親子ごっこ
「失礼します」
留守だとは教えられていた。だが、最低限の礼儀としてそう呼びかけてから、凛花は桜のふすまを丁寧に開ける。
ふぅわりと、華やかな香の匂いが感じられる。大きな一部屋を、桜が描かれた衝立で仕切って使っているらしい。手前はがらんとしているが、奥のほうにはある程度人の住んでいる気配のようなものがあった。
さて、どこで待たせてもらうのがいいだろうか。
外した頭巾を手に、そんなことを考えていると――
「あら、意外と早かったのですね」
振り返れば、こずえが微笑んでいた。
いつの間にそこに居たのだろうか。明るい日差しと部屋の作り出す濃い陰が、彼女に幽玄とも言える美しさを与えていた。
「今日は良い天気だったから、喉が渇いたでしょう。お茶を持ってこさせましょうか。それとも荷解きが先かしら。あるいは、私に聞きたいことが山ほどできたのではなくって?」
「あ、あの……えっと……」
緊張で喉が渇いていたし、歩き通しで疲れてもいた。聞きたいことも、数え切れないほどたくさんある。
けれども、真っ先に凜花の唇からこぼれ出たのは――
「私はこずえ様のこと、お母様と呼ばねばならないのです、か……?」
そんな、あまりにもささやかすぎる問いかけだった。
その問いかけに対してこずえはすぐには答えなかった。ただ、何気ない所作でゆっくりと部屋に入り、優雅に畳に正座して手招きをした。
凛花はおずおずと、がらんとした部屋に入る。人気の無い部屋にありがちな、ひんやりとした空気が満ちたそこは、やや居心地が悪かった。しかし、こずえが座るように促したので彼女の正面にぎこちなく座った。
「凜花、貴方が大奥で私に――桜の錠前を預かる朱保志こずえの部屋子になるのでしたら、私は貴方を『娘』として扱いますし、周囲もそうすることでしょう。それが大奥における私の特権であり責務なのです」
花の錠前を預かる御錠口たちは、部屋子を『娘』とし、後継者としての指導をする。『娘』はいつ『母』がいなくなってもお役目を果たせるように、教育を受けなくてはいけない。
そんな風に、感情の感じられない淡々とした説明を次々と流し込まれた。凜花の心の中にある、その流れに逆らうように突き刺さったトゲのようなモノが、小さくともずきずきとした痛みをずっと与えてくる。
いなくなっても――というのは、まさかそれは命を散らした時ということなのか。そんな風に命を削ってお役目を全うして、与えられていると言う特権は、それは。
「……親子ごっこをしろ、と言うんですか」
「そういうことになりますね」
「こずえ様を、お母様と呼ばねばなりませんか」
「貴方がこのまま大奥勤めをするなら、そういうことになりますね」
「……」
心の中のトゲが、ずぶりずぶりと刺さっていく。
実家も尼寺も出て、どうせ行くあてのない身だ。
身命をかけて大奥のために働くことは構わない。
凜花の鬼のような体でも、天下のため、上様のため、皆のためになるというのならいくらでも投げ出して良い。
けれども。
「嫌です……こずえ様を、お母様と呼ぶことは……できません」
けれども『親子ごっこ』を特権であり責務であるなどと言われ、強いられるのは嫌だ。
きっぱりと拒否を示した凜花の目を、こずえはしばらく見つめていた。
こんなにも長い間誰かにまっすぐに見つめられたことは、今までにない。
凜花とまったく違う黒いまつげに彩られた黒い瞳は、しばらく揺らぐことはなかった。
「そうですか」
彼女のまつげが黒い瞳を覆い隠して閉ざす。
「大奥勤めは、不慣れなことも多いでしょう。しばらくはここの暮らしや他の者になじむことを優先なさい。それと、鍛錬も欠かしてはなりませんよ」
「……こずえ様」
「しばらくはそれで構いません。人前では、なるべく呼び方を気をつけるようになさい。よろしいですね」
大奥のきまりごとに従わない凜花でも、そばにおいてくれるということらしい。
こずえは、言うべきことは言ったとでもいうように、すうっと立つ。
「この部屋は、今は私とあなただけです。空いている場所を好きにお使いなさい。初日と言うことで鍛錬は免除です。……今日はゆっくりと体を休めなさいな」
桜のふすまに手をかけながら、彼女は振り返って微笑んだ。
「はい……こずえ様」
緊張で喉が渇いていたし、歩き通しで疲れてもいた、聞きたいことも、まだまだ数え切れないほどたくさんある。
けれど凜花はそれ以上は何も言わず、畳に手をついて頭を下げ、部屋を出ていくこずえを見送った。
