二つの星




 赤い木の実はもうすっかりなくなってしまったが、それからも凜花は宵と会えていた。


 今夜、部屋親であるこずえは不寝番にあたっている。

 凜花は桜のふすまを静かに開けて、そっと部屋を抜け出した。


 今日は七夕。


 大奥の庭のあちこちには大きな笹が用意されていた。その枝は、色とりどりの紙飾りや短冊がついているので重みでしなっている。

 夜空を見上げれば、真っ白い砂粒で描いたような星々を眺めることが出来た。

 遠くから、酔っ払ったような女たちの歌声。御目見得以下の大奥女中が星々を肴に浮かれ騒いでいるのだろう。いや、肴にしているのは哀れな新入り女中たちの舞なのかもしれないが。


 凜花は、なるべく静かな方向を選んで進む。

 こんな夜は――静かで、星のよく見える場所がいい。

「凜花、こっち。こっちだ」

 廊下の向こうから宵の声が聞こえた。暗い中でも、白く華奢な腕が手招きをしているのが見える。

「宵。今日も会えて嬉しい」

「うむ。宵も凜花に会えてうれしい」

 こくんと頷く宵。

 今夜の彼女は髪を洗ったばかりのようで、稚児髷を結ってはいなかった。さらさらと流れる夜の闇に溶けていきそうな長い黒髪。

 それに、白地に淡い青のいかにも涼しげな着物姿。いつもの赤や薄紅の振袖も愛らしいのだが、このような着物もよく似合っている。

「……今日は、その、七夕であるからな」

 いつもと違う装いをじっと見つめられたのを恥じらっているのか、宵は言い訳するようにそんなことを言った。

 宵曰く、七夕の日には夏らしい涼しげな色合いの着物を、ということで用意されたものを着たのだとか。

「うん。いつも着ているようなのも可愛いけれど、今日のも似合ってるよ。それに髪も。結っていなくても綺麗」

「……そ、そうか。そうか」

 宵はうつむくように頷いた。

「凜花、せっかく七夕の日なのだ。一緒に星を眺めよう」

「もちろん」


 二人仲良く並んで星が見える廊下に座り、空を見上げる。

 宵が話してくれるところによると、夜空に輝く白い砂で描いたような星々は天の川というらしい。そう言われると確かに、天に流れる白い川のように見える。

 唐国の言い伝えによると、天の川を隔てて牛飼いの若者・牽牛星と、機織る姫・織女星が住んでいて、年に一度の七夕にだけ会えるのだという。


「牽牛と織女は、今宵は会えているのだろうか」

「会えているといいね。なにせ一年に一度だもんね」


 一年に一度だけの逢瀬。

 天の星々にとって、一年という期間は長いのか短いのか人である凜花にはわからない。だが、いつ会えるのか決まっていて、会いたい時に会えるわけではない、というのはなかなか難儀だとは思う。

「凜花は短冊を書いたか?」

「こずえ様――部屋親に短冊を分けてもらえた。でも、何を書いたらいいのかよくわからなくて結局、教えて貰いながら昔の歌を書いたよ」

 七夕に書いて笹につるす短冊は、手習いの上達を願う意味があるという。

 ずっと家族からもいないものとして扱われていた凜花は、ろくに学ぶ機会がないままだった。そのため、どうやら凜花の書く文字はとても独特……はっきり言うと下手で読みにくいらしい。短冊を書くように強く言われたのも、そういうことだろう。


「そうかそうか。宵もな、短冊を書いたのだぞ」

 きっと彼女が書く文字は、柔らかくて可愛らしく、そして綺麗に整っているのだろう。そんな風に綺麗な文字が書かれた短冊を見たなら、織女星も嬉しく思うに違いない。

「織女星に願ったのだ。手習いがもっと上達するようにと、針仕事はちょっとはうまくできるようにと、それと……」

「それと?」

 そこで言葉が止まったので、ちらりと彼女の顔を覗き込む。

「それと、織女が牽牛と仲良くできていますように、と書いたのだ」

 彼女の表情は、真面目そのものだった。

「……せっかく今宵会えたとしても、仲良くできるとは限らないからな。どうせ思い合った相手との逢瀬なら、仲良く楽しいものであってほしいのだ」

「宵」

「織女星はいいな。一年に一度でも、思い合った相手と会えるのだから。……思い合った相手がいて、こうして皆に見守られ祝福されている。それはとても素敵なことだろう」


 天の川を見上げるその黒い瞳は、どこか悲しげだった。

 ……彼女だって、幼くても大奥にいる女だ。

 町人の娘が金を積み、行儀見習い目的で入ってくることはある。しかし彼女たちは長くても数年でやめていく。大奥にいたという経歴で箔をつけてから、彼女らの親がより良い縁談を探すのだ。

 とはいえ、それは身分が低い御目見得以下の女中の話だ。上級女中となれば一生涯の間、大奥で働くことも多いという。

 ……大奥にいれば、働き次第で相応に出世が叶うこともある。俸禄を手にできるし、江戸庶民には想像もつかないような贅沢で華やかな暮らしもあるだろう。

 けれどそれは同時に、市井の女のような幸せをつかめないと言うことでもある。

 この、男がいない女だけの奇妙な場所にいる幼い少女――宵も、そういうごくありふれた、ささやかな幸せへの憧れがあるのかもしれない。


「そっか。確かにそれは、素敵なことだろうね」

 少しうつむくように頷いた。

 ぱさりと肩に落ちた、きれいな髷に結えないほど癖の強い赤い髪が目に入った。

 こんな姿の凜花は、ありふれた女の幸せなどとうに諦めている。だから、大奥で働けることに感謝している。

 けれど宵は誰が見ても美しい少女であり、しかもまだ幼い。外でなら、縁談話の引く手あまただろう。


「どうした凜花。もしかして、何か嫌な思いでもさせただろうか」

「う、ううん。違うよ。どうしてそんなことを?」

「宵は話すのがあまり巧くない。それに、他の者の心中を推し量ることができなくて、いつも誰かを傷つけてしまう。あの……凜花が許嫁や恋人を亡くして大奥に居るのであれば、さっきの言葉は、つらいことを思い出させたのでは、と……」

 しゅんと落ち込んだ様子の宵は、小さな声でそうつぶやく。

 そんな彼女をみていたくはなかった。だから凜花はわざと明るく大きな声で応える。

「いないいない! 許嫁も、恋人も、そんな人今も昔もいませんってば」

 許嫁は居ないのは本当だ。一応の家族は亡くしているが、これは別に今話すことでもないだろう。

「そんなことより、宵にはそういう人いないの?」

「今はおらぬ」

 即答だった。あまりにもはっきりきっぱりと。

 ……あぁ、そういうことか。と凜花は腑に落ちた。

 きっと、許嫁を亡くして大奥ここにいるのは彼女の方なんだろう。


「星きれいだねぇ」

「あぁ、きれいだな」

「あの中のどれが牽牛星と織女星なのかな」

「うーん……あれだけ星があると、どれがどれやらだな」


 宵と一緒に星を見上げて、とりとめもない話をする。

 凜花は大奥に来ることが出来て幸せだし、宵に会えて嬉しい。

 彼女も、同じように思ってくれているといいな、と思いながら、二人の夜は更けていく。


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