梅雨のある日




 梅雨時、雨が多くなれば外の鍛錬場は使えない。

 となれば、室内の稽古場を使うことになるのだが、外の鍛錬場に比べればずっと狭く、しかも長雨の続くこの時期はどうにもこうにも蒸し暑い。

 それでも、鍛錬を欠かすわけにはいかないと稽古場の隅っこにどうにか空きを見つけ、一人木刀を振るっていたら、見覚えのある顔が絡んできた。

 ……絡んできた、というのは少し違うのかもしれない。

 自分より目上の人間に捕まって愚痴を言われている。それを一体どう言い表せばお上品になるのか、学のあまりない凜花にはまだよくわからない。


「まったくもう、雨には参っちまうよ。こんなのが続くと火縄だってしけって使えなくなるしさぁ」

 自分より目上の人間――直属の上役と同格。ほうせんかの錠前である織人紅衣が、稽古場の片隅の床にだらしなく座って、梅雨時の長雨に対して文句を言う。

 雨なんて御天道様の都合なのだから、どうしようもないとは思うのだが、目上に対してまさかそんな言葉をそのまま言うことは出来ない。そのぐらいはわかる。

「……ほうせんかの錠前の皆様が使うのは、火縄銃なのですね」

「そうさ。ほうせんかの種が実っているのをみたことあるかい? 薄い袋の中に種があるんだけど、その袋に触れると種がぱぁーんと勢いよく飛び出ていくんだよ」

「……あぁ、それでほうせんかの花なのですね」

「そう、その様子が火縄銃から弾が飛び出るみたいだから……っていう訳さ。単純明快だねぇ」


 雨のおかげでいつものとげとげしい物言いもふやけているのかどうなのか、ともかく、少しだけ柔らかくなっている様子の紅衣が、いろんなことを勝手に教えてくれる。

「雪緒は相変わらずがみがみと小うるさくお説教してくるし、一羽はなんか難しいことばっか喋ってる変なやつだしさ……」

「はぁ」

「睡蓮の錠前殿は何考えてるかほんとわかんない。全然表情読めないんだから。つつじの錠前殿は雪緒ともまた別の意味でうるさいし。こっちもこっちで本当の本音は何考えてるんだかわかりゃしないの」

「なるほど」

「あとね。つつじのは、騎馬鉄砲とか言ってワタシを自分の馬に相乗りさせようとするの止めて欲しいよ。まったく、そんな芸当出来るわけ無いだろうが、馬はあんな速く走ってるのに。どうやって撃つんだってのさ。軽業師じゃないんだよこっちは」

「それは大変ですね」


 凜花は休むことなく素振りしながら、相槌をうつ。


 振って。

 突いて。

 止めて。

 また振って。


「あぁ、もう。ちょっとぐらい休んでもバレやしないだろうに」

「鍛錬を怠っていれば、自分にも周囲にもわかることですから」

「真面目だねぇ。まぁ桜の錠前はそのぐらいがちょうどいいかぁ。真面目で、お堅くて、責任感が強い。そうでなくちゃ務まらないお役目だ。……こずえの母も、そうだったんだから」


 最後の部分は、少しだけ低くて真面目そうな声音だった。


 紅衣の話が気になってしまって、凜花は思わず木刀を振る手が止まる。

「……こずえ様……のお母様、ですか」

「あぁ。ワタシもワタシの母様も世話になりっぱなしだったからね。アンタ知ってるかい。錠前の中でもほうせんかは特に散りやすい――死にやすいんだ」

 銃の火力と射程があれば、容易にアヤカシを討ち取れる。

 しかし、アヤカシにもそれなりに知能があるモノもいるので、銃を持った者から集中的に狙っていくぐらいはしてくる。そのため、ほうせんかの錠前は死亡率が高いのだと、紅衣は語る。


「しかも、ほうせんかの鍛錬は銃の扱いが中心だ。体術なんてほとんど鍛えないまま不寝番に出される。そんなヤツがアヤカシの接近を許したら――まぁ、ほぼほぼ死ぬよねぇ」


 紅衣はあえてさばさばとした態度だが、その心の中にはどんな暗くて重くて苦いものを飲み込んでいるのか、計り知れない。

「だから、どうしたってアンタらみたいなのが必要になるのさぁ。自分の身を挺しても仲間を守ろうとする、愚直で、素直で、実直な、度しがたいほどに甘ちゃんの桜の錠前がね」

「……」


「先代の桜、こずえの母は本当に理想的なまでの桜の錠前だった。どんなぼろぼろになっても一番前で皆を守り続けた。振袖の長い袂を翻して、月光に刀を煌めかせて、吹き出す血煙でさえもまるで花びらのように舞わせて、アカヤシどもを惹きつけて、ヤツらが全部滅ぶまで……ずうっとね」


 そこで一度言葉を切って、ふぅ……と紅衣は深呼吸するような長いため息をついた。

「それが、こずえ様のお母様ですか」

「あぁ、あの人がいなかったら、ワタシだって今こうして息してないだろうねぇ。ワタシだけじゃあないな、こずえもそうだ。あの人がいなかったら……あれは今頃大奥にはいられなかったかもねぇ」

「それは、どういうことですか」

 もう素振りは完全に止まって、凜花の両手は力なくおりていた。

「先代の桜はね、こずえをかばって亡くなってるのさ」

 紅衣は凜花を見上げて、真っ赤に彩られた唇に皮肉な笑みを浮かべている。

「ほんと、地獄みたいに酷いところだよね。こんなところに来ちゃって後悔してるでしょう。だから最初に忠告してあげてたのにさぁ」

 にやにやと嘲るように笑いの形に歪む、真っ赤に塗られた唇。

「……っ」

 凜花は、手にした木刀に力を込めた。

「私は」

 言葉をゆっくりと口にし始めると、紅衣はじっと見つめてくる。

「私は、大奥に来たことを後悔しておりません。桜の錠前の娘となったことも後悔しておりません。私が、皆のことを守れるなら……むしろ本望です」


 それを聞いても、紅衣はやはり唇を笑みの形に歪めたままだった。

「……愚直で、素直で、実直」

 まるで歌うようにつぶやきながら、紅衣はゆっくり立ち上がる。

「アンタなら、とてもいい桜の錠前になる」

 そう言って、くるりときびすを返す。


 ……そのまま道場から立ち去るのかと思いきや、紅衣はすぐに首だけで振り返った。

「あぁ、アンタの初陣の日取りがそろそろ決まるよぉ。まぁ多分、盂蘭盆会うらぼんえのあたりじゃないかな。夜の闇に飛び交う蛍が綺麗な頃だから、一晩中の不寝番をしててもきっと飽きることはないだろうさぁ」

 それじゃ、と言ってほうせんかの錠前は今度こそ稽古場から出て行った。


「……盂蘭盆会」

 ぽつりと口にして、凜花は木刀を握り直した。

 体の中の空気を入れ換えるように深く呼吸をして、そのまま一振り。

 初陣の日までに、もっと強くならねば。

 強く。



 皆を守れるように、強くならねば。



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