桜花と錆びた鉈


「……あのぅ」

「ええ。どうぞ、私のことはお気になさらずにお仕事をなさってくださいな」


 誰かに見られながらの薪割りというのは、妙に緊張する。

 万が一にも、うっかりと手から鉈がすっぽぬけてこの綺麗な女性の頭上にでも落ちたなら大問題である。もしもそうなれば、凜花はこの尼寺から追い出されるだけでは済まないだろう。行き場の無い身には、それはとてもとても困ることだ。


 薪割りの仕事があるので、と断って樹から降りたのだが――なぜかこずえは樹から羽のようにふぅわりと飛び降りて、そのまま凜花についてきた。そして、興味深そうに薪割りを眺めている。

 まさか、大奥勤めの女性にはこういう仕事さえも珍しいのだろうか。確かに、こずえは桜花の精のように可憐で、華奢で、いかにも肉体労働などしたことがなさそうな容姿をしてはいるが。


 ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎぃっ、ぎぃっ、かこん、かこんっ、こんっ。


 錆びた古い鉈は、あまり切れ味が良いとは言えない。力ずくで何度か薪に刃を押し込み、何度も何度も叩きつけてようやく薪は両断されていく。

 効率は良いとは言えず、疲れる割には仕事は進まない。

「あの……」

 五本目か六本目の薪を両断した後、こずえが遠慮がちに声を掛けてきた。

「ねぇ。もしよろしければ、わたくしにお任せくださらない?」

 またしても思わぬ言葉に、凜花は目を見開いてまじまじと彼女を見つめる。

 そうしているうちに、こずえはすぅっと動いて、ごく自然に凜花の手から、錆びた鉈を取った。その刹那に触れた、こずえの……手。華奢で小さな手指ではあるが、皮は分厚くごつごつとしていて、まめや裂傷の痕がたくさんあるのがわかる。これは、間違ってでも箸や筆や櫛だけを持っているような女性の手では、ありえない。


「ここに薪を置いて……こんな感じですかね」


 こずえが、ふわりと軽く鉈を振るう。桜が描かれた着物の長い袂がひらりと舞って、奇妙に美しい。しかし――あんな錆びた鉈では、分厚い薪には刃が入るわけもない。

 そのはずだ。そのはずなのに。

「な……」

 ばらばらばらばら。薪は見事に四分割されて、きれいに倒れた。


「……あ、あの……大奥って場所は、こういうことも教えてもらえるんですか……?」

「そうですね。時と場合によりますが、ね」


 すまし顔で、次々と軽やかな動きで薪を割っていくこずえから、凜花は目が離せない。

「時と場合というと」

「必要があればということです」

「じゃあ、必要なら教えていただけるんですか?」

 ふわり、ふわりと、桜色の袖が舞うたびに、薪が綺麗に割られていく。


「そうですね。わたくしはまだまだ若輩者ですので、人に教えたことはありませんが。それに、わたくしは一度で四分割が限度ですが、わたくしの同僚ならば八分割はできることでしょう」


 その言葉に、凜花はぽかんと口を開けっぱなしになってしまう。

 こんなことができる人がいるなんて、その上、まだまだ凄い人もいるなんて、いったい大奥はどんなところなんだろう。

「大奥って、どんなところなんですか……」

「気になるのですか?」

「はい、とても」

 その言葉に、こずえは鉈を一度置いて、それからまっすぐに凜花を見つめる。


「あなた、お名前はなんと」

「由良崎凜花と申します」

「お生まれは旗本かしら」

「はい」

「そう。それなら、何も問題ないわね」

 そう言って、桜花の精のごとき女性――こずえは、ふぅわりと可憐に微笑んだ。



「あなた――大奥においでなさい」




 こずえから大奥仕えに誘われた凜花は、その夜には薄い布団にくるまりながら一人決意していた。


「このまま死んだように生きるぐらいなら……行ってみよう。大奥へ」

 もともと尼になるつもりで寺にいたわけでもない、嫁ぐあてもなく、親戚からの文もない。ひっそりとここで生きていくだけだと思っていたのに、降って湧いたこの話である。

 それに。


『――おいでなさい』


 誰かに必要とされ呼んでもらえるというのは、あんなにも嬉しくて心地いいものだったと、凜花は知ってしまった。

 だから行こう。あの可憐な人が居るところへ――大奥へ。




 尼寺や由良崎の家にはすでにしらせがあったらしく、凜花が大奥に向かう日取りは思っていたよりも早かった。

 咲きおくれた桜も散って、葉桜が見える頃に、凜花はごく僅かな荷物とともに寺を出た。

「……お世話になりました」

 一歩外に出て門に向かって深々と頭を下げるも、見送りの尼僧は誰も居ない。


 あぁ。やはり自分は、ここでも厄介者であったのか。ちくりと心が痛む。もう何度も味わってきた痛みなのに慣れることはない。



 春の、それなりに温かな気候ではあるが、凜花は深々と古い頭巾をかぶった。お江戸の町中を歩くのだから、こんな目立つ真っ赤な髪はさらさないほうがいいだろう。赤鬼が居るぞ、と見世物扱いを受けたことも一度や二度ではないのだから。

