たまにはゆっくりとお茶を淹れて




 そして、今日も大奥は賑やかだった。


 大奥というよりは、今日は江戸の町全体が賑やかだと言った方がいいかもしれない。

 今日は山王社の祭礼で、江戸城から将軍や御台所も神輿見物をするという。

 赤坂山王社の神輿は城内にも入ることができるそうで、唐人に扮装した人々や異国の珍しい動物を模した飾りが評判なのだそうだ。

 凜花は実際には見たことがないが、久深や千恵が教えてくれる話を聞くだけでも心が浮き立ってくる。


「それでね、明日は御嘉祥おかじょうと言う行事があるんですよ。なんでも、御台所様から御目見得以上の女中にお菓子が下げ渡されるんですって。だから、お母様方が私たちにもきっと分けてくれますよ」

 御錠口の鍛錬場で、楽しそうにそう教えてくれるのは喜多だ。

 しかし凜花としては、つい先日の氷室の雪の件を思い出さずにはいられない。


「こ、今度はお菓子ですし、大丈夫……だとおもいます……」

 微妙な顔をしているのを察されたようで、喜多がぱたぱたと身振り手振り全身で大丈夫だと思います、大丈夫、と懸命に伝えようとしてくる。


「それにしても、聞いたことない行事だね」

「ここが江戸城だからなのかもしれません。御嘉祥は、かの東照神君様が戦で難を逃れ無事だったことを祝う行事とも言いますし。とはいえその由来にはいろいろな説がありますね」

 すらすらと、そんなふうに行事のことを教えてくれる。

 喜多はまだ年若いが、頭が良いし気が利く。

 きっと、竜胆の錠前である巫剣雪緒様にも、そういうところが気に入られているのだろう。

「喜多は、どんなお菓子をもらえたら嬉しい?」

「もらえたらうれしい菓子、ですか」

 自分のことを聞かれると思っていなかったのか、彼女は目をまるくした。

「……あれこれと語れるほど、菓子の種類をあまり知らないのですが……そうですね、甘いあんこの大福餅が好きですよ」

「そっかそっか」

 手に持っている戦旗の先を地面でもじもじさせて考え込んでいた喜多。そんな彼女に思わずぽんぽんっと頭を撫でてしまう。

「もう……そういう凜花さんはどんなお菓子が好きなんですか」

「私はそうだなぁ。私もお菓子の種類なんてしらないから……あぁ、水菓子……果物が好きかな。梨とか柿なら家の庭木にもたくさんあったし」

 梨や柿どころか、名前も知らないような樹についている赤い実までも食べたのだが、それは伏せておく。あえてこの場で言うことでもないだろう。

「水菓子ですか。これからの時期だと、ウリやスイカもいいですね」

「いいね。鍛錬終わりに井戸水で冷やしておいたのを食べれたら、もう最高なんだけどなぁ」

「あぁ、そうですねぇ。……でも、大奥ではそれはちょっと手に入りにくいかも知れませんね」

「そうなの?」

「ウリやスイカなんかの果物は上様の御膳には上がらないって聞きました。御台所様や姫様方も、果物は見るだけで食されないのだとか。足が速くてすぐに腐ってしまうものだから、用心のためになんだそうです。お体になにかあってはいけませんから。だから、大奥にもあまり納められてないかも」