「喜多が使っているのは、槍のようにも見えるけど……旗なのね」
「はい。竜胆の錠前とその娘が扱うのは、戦旗なんですよ」
御錠口達の鍛錬場を、喜多と一緒に歩きながらそれぞれが使う武器について話す。
ずっと思い描いていたような、可愛らしい会話の内容でこそないが、同じ年頃の少女と話せること自体が凜花には嬉しい体験だった。
「本役である竜胆は、どんな戦いであってでも最後まで見守らないといけません。だからこそ、私たちは皆様を鼓舞し支援する戦い方を習い覚えます」
そう言って、彼女は戦旗を掲げてみせた。
大奥御錠口がアヤカシを屠る方法は、錠前ごとに様々だ。
「藤のところの千恵は薙刀。椿……久深のところは、すごくおっきな刀で」
そう言いながら、凜花は腰から下がっている刀にそっと触れる。体格に合わせて刀身は長くしてあるといわれたが、それでも片手で扱えるごく一般的な範囲の刀だ。
桜の錠前が扱う武器は、刀。
しかし、ただ斬ればいいというものではない。
なんだごく普通の刀じゃないか、という顔をしていたのを察されたのか、先程こずえがその振るい方を少しばかり見せてくれた。
その動きは――素人である凜花が見ても妙に大げさというべきもの。よく言えば美しくて、派手な、目を奪われるといったところ。しかし悪く言えば隙だらけ。
これならば、もっと効率のいい動きがあるだろうと思った。しかし、こずえはそれでいいのだ、とゆったりと微笑んでみせる。
――そして、自らの着物の袖をまくって腕を見せたのだ。彼女の白い腕は、傷痕だらけだった。大きな傷、小さな傷、火傷のような痕。いろいろだった。
「この傷一つで、仲間の命が一つ守れたのです」
きっと腕だけではない。彼女の体には……もっとたくさんの傷があるのだろう。
桜の錠前の役目。それは、派手な動きで相手の注意を集め、身を挺して仲間達を守りながら戦うこと。
……こずえは女として、あの傷痕を恥とは思ってはいない様子だった。むしろお役目を果たしていることを誇りとしているようだった。
自分もなれるのだろうか。
鍛錬を積めば、こずえのように、仲間を守り、それを誇れるような人間になれるのだろうか。
きゅっ、と唇をかたく結んだ凜花を、喜多はどこか不安そうに見上げながら戦旗を抱え直す。
「あのっ! 桜の錠前は、殊更に鍛錬が過酷だと聞いています。でも、戦う仲間を支えるのが、私の――私たち竜胆ですから! だからっ!」
「喜多」
自分よりもさらに年若い十四歳の少女である喜多が、まだ出会ったばかりの凜花をなんとか勇気づけようとしてくれている。そのことがどうしようもないほどくすぐったくて嬉しかった。
「……喜多。大丈夫。私はこずえ様よりもずっと大きいんだから、きっとものすごく頑丈だよ。大丈夫だよ」
無理してないわけではない。虚勢を張っていないというわけでもない。だけど、こんな小さな少女が仲間を支えると震える声で宣言しているのだ。こっちも無理だってしてみせようというものだろう。
「そういえば、喜多はどうして大奥でお勤めを? 私はほら、見ての通りの鬼みたいな体格と赤髪と、こんなへんてこな目の色をしているから、家族がみんな亡くなったら、行き場所も嫁の貰い手もなくって、しばらくは尼寺にいたんだけど――」
「あ、あのっ、私は、その……弟妹が多いものの父の扶持はすごく少なくて、自分なりに内職などして家計を支えていたのですが、それもどうにもならなくて、でも大奥勤めの親戚がいたので、その伝手で、雪緒様……お母様の部屋子になることができましたっ!」
凜花にこの自虐的な調子で話をさせてはいけないと気遣ってくれたのか、喜多は一生懸命、自分の家の扶持の少なさや、弟妹達がいつもおなかを空かせていることや、雪緒の部屋子になれたことへの感謝の気持ちなどを語ってくれた。
――決して彼女にとっても話しやすい話題でもないだろうに。
喜多はいい子だ。
思わず、ぽんぽんぽんっと彼女の頭を撫でる。よく家の裏にいた野良犬の仔らをこうしてなでてやっていたので、それを思い出してついついやってしまった。
「あの……うぅ……子供じゃないんですけど……」
案の定、彼女は子供扱いされたことで、怒ったようにふくれてしまう。
「ごめん。ごめん。勝手に髪に触ってごめんね。でもありがとうね。今日の鍛錬、頑張れそう」
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