夕暮れの再会
あの少女に会えたのは、その日の夕暮れだった。
同じ廊下で、あの日と同じようにぴしっとした正座をして、庭を見つめていた。あまりにもきちんとしていて整っていて美しいので、まるでそういう精巧な人形のようにも見える。
「よかった、ちゃんとまた会えた」
凜花が声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いて、いかにも幼い子供らしいふにゃりとした笑みを浮かべた。
「うむ。また会えた」
小さな手でちょいちょいと手招きされて隣に座るように促されたので、遠慮なく隣に座って庭に足を投げ出す。
「赤い木の実、まだあるみたいだし取ってこようか?」
「うむ、もちろんそれもいいが……その、今日はお前のことが知りたい。あの日、床に入ってからよくよく考えてみたのだがな、お前が大奥の御錠口に仕えているという事しか知らないことに気づいてしまったのだ。名前も聞き忘れてしまったのは不覚であった」
それは凜花にしても同じ事だ。
「……お前の名を聞いてもよいだろうか」
「もちろんだよ」
「教えてくれ。お前の名前を」
「凜花っていうの」
彼女は口の中で、小さく凜花の名を繰り返しつぶやいて、頷いていた。
「そっちの名前も聞いていいかな」
「名は……宵(よい)、と呼ばれている」
「綺麗な名前だね。宵」
夜のように黒い髪と黒い瞳の綺麗な、彼女にふさわしいと思う。美しい響きの名前だ。
思った通りを述べただけなのに、宵はなぜか不思議そうな顔をしている。どういうことだろうか。
「名を褒められるなんて、生まれて初めてのことだ」
「そうだったの。綺麗だと思うけどな。誰につけて貰った名前なの?」
「……実母はすぐに亡くなってしまったし、父がつけたのではないだろうから……おそらくは育ての母、だと思う」
子を産むのは大変なことで、出産後すぐ亡くなってしまう女性は多いと聞く。宵の母も出産の中で、あるいは産後に体調が戻らないまま帰らぬ人になったのだろう。
「そっか」
「育ての母には、自分なりに感謝している。いろいろと慮ってくれて、実の子同然に扱ってくれて」
「育ての母、かぁ……」
ある意味では、こずえが凜花の育ての母ということになるのだろうか。
彼女は二十歳で、凜花が十七歳なので年齢が近すぎるが、世の中にはそういう継母と継子もいないではないようだし――
考え込んで黙ってしまった凜花を、不安そうに宵が見上げてくる。
相変わらず、黒く濡れたようなつややかな瞳と、その周囲を縁取る長くて黒いまつげ。うらやましさよりも先に、純粋に綺麗だと思ってしまう。
「……凜花は、自分の母君にあまりいい思い出がないのか」
幼い子にありがちな、遠慮も配慮もない、真っ直ぐに突き刺さるような物言いだった。普通なら気分を害するところなのだろう。
「いい思い出もなにも、そもそもワタシには実母の思い出そのものがなくて」
苦笑いをしながらそう正直に話すと、宵はつぶらな瞳でぱちぱちと二、三度まばたきをして、そして言った。
「それならおそろいだな。凜花と宵はおそろいだ。宵も母の思い出がないし、いい思い出もないのだから」
「おそろいか。そうだね、宵とおそろいだよ」
悲哀も同情もなく、ただただ無邪気にそう喜ぶ彼女を見て、少しばかりだが心に絡まりついたものがゆるんでほぐれたような気がしてしまう。
だからだろうか、こんな事をつい言ってしまったのは。
「でも、私も育ての母……とはちょっと違うかもしれないけど、今はお世話になっている人がいるんだ」
「そういえば凜花は御錠口助役の部屋仕えであったな。では、世話になっている者というのは、そこの部屋親のことか」
「そうだよ」
すると、宵はどこか不安そうに尋ねてくる。
「……その部屋親は、凜花にちゃんと親切にしてくれているだろうか」
「うん、とてもいい方だよ」
自分でも思ってたよりするりと、そう言えた。
こずえは、いい人だ。それだけでなく、いい『母』であると言えた。実の家族とろくな交流もなかった凜花には、母と娘の関係というのはどうあるべきなのかよくわからない。だが、少なくとも、こずえがいい御錠口で、いい上役で、いい『母』と言えるのだろう。ということぐらいははわかった。
「そうか。なら安心した」
「……もしかして、宵は心配してくれていたの?」
こくんと神妙に頷く宵に、凜花は思わず吹き出してしまいそうになる。こんな小さくて幼い子に心配をかけてしまったとは。
「あぁ。もしかして、私がこんななりだから――いじめられてやしないかと思ったの?」
ろくに髷も結えないほどくるくるふわふわとした、鮮血のような色の赤い髪。光の加減で磨いた鋼のような色にも、薄い桜の色のようにも見えるへんてこな色の瞳。それに、そこらの男よりも大きな、まるで――鬼のような体格。
こんな姿では、つまはじきにされるのは当たり前だ。
だから、宵の心配もしかたないことなのかも――
「え」
不思議そうな声とともに、宵は小首を傾げる。よくわからないとでも言うように。
「ほら、ね。私ってばこの通りで、くるくるの赤い髪だし、目もへんてこな色だし、こんなに背が高くてのっぽだし」
きまり悪く、そう早口で言うと、彼女は「あぁ」とつぶやいた。
「そう。そうだ。その赤い髪だ。あの日の沈みゆく夕陽の中で。逢魔が刻に初めて凜花を見た時、天女が降りてきたのかと思ったのだ。天に棲む者であるから、人も食べない赤い実を食べられるのだと、な。とても美しい光景だと思った。そして、あのように美しいなら己も天に連れていかれたいと」
「……」
赤鬼と呼ばれたことはそれなりにある。
見世物扱いを受けたこともある。
石を投げられたことさえもある。
だが、天女と呼ばれたことはなかった。
こずえや喜多をはじめとして、大奥の女達はそのことを配慮してくれているのを感じるのだが、このような物言いははじめてだった。
良くも悪くも、宵は凜花の容姿を『見ないふり』はしてしないのだろう。
「あぁ、それで。それで、あのときあんなこと言ってたのか」
――その赤いのを食べれば、この身もそうなれるのだろうか。
「うむ」
愛らしい微笑みで、宵は無邪気に肯定する。
血のように赤い夕焼けの空に、彼女の黒髪はとてもよく映えて綺麗だった。
大奥では、とにかく季節の行事ごとを賑やかに華やかに行う。
天下の中枢たる江戸城。それも女達ばかりが集まる大奥のこと、それも当然かもしれない。
凜花も大奥にやってきてからは、端午の節句には飾り付けを手伝った。背丈が高く力持ちである凜花はこういう作業のときだけは重宝されるのだ。
先日はさる大名家から献上されたという氷室の雪が、
この時期にはとても貴重な品であるのだが、彼女はそのまま凜花に雪を下げ渡した。
甘露のごとき砂糖水がかかった氷は、鍛錬終わりの身には染み入るようなおいしさだったのだが――できればこずえと食べたかったと思ってしまう。
しかし、次の日になって凜花は「あの雪には土が混ざっていることもあるので、
少しばかり複雑な思いだ。
別に凜花なら、少しばかり土くれを食べたところで体調を崩すことはないだろうが。
とはいえそういうことなら、こずえに「一緒に食べよう」などと言いださなくて正解だったのだろう。
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