 しかし、この身の丈はどうにも隠しようがない。仕方なく凜花はなるべく猫背になって、唯一の持ち物である風呂敷包みを抱きしめて、大きな通りをいくつも歩いて行く。


 花のお江戸。徳川の将軍様のお膝元たる江戸は、とにかく人が多い。


 どこぞの藩から出てきたばかりらしい若い侍。そしてその侍に、お一人暮らしならこれがいいでしょうと小さな衣紋掛けを勧める商売人。その道を急ぎ行く、今朝とれたばかりらしいまだ土が付いた青い野菜を運ぶ農夫。道のむこうからカンカンとせわしなく聞こえるのは、きっと大工が金槌かのみを使っている音なのだろう。

 そして、今すれ違ったのは……供を連れた、まだ十代半ばほどの少女だ。どこかの大きな商家の娘のようで、身なりはとても良い。しゃらしゃらと鳴る鈴のついたかんざしと、これでもかというほど大きく長い振袖からちらりと見える赤い襦袢がたまらなく可愛らしかった。


 凜花はますます身を縮めて、なるべく早足で歩く。

 物売りの声や、芝居の呼び込みの声、それにいろんな音が混ざり合って、あまりにも賑やかすぎて、逆に凜花の心は真っ白なありさまだった。




 江戸城大奥。

 その昔、賢女『春日局』により築かれた、徳川の将軍とお世継ぎと、その正室や側室たちの生活の場。そして――それらに仕える多くの女性たちの住まう場所。

 凜花は特に誰にもとがめられることもなく、実にあっさりと、大奥の出入り口とでもいうべき場所にたどりつくことが出来た。


 女ばかりの大奥のこと、ぞろぞろと同じ方向に歩いて行くのはすべて女性。

 どこぞの商家の御用聞きも、風呂敷を背負った小間物屋も、春の野菜を運ぶのも、手紙を大事そうに運んでいるのもすべて女性。中には駕籠かごを担いでいる女性達までいる。

「こんなの、まるで女しかいない国にでも来てしまったみたい」

 こずえとその上役が書いてくれたという、大奥女中御錠口の部屋方に採用すると言う旨の文を懐にしまいこみながら、凜花は『大奥の中』に立ち、ほぅっ……とため息をつく。

 そこかしこの廊下から、女たちの賑やかな声が聞こえる。

 この中には、男はいない。上様と、その血をわけたお世継ぎ方を除いては、完全に女ばかりの場所なのだ。

 あの植木を整えているのも女だし、厨房で働いているのも女。掃除をしているのも、向こうの部屋の中で針仕事をしているのも、もちろん女。

「あはは」

 ぼんやりとそんな光景を眺めていると、不意に笑い声をぶつけられた。

「あはははっ、女ばかりの国かぁ。まぁ言えてるかもねぇ。今や大奥には三千人もの女がいるんだからねぇ」

 口調こそさばさばしたものだが、どこか甘ったるさが残った声が、背後から響く。

「……!」

 驚いてすぐに振り返る。

 そこにいたのは、凜花よりも二つか三つばかりは年上とみえるが、背丈は凜花よりも頭ひとつと半分ほどは小さな女性。華奢で顔立ちは幼いのに、ふっくらとした唇の紅だけが妙に赤く艶かしく、奇妙に際立っている。

「へぇ、随分良い反応だねぇ。あの甘ちゃんのこずえが、果たしてきちんと選べるものかと思っていたけど、さ」

 背丈こそ小さいが、それに反するように態度が大きなその人は、赤い口元に皮肉げな笑いを浮かべてこちらを見つめている。

「ねぇ。ちょっとぉ、仮にも目上と話しているんだから、その頭巾はとったらどうなのさ。なぁに、アンタが坊主頭だってここじゃあ誰も気にしないさ。大奥にはその昔、尼僧だったけど時の上様のお目にとまって、無理矢理に還俗させられたって側室様もいたぐらいなんだから、そんなの今更だよ」

「あの、でも、これは、この頭巾は――」

 女性の白く小さな手がすうっと伸びてくる。その時だった。


「何をしているの、紅衣くれない!」


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