雨夜の錠前




 こずえは、雨の日は苦手だ。


 刀は濡れてすぐに手入れが必要だし、視界が悪いし、地面はぬかるんで動きにくい。

 だけど、雨の日に吹くしっとりと濡れたような風の匂いは、嫌いではなかった。

 雨の夜なら、もっといい。

 アヤカシどもも濡れるのは嫌ということなのか、雨の降る夜に出てくることは少ないからだ。

 出てこないなら、戦いにはならない。

 戦いにならないなら、血も流れない。

 誰も死なずに皆が朝を迎えられる。


 この日もそんな、アヤカシが出ない雨の夜の不寝番だった。


「雨の日に、ワタシらほうせんかの錠前を配置するのは止してほしいんだけどなぁ」

 火縄がなるべく消えぬよう銃を抱え持った紅衣が、いつもよりも勢いがない文句を口にしている。

 雨の日は、不寝番にあたる御錠口は少ない。

 今夜出てきているのは、こずえと紅衣、そしてつつじの錠前ぐらいだ。あとは『娘』たちが数名ほど。


「こういうときは睡蓮のとか、あじさいのとかを置いとけばいいのに。そしたら勝手につつじのを相手しといてくれるだろうから」

 紅衣は、つつじの錠前を苦手としている。毛嫌いしていると言ってもいい。曰く「アイツは自分自身に嘘をついている」からだそうだ。こずえにはよくわからない理由だ。

 ただ、自分自身に嘘をつくこと自体は、悪いことではないのではと思う。

 己の心に何かを言い聞かせれば、それは己にとっての真実になるはずだ。

 ――例えば、受けた傷がどんなに痛くても、痛くないのだと言い聞かせ続ければ、そのうち痛みは薄れてくるのと同じように。


 ぽつぽつ、しとしと。


 まだ、雨は降っている。この様子では朝までは続くだろう。

 今はこずえと紅衣は、庭園にある藁葺かやぶきの小さな家の中で二人きりだ。


 大奥の中には様々なものがある。

 庭園には池や滝はもちろん、大きな川が作られていて、そこで船遊びもできる。

 桜や藤、季節の花々が植えられ、山里を模した場所には、農家のような外観の小さく清潔な家が設けられ、併設の小屋には愛玩用の鶏が飼われている。

 季節の行事によっては、大奥内にままごとのような露店が並ぶ。時には『里帰り』してきた諸大名に嫁いだ姫君達も、そこでの買い物ごっこを楽しむ。


 外に出ることなく、三千人の女達が暮らせるような贅沢な場。それが大奥だ。


 ぽつぽつ、しとしと。


 つつじの錠前殿は雨がお好きなようで、一人で馬を駆って夜回りをしてくれている。

 ほんのときたま、彼女の愛馬のいななきが遠くに聞こえるので、アヤカシは出ていないらしい。

 どちらかというと雨の日が苦手なこずえと、どうやら雨の日が嫌いらしい紅衣には、彼女の単独行動はありがたかった。


「紅衣」

「なにさ」

「先日、うちの部屋子に何を言いましたか」

「本当のことだけしか言ってないさ。ワタシはつつじの錠前殿と違って、自分にも他人にも正直なもので」

 ふてぶてしいその態度に、少しだけこずえは険しい目になってしまう。

「やだぁ、怖い」

 くすくすと、紅衣は赤い唇を歪めて笑い、そして言う。

「あの小娘に自分の初陣がいつになるかを教えただけさ」

「紅衣、あなたって人は」

「覚悟を決める時間ぐらいは必要だろうさ。それに、いつその日がやってくるかを知っておけば、そのためにもっと鍛えようって気概も段違いだ」

 思わず、こめかみを抑える。……頭が痛い。

 紅衣の言うことは確かにそうだ。

 あまりにもそのとおり過ぎた。

 それを聞いた凜花は今、張り切って鍛錬をしている。あまりにも過ぎた鍛錬を、己に課しているのだ。

「……覚悟も気概も、実力も必要です。……ですが」

 胸から苦いものがこみ上げてくる。思わず、紅衣から目をそらしてしまう。

「ですが、それらも過ぎれば、勝つ上では、生き残る上では、ただの足かせとなりかねません」

 ふふっ、と紅衣の小さな声が聞こえる。

「アンタが昔、そうだったみたいに?」

 見ずもわかる。彼女は、あのいつものにやにや笑いを浮かべているのだ。あの、紅を大きく塗りたくった、本当は可憐な花びらのように小ぶりな唇を、皮肉に歪ませて。


 ぽつぽつ、しとしと。


 まだまだ雨は降り続く。

 まだまだ朝は訪れない。


「それにしても、アンタがあんな娘を選ぶなんてねぇ」

 しばらくお互いに黙っていたが、手持ち無沙汰なのか紅衣が話しかけてくる。

「どこで見つけたのさ。あれほど桜の錠前におあつらえ向きなのは、そうそういるもんじゃないよ」

 褒められているのか、けなされているのか。……ほぼ後者だろう。

「……凜花は、先の流行病で家族を亡くしたようで、寺に身を寄せていました」


 このあたりの事情は、本役である雪緒を通じてちゃんと届け出ていることだ。

 旗本といっても、大名に近いぐらいの石高を持つ者もいれば、内職をしてその日暮らしをする者もいる。

 凜花の実家である由良崎はそれなりに裕福な家だったようだが、今は彼女の親戚が後継者を据えているようだ。彼女に帰る家はないと言えるだろう。


「いるところにはいるもんだねぇ、掘り出し物。背丈が高くて、いかにも頑丈そうで、腕っ節も強いときた。つつじの錠前殿でなくても、あんなの欲しくなるところだよ」

「……」

「あんなのを選ぶとはおもってなかったよぉ。やればできるじゃんか。甘ちゃんこずえも」

 なぜだろうか。自分をけなされているのはもちろんむっとする。だが今はそれよりも、凜花のことを皮肉られていることに対して腸が煮えるような思いをしている。

「紅衣。その呼び方はいい加減お止めになって。私も、あなたも、今はもう『娘』ではなくて、錠前なのですよ」

「こんの石頭。そのうちアンタも雪緒みたいになっちまうよ」

 ぷくー、と紅衣は片方の頬を膨らませて不満を表した。


 こずえは二十歳、紅衣は十九歳。

 お互い、御錠口の中でも『散り時が早い』花だから、他よりも若い年でお役目につくことになったが、もう『母』として『娘』を教育しなければいけない責任ある立場だ。

 だが、紅衣は「どうせ自分もすぐ死ぬ」と言い、刹那的で破滅的で、子供じみた言動を直そうともしない。本役――竜胆の錠前である雪緒はたびたびそのことを注意してはいるのだが、まったくの逆効果だった。


「……紅衣」

 言いかけて、止める。今更、自分から言ったところで聞き入れるような彼女ではない。

「今度はなにさ」

「なんでもありません」

 紅衣も昔からそういうことをしていたわけではない。

 ちょっとばかり言葉遣いは荒かったし、立ち振る舞いもまだきちんと出来ていなくて、先代のほうせんかや、雪緒にいつも直されていて――けれど、ある日ある時から、わざとそういう言動をするようになった。


 ……あれはそう。先代のほうせんかが、紅衣の目の前で亡くなった時からだ。


 ぽつぽつ。しとしと。



 今夜はどうか、アヤカシが出ませんように。

 遠くから響いてくる、つつじの錠前の愛馬のいななき。それに、雨粒の落ちる音。それらを聞きながら、こずえはどちらかというと苦手な雨の日を眠ることなく過ごした。



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