるんです。恒例のことだから、大奥の皆さまもちゃんとこのことは知っています」
「やれやれ、小さいのに手厳しい女中さんだ」
「小さいは余計ですっ!」
老婆の店を離れてその後は、四人で廊下の店を見て回った。大奥の中でのこととはいえ、誰かと買い物を楽しむと言う経験は凜花には嬉しいものだった。
もしかしたら、こずえ様は凜花にもこういう経験をしてほしかったのだろうか。普通の女の子のように、同じ年頃の子と楽しむことを。
ちなみに、四人を新入り女中と見るや例の宿下がりができるという嘘を吹き込んでくる商人は他にもいた。千恵はもちろん引っかからなかったが、意外にも久深が興味津々だったので、嘘だと理解させるのにちょっとばかり時間がかかってしまった。
「弟妹たちに送る品が買えて、よかった。お母様によくお礼を言わないと」
帰り道。今日の戦利品を抱えて、喜多がうれしそうにつぶやく。
「こっちも美味しそうなのが買えて良かったなぁ」
凜花が買ったのは可愛らしい模様が染め抜かれた手ぬぐいと、それに菓子だ。一口ぐらいの大きさの揚げ菓子で、うすく黒砂糖がまぶされている。さっき一口つまみ食いしたが、価格の割に満足度が高い。
「ほら、喜多も食べる?」
凜花が一袋差し出した揚げ菓子を、彼女はしげしげと眺めて、それからうつむいた。
「い、いいんですか。だってこれは凜花さんが買ったもので」
「喜多、自分のためのものは何も買ってないでしょ。だからこれは喜多に買ったの」
生まれてずっと『お姉ちゃん』だったのだろう喜多は、自分のために何かしたり何かを買ったりというところが希薄だ。自分より弟妹を常に優先して生きてきたからだろう。
他の誰かが彼女に贈ってやらないと、彼女自身が何かを手にするのは難しいだろう。
喜多は揚げ菓子の袋をじぃっと眺めて、それからおずおずと手を伸ばした。
「ありがとうございます……大事にしますね」
「それは困るなぁ。ちゃんと食べてね」
「はい、大事に……食べますから」
桜のふすまの部屋に戻ると、こずえはなにやら文机に向かって書き物をしているようだった。
「こずえ様、ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
部屋親は体ごと振り返って、凜花を出迎えてくれる。顔に浮かべているのは、少しだけ申し訳なさそうな笑顔。
「お参りはどうでしたか」
「皆が元気であるようにと願ってきました」
「……楽しかったですか?」
「はい。お小遣いを頂けたお陰で、他の錠前の部屋子たちと一緒に小物や菓子を見ることが出来ました。楽しく過ごせました」
凜花はこずえの問いかけにあくまで真面目に応じていたが、彼女の目が申し訳なさでいっぱいになってきたので、そろそろこちらからも尋ねることにする。
「こずえ様。商人の老婆たちが、今日の夜に門が開いて宿下がりが出来ると言っていましたが」
居住まいを正し、そう切り出す。
「あれは、可愛らしい嘘ということでよろしいのでしょうか」
「えぇ、そういうことになります。たとえば、その話を聞いたのが、御目見得以下の若い女中――特に、見合いの釣書に箔をつけたいがために奉公に出されているような商人の娘あたりだと、喜んではしゃぎ出します」
「なるほど、そこで嘘だと教えてやってその反応を楽しむというわけですね」
真っ直ぐな刀のような物言いに、こずえは申し訳なさそうに苦笑いをする。
「悪趣味だと思いますか?」
「……でも、そういところまで含めて大奥の行事、なんですよね」
「大奥勤めで取り立てて楽しみも無いと、そういうことさえも楽しみに待つようになってしまいます。もっとも、あなたは宿下がりが出来ると言っても、喜ばなかったでしょうね」
「はい。私には帰るところなど、この部屋以外にありません」
きっぱりとそう断言したのに、こずえは少しうつむいてしまった。
「……凜花、私は」
彼女のつぶやきには、苦いものが混じっていて……けれどそれ以上は言葉に出来ないようだった。
しばらく沈黙が続いた後、こずえは背を向けて文机で書き物を再開した。
「凜花、もう今日の鍛錬にお行きなさい。そろそろ初陣も近いのです。しっかりと仕上げておいでなさいね」
「かしこまりました。こずえ様」
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