江戸の桜花と赤鬼娘
ふわり。
青空に鮮烈な赤色が流れていく。
江戸を渡る風に、
それを気にもせず、凜花はするすると尼寺で一番高い樹を登り続ける。
この尼寺には、凜花の乱れ髪を見とがめるような者はいない――良くも悪くも、そのような者はいない。
「よいしょ……と」
張り出した大枝に、足袋も履かないむきだしのつまさきをかけてよじ登り、ふぅっ、と呼吸を整える。
眼下に広がるのは――今を盛りと咲き誇る江戸の桜。そして、遠くかすかに見えるのは雄大な富士のお山だ。
江戸の町と、富士。
この眺めが、この尼寺に来てからの凜花の数少ない楽しみ。
東照大権現様から数えて、徳川様の世は既に十代以上。もはや戦国乱世は遙か遠く。春になれば町人もはなやかに着飾って出かけ、桜を愛でる。そんなことが、あたりまえの世。
髪を乱雑に纏めていた粗末な布からこぼれ落ちた赤髪が、風に乱され踊る。
そのさまは、平穏な青空に鮮血が舞い飛んだような不似合いさと不気味さとおぞましさがあった。
――赤鬼。
祖父母、両親、それに兄姉。家族は皆、凜花のことを赤鬼と呼び、疎んだ。
真っ赤で縮れた赤い髪。桜の色のようにも、鋭い刀身のような鋼の色にも見える奇妙な瞳。それに、年若い少女にはありえないような体格。身の丈は五尺七寸をゆうに上回る。
――赤鬼。
凜花は旗本の娘としてのまともな扱いはついぞ受けられなかった。
家族は凜花を一人離れに住まわせて、ろくに顔も見に来ようとはしなかった。
――赤鬼。
そう呼んだ家族も、少し前の流行病でまとめて亡くなってしまった。
本来であれば、凜花が婿をとるなりして由良崎の家を継ぐことになるのかもしれない。だが、親戚によってこの尼寺に放り込まれて、それきり何の連絡もないままだ。
ひら、ひらり。
桜の花びらが、どこからか舞い飛んできた。
「……あ」
そしてその花びらは、とっさに伸ばした凜花の手のひらにおさまる。
「ねぇ。お前は、どこからやって来たの?」
手のひらの中の花びらを見つめて、凜花はすっかり癖になっている独り言をつぶやく。
「私は、あそこに見える江戸の町に住んでいたの。上様に仕える旗本のお家だったけれど、私は……母屋の敷居をまたいだことがないから……家の中がどうだったか、よくわからないの。でもお庭はね、いつでも整っていて綺麗だったなぁ」
儚い薄紅色の花びらに、話しかける。
凜花は家に仕えてくれていた使用人たち以外とはろくに話したことはなく、必要最低限のことだけしか話せたためしがない。別に人間嫌いというわけでもないが、向こうが常に怯えていて凜花に話しかけないのだから、凛花も話しかけようがなかった。
だから、こうして花や、木々や、風に向かって呼びかける。花は話しかけても逃げたりしない。それに何より小さくて愛らしくて美しいので、凜花は花が好きだった。
「ねぇほら、今日は天気が良いから富士のお山も」
「あら、そこは富士が見えるのですか?」
唐突に、可憐な声が返ってくる。
よもや花びらがしゃべったのかと思いきや――
「そこは、貴女のお席かしら?」
その声の主は――樹の下にいる、いかにも品の良さそうな桜色の着物を纏った若い女性だった。
「え、あの、えっと……」
そういえば、今日はものすごくお偉い御方がお参りで人が来ると、尼様たちが言っていたような。となると、この女性がそのお偉い御方本人か、もしくはお供だろうか、それなら粗相があってはいけないし。というか今、まさに樹の上から見下ろしていて、これは失礼にもほどがある状況ではないだろうか。
「も、もうしわけありませ、あの、今、すぐに、降りますから!」
「あぁ、いえ。そういうわけではないのです」
「えっと……?」
「ほんの少しばかり端によってくださいますかしら、と言いたかったのですよ。私もそちらへ行きたいので」
どういう意味だろう。凛花にはその言葉の意味がまったくわからなかった。
まさか、この上品そうな女性が着物の裾をからげてがっしがっしと木登りをしてやってくる、という意味なのだろうか。いやいや、それはいくらなんでもないだろう、しかし、それならどういう。
凜花がぐるぐると考えていると、その女性は――――跳んだ。
きしっ……と、わずかに大枝が揺れる感覚。
たったそれだけだった。
それだけで、もう、凜花の隣には桜色の女性がいる。
「な、なんで……」
「これもまた、大奥でのたしなみですので」
まるで桜花の精のごとき女性は、笑みもまた愛らしく美しく上品だった。
「わたくしは
「……大奥って、一度入れば、外に出られない、とかいうところじゃ」
「あらまぁまぁ。そんな風に広まっているのでしょうか。何も牢獄じゃあるまいし、そんなわけはありませんよ」
どうやら、凜花はへんてこで間違った知識を披露してしまったらしい。こずえと名乗った女性は、くすくすといかにも面白そうに笑っている。
「そうですね。一部は正しくて、でも大部分は間違ってる、といったところでしょう。上位の役職ともなれば、生涯大奥でお勤めすることもあります。が、そのお役目を辞することができない、というわけでもありません。そして、昼間にきちんと門限を守って外出する分には、こうして寺を詣でたり、そのお供をすることもあります」
「今日のように……ですか」
「えぇ、本日は
そう言って朱保志こずえは、江戸の桜からも富士のお山からも視線を外して、少しうつむいた。
――大勢で賑やかな花見をしたいという気分ではないらしい。少なくとも、今は。
それから、こずえは無言で江戸の桜を眺めていた。
彼女が何もしゃべらなかったので、凜花からあえて何か話すこともなく、樹上に並んだでこぼこな二人はじっと、花と景色を愛でていた。
遠くに見える、広大な江戸の町。それよりも遙かに遠くにそびえる、雄大な富士のお山。そしてあちらこちらに咲いた、儚くも可愛らしい薄紅色の桜たち。
凜花も、こずえも、何も話さなかったが、奇妙に居心地の良い時間。
思えば凜花には『ここに居ていい』と、誰かに思ってもらったことさえもなかった。
けれど初めて会う、この大奥勤めだという、綺麗だけどすこしばかりへんてこな女性――こずえの隣はなぜか『ここに居ていい』と思わせるものがあったのだ。
さらさら、さらさら。
聞こえるのは、風がそよぎ木々や葉が揺れる音だけ。
「あ……」
射し込む木陰がいくらか形を変えてきたことで、ふと、凜花は思い出した。
今日中に終えておかねばならない薪割りが、まだあることを。
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