赤い実
ついこの前は桜が満開に咲いていた。それもすぐ散っていって、葉桜になった。地にはたんぽぽやすみれが可愛らしく咲いているかと思いきや、藤が華やかに垂れ下がる花を見せてくれた。つつじも既に赤や白の花を咲かせている。
凜花が大奥にお勤めを始めてから、もうすでに二ヶ月ほどが過ぎていた。
「あぁ……お腹……空いたなぁ……」
空が赤く染まゆりく夕暮れ時、凜花はくぅくぅと鳴き声をあげる腹をさすりながらため息をつく。
鍛錬終わりはとにかく腹が減る。
他の御錠口の部屋子たちは、鍛錬が終わると疲れで座ったまま動かなかったり、倒れるように眠ったりだが、凜花は体を動かすと落ち着かなくて眠れない系統だった。その上腹が減って仕方がない。
疲れ切った体を引きずるように大奥の廊下を歩いていると、くぅ、と腹が鳴る。
部屋子の食事は、基本的に部屋親の食事が済んだ後だ。そして、今日はこずえは部屋に戻ってくるのは遅くなる、と言っていた。つまり、凜花の夕食もいつもより遅くなるということだ。
食事をまかなっている御膳所に行けば何かもらえないだろうか。
三千人の女がいるという大奥は、納められている食糧も莫大だ。そうなると廃棄される分もまた莫大ということになる。なにかと物知りの千恵が前に教えてくれたが、かつおぶしの削りかすや、たくあんの端っこなどを持って帰る当番もいるという。罪には問われないのかと聞いたら、役得として黙認されているというとのことだった。
くぅ……。
また、腹の音が鳴る。
腹いっぱいとは言わないが、何か食べておきたい。
御膳所はどちらにあっただろうか、と廊下をあちらにこちらにと歩いていると――きちんと整えられた庭に、それを見つけた。
「あれって、由良崎の家にもあった樹かも」
それは、一見ありふれたような植木なのだが、この夕暮れの赤さの中でもなお赤い小さな木の実をいくつもつけている樹だった。
名前は知らない。凜花が知っているのは、あの小さな木の実が食べられるということだけだ。由良崎の家でも庭に生えていたので、この季節にはよく食べたものだ。
凜花は周囲を見回して、誰も居ないことを確認する。
大奥の決まりごとで、庭に生えている木の実を食べてはいけないとは聞いていないが、お行儀のいい行いでもないだろう。空腹の凜花にも、ちょっとした後ろめたさぐらいはあった。
だが、今なら誰も居ない。大丈夫だろう。そう判断し、懐から取り出した履物をつっかけて、庭に降りる。
「やっぱり、この木の実。間違いない」
手に取ってみて、自分の知るそれと同じものであるとあらためて確信し、思わず笑みが浮かぶ。
ひとつもぎ取って、そのまま口へ運んだ。
「……!」
噛みしめると、ぷちゅりとした感触のあとに甘酸っぱい味が口の中に広がる。今日の鍛錬の疲れが癒えていくような嬉しいおいしさだ。
もうひとつ欲しい、と思わず手を伸ばす。
その時だった。
ふわりと夕の風が吹くとともに、声が聞こえてきた。
「……その赤いのは、食べられるのか?」
それは、かすかな声、まるで独り言のようにも聞こえる。けれどよく通る声だった。
振り返れば、いつの間にか廊下には少女が一人立っている。
この夕暮れ時、血のように赤い空の下でも、はっきりとわかるほどに白く繊細そうな肌。つややかな黒髪は稚児髷に結われて、愛らしいかんざしで飾られている。赤い着物には格子に絡みついた薄紅色の花模様。しかし、それよりもなによりも、瞳だ。羨ましいほどにつややかに黒い瞳は、たくさんのまつげで隙間なくふちどられて、それ自体が美しく儚げな細工物のようですらあった。
「その赤いのは、食べられるのか?」
思わず見惚れていた凜花に、少女は聞こえていなかったと思ったのだろう。先程と同じ問いかけをやはり同じように美しい声で繰り返した。
「……それとも、お前が人にあらざる者であるから、それを食べられるのであろうか。この夕暮れ時よりも、なお赤い輝きを宿した人など、見たことがない。その赤いのを食べれば、この身もそうなれるのだろうか」
凜花には、この美しい少女の言うことが半分もわからなかった。けれどわからないなりに、言葉をどうにかこうにか断片的にでも紡ぎ出して返事をすることにする。