「へぇ。天下の上様とその御一家なんだし、どんなものでも食べれると思ってた」

「他にも、にんにくのようなお寺で食べられない物や、サンマなども上様の御膳には上がらないんだそうですよ」

「サンマ……あんなに美味しいのにね……」

「サンマ、美味しいですよね」



 ずっと遠くから、賑やかなお囃子や歓声が聞こえてくる。

 もう祭りの神輿が城内に入っているのだろう。

 神輿の見えない大奥にいても、なんとなくうきうきしてしまう。

「どんなお菓子がもらえるか、明日が楽しみだねぇ」

 そう言ってぽんぽんと頭を撫でると、やっぱり喜多はちょっとむくれたような恥ずかしそうな表情を返した。




 桜が描かれたふすまが、すぅっと開く。


 ちょうど部屋の拭き掃除を終えたばかりの凜花は、部屋親である朱保志こずえを出迎えるため、着物の裾を整えて正座し、頭を下げた。

「おかえりなさいませ。お疲れ様です、こずえ様」

「ただいまもどりました、凜花」

 頭を下げていても、こずえが微笑む気配がわかった。

 今日は御嘉祥。御台所様から御目見得以上の女中に菓子が下げ渡される日。部屋子も、部屋親から菓子のお裾分けが得られることもあるかもしれない、と聞いている。

 若い娘なら、それなりに心の浮き立つのも仕方ないと思われているのかもしれない。

 こずえは凜花のすぐそばに座った。こずえの着ている、薄い赤紫色の花と扇を描いた着物の裾が目に入る。


「お菓子をいただけました。凜花、甘い物が嫌いでなければこれを食べてくれますか?」

 その言葉に、思わず頭を上げてしまう。

 凜花の前には菓子が入っているだろう箱が一つ。文箱よりは一回り小さいぐらい。だが、この中に菓子が入っているとすれば、決して少ない量ではないだろう。

「あの、こずえ様は……」

「私は」

 ほんの一瞬だけ、こずえは言いよどむ。

「私は、もう御錠口の皆様と食べました。だからあとは凜花、お前が食べてよろしいですよ。そろそろお前もここに来て、親しい者もできた頃でしょう」


 つまり、自分はもう食べたから大丈夫だ。残りのお菓子をお友達と食べてきなさい。と言っているのだ。

 ……何をどう考えても、この菓子は手つかずだし、こずえは菓子を食べていないはずだ。


「あの、こずえ様」


 きっとこの中には、凜花が食べたことのないような上等なお菓子が入っているのだ。こずえの言うとおり持って行けば、喜多も久深も千恵もきっと喜んでくれることだろう。

「……私が食べて、いいんでしょうか」

 それに、宵だ。

 彼女と分け合ってお菓子を食べられたら……などと夢想しなかったと言えば、それは確実に嘘だった。

 けれど。

 けれども今は。

「えぇ、いいのですよ」

 けれども今、凜花が一緒にお菓子を食べたい人は、こずえだった。

 目の前で、あまりにも優しい嘘をついてくれている、この美しい人だった。

 凜花はわざと大声で、いかにも嬉しそうな大声を出してみせる。

「それでしたら、こずえ様。私はすぐに手を洗ってお茶を貰ってきますので、一緒に食べましょう!」

「凜花、あなた」

「どんなお菓子なのか、楽しみです」

 こずえは――驚いたような、嬉しいような、不思議そうな、そんな顔をしていたが、次第に泣くのをこらえているような表情になっていく。

「……凜花、あなた」

 ぽつりと、こぼれたそれは、とてもとても小さな声だったが、ごく近い距離だったので聞き取ることができた。

「……あなたも……私と同じことをするなんて」

 うつむいたこずえからこぼれる涙を見ないようにするためにも、すぐに立って部屋を出る。

 桜のふすまを優しく、しかしなるべく素早く閉めて、凜花はほぅっと体から空気を吐き出すような深いため息をついた。

 ふすまの向こうから、こずえの声が漏れ聞こえる。


「……お母様……お母様」


 繰り返し呼び続けるそれは、涙声。

 凜花は、そっとその場を離れる。

 手をちゃんと洗ってその後は、なるべくゆっくりと時間をかけて、お茶を淹れてもらおう。

 苦いけど、ほんのり温かいお茶を大きなお茶碗にたっぷりと持って行くのだ。そして、こずえとおしゃべりをしながらお菓子を食べよう。

 きっと、それがいい。

 ……こずえもきっと、昔同じようにしただろうから。

 常にないほど珍しく、廊下をしずしずと大人しやかに歩きながら、凜花はそんなことを思っていた。

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