そわそわする



 それから、二日か三日ばかりが過ぎた。


 まだあの赤い木の実は庭木についている。

 だが、あの少女にはあれきり会えていない。

 例の廊下を通るたび、それとなく探してみているのだが、影も形も見つからなかった。まるで幻のように儚げな少女だったが、まさか本当に幻というわけでもないだろう。

 幻なら、木の実をおいしいと言って食べることもないだろうから。



 ここ数日のそわそわした気持ちをこずえにも見破られているのか、今日の鍛錬は木刀をつかっての薪藁への打ち込みと、型の反復練習だった。

「今日明日は、刃物は持たない方がいいでしょう」

 そう言ってこずえは真剣を使うことを禁止した。確かに、こんなそわそわでふわふわした気持ちで刃物を持ったら怪我をするかもしれない。

 そのあたりこずえはちゃんと見ている。――見てくれている。

 自分の実母を含めて、誰かにろくに気にかけられたことのない凜花には、それすらもほとんどはじめての経験だった。


 御錠口の鍛錬場の隅っこで、ひたすら型の練習を繰り返す。

 振って。

 突いて。

 止めて。

 何度も何度も同じ動きを繰り返していると、次第に心が澄んでいくようで気持ちがいい。体を動かすのは、何も考えずに済むから好きだ。


 きりのいい回数までひとまず終えて、少し休もうと思っていると、椿の娘である久深と、藤の娘である千恵がこちらに来るのが見えた。

「もう、今日こそあなたと打ち合いが出来るかと思ってましたのに。型の訓練を言いつけられるなんて、あなた何かやらかしたんじゃないでしょうね」

「久深ちゃんてば、さっきまで心配してたくせに……。あのですね、久深ちゃんは一日も早く凜花さんと打ち合いしてみたくて仕方ないんですよ」

「千恵、余計なこと言わないでってば」

 ばつがわるそうに千恵を軽くにらみつける久深だったが、凜花にしてみれば誰かに――特に同年代の娘にこうして構ってもらえるというのは、やはり嬉しかった。

「そっかそっか。久深さん、心配してくれてありがとうね」

 凜花は手をひらひらさせながら礼を言う。

「ち……ちょっと、あなたね、手のひら、マメがつぶれてるじゃないの……ひどいことになってるわ」

 その指摘にはじめて凜花は手のひらを見る。確かに言われたとおりで、マメが潰れて血が流れている。木刀の柄も血で汚れていた。……これは、こずえに怒られるだろうか。

 そんな事を考えていると――ぐいっ、と強い力で手首を捕まれる。それは背伸びをした千恵だった。潰れたマメと流れる血を見つめる彼女の眼鏡の奥の瞳は、妙にきらきら……というよりぎらぎらとしていた。

 はぁああ…………と、いかにも嬉しそうなため息をついて、彼女は早口で何か聞き取れない難しそうな言葉をつぶやいている。

「……なんかごめんなさいね。千恵って……その、傷とか血とか見ると、いつもこうだから」

「……ううん、大丈夫。血を見て悲鳴をあげられるよりはよほどいいと思うよ。……多分、ね」

 水無瀬千恵は、一風変わったどころではなくかなり変わった娘だった。

 なんでも彼女が仕えている藤の錠前・紫島一羽様の部屋は、様々な書物が積み上げられているという。医師を目指していたという千恵も、その書物を自由に読む許可を与えられている。中でも各地の珍しい薬草を記した書がお気に入りなのだとか。

 ……女子の身で医師を目指すのは、あまりにも険しい道だっただろう。医学を学ぶ機会を得るだけでも大変な困難だったはずだ。そういうことは、凜花にも容易に想像できる。

「あ。ごめんなさい。私ったら……つい見入ってしまいました」

「うん、大丈夫。でも、そろそろ手を放して欲しいかなって」

「そうですね……ごめんなさい……」

 ぼそぼそと詫びの言葉を口にしながらも、彼女は凜花の手に名残惜しそうに改めて触れた。

「お詫びに、と言うわけでもないんですが」

 千恵は精神を集中させるように、眼鏡の奥の瞳を閉じる。

 ふわりと、あたたかい風に包まれたような感覚。

 手のひらの血が止まり、かさぶたや薄皮に覆われていく。傷口がぱりぱりとしていって、次第にむずむずと血や皮膚がかゆくなっていく。

 すでに何度か受けているのだが、なんとも不思議だ。

「はい、治りましたよ」

 これが、藤の錠前に受け継がれる治癒の力だった。

 強い思いを研ぎ澄ませ武具にのせれば、アヤカシすらも切れる刃となる。しかし、その強い思いの力を別の事に使うことができないか。

 ――そう考えた先人達がいた。

 そうして編み出されたうちの一つが、身体能力を高めることで外傷を塞ぐ治癒の力。

 小さな傷ぐらいなら、ほとんど傷痕さえも残さないという。

 ……だとすれば、こずえの体に残っている傷痕は……どれもよほど大きなものということなのだろうか。という思いがちらりと頭をよぎった。

「ありがとう。これでまた型の練習が出来る」

 手のひらをぐっと握っては開き、またぐっと握りしめて、千恵に礼を言う。

 久深はあきれた声で「まだ型を続けますのね」と不満げに言っていたが、まだまだ未熟な身なので鍛錬は必要だ。

「だって、まだまだこずえ様のように薪を一度で四つに割れないんだもの」

「まぁ」

 てっきりまた、あきれたような反応をされるかと思ったのだが、予想に反して、久深はふふんと笑って胸を張ってみせる。

「私のお母様なら、薪を一度で八つに割ることもできましてよ」

「それはすごいですね」

「ふふふ、その通り。お母様はすごいのですわ」

 どうやら、こずえが以前言っていた『薪を一度で八分割できる同僚』というのは、椿の錠前である黒鉄陽代様のことらしい。

 両手でないと扱えないような大刀を羽のように軽々と振るうお方なので、それも納得だ。

 しかしなぜ、久深が誇らしげにしているのだろうか。

「久深ちゃんは、本当にお母様のことが大好きですからね。まるで自分のことのように誇らしいのでしょう」

 そう微笑みながら言う千恵も、きっと自分の――藤のお母様のことが大好きなのだろう。

「そっかそっか」

 二人を見ながら、凜花は考える。


 自分は、いったい桜の母のことを――こずえのことをどう思っているのだろうか、と。


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