「あの、これは食べられるものだよ。えっと……私は人ならざるものとか赤鬼とかじゃなくて、ちゃんと人だよ。こう見えても、一応。……あとは、これを食べても私みたいにはならないよ、大丈夫だよ」
「そう、なのか…………」
なぜか、悲しそうに少女はそうつぶやく。
その肩を落とす様が、あまりにもしょんぼりとして頼りなくて、あまりにも可愛らしいと思ってしまった。
「私のようにはならないけど……興味があるなら、食べてみる?」
「よいのか。食べられるのか」
「うん。でもちょっと待っててね。井戸で洗ってくるから」
「あいわかった。ちゃんと待っている」
こくりと素直に頷いて、少女はその場にすとんと正座した。――凜花が戻ってくるまでこの廊下で待っている、ということなのだろう。
凜花は井戸を探して、駆け足でその場を後にした。
「……すっぱい……けど、甘い……おいしい」
「うん、おいしいね」
すでに陽は沈みきって、うっすらと青い夜のとばりには一番星が輝いている。夏と呼ぶにはまだまだ早い、梅雨の合間のひんやりとした空気の、夜のはじまりだった。
凜花はお行儀よく正座している見知らぬ少女の隣に座り、庭ににょきっと長い足を投げ出して、赤い実を堪能していた。
並んでみてわかったが、少女は思っていたよりもかなり小さくて、そして幼かった。おそらく、年の頃は十二か十三、そのあたりなのだろう。
「このようなものを食べたのははじめてかもしれない」
嬉しそうにまたひとつ、少女は赤い木の実を口に運ぶ。
「そっか。せっかく樹を育ててるのに
甘酸っぱさに軽く身を震わせている隣人を見てから、凜花も木の実を食べる。なんだか、いつも食べていたものよりもずっとずっとおいしい気がした。
「……」
稚児髷の少女は可愛らしく、凜花の袖をくいくいと軽く引っ張った。その意味するところは明らかだった。
「残念。取ってきた分はもうこれでおわりだよ」
井戸水で洗った木の実。その最後の一個を、少女のてのひらに包ませてやると、可愛らしく微笑んでくれた。
「……お前は、大奥の者なのか?」
最後の一個を食べる前に、彼女は問いかけてくる。
「大奥の者じゃなかったら、いろいろな意味で大変な事になってると思うんだけど……。うん、御錠口助役様の、部屋仕えをしてる」
「御錠口……上様がお渡りになる
もともとはその通路を『将軍以外の何者も通さない』ために置かれた役職が、御錠口だという。
凜花は彼女の言葉に頷いてみせる。
「……そうであったか。お前が人であるならば、大奥仕えならば」
少女は、つぶらな黒い瞳でこちらを見上げ、まるで花が咲くような笑顔で言った。
「それならば、またお前に会えるのだな」
桜のふすまの部屋に戻っても、凜花はどこかふわふわした気持ちであった。
「凜花。今日は良いことでもありましたか」
それをこずえには見抜かれているらしく、食膳の片付けをしているときにそんなことを聞かれてしまった。
「え。えっと……」
なんと答えたらいいものかと迷っていたが、意味ありげに微笑まれただけで、それ以上は追求されなかった。
こずえには見えない位置でこっそりと、安堵のため息をつく。
大奥の庭木から木の実を失敬したことは、どう控えめに考えても怒られることだろう。言えることではない。
それに……あの少女のこともなんと言えばいいのか。
凜花の隣で、美味しそうに赤い木の実を食べていた少女。
稚児髷に、小さく華奢な体つきだったところから、年はおそらく十三ぐらい。
肩揚げをした豪奢な振袖の着物姿だったし、どこか雅やかな雰囲気であった。話し方にも特徴があったから、御台所や姫君にお仕えするという
そこまで考えて、凜花はふと思い至った。
――あの少女の名前を聞いていない。
次に会ったときに聞けるだろうか。
そしてその時は、自分の名前も教えられるだろうか。
いつ会えるだろう。
こずえに大奥勤めに乞われた時ともまた違う、嬉しさと温かさ。
ふわふわして、そわそわして。
ほんの少しの不安もあるけれど、それでも楽しみに思いながら待てる。
ふわふわ、そわそわ。ふわふわ、そわそわ。
――あぁ。次はいつ会えるだろう。
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