大奥は花の錠前で護られて
冬村蜜柑
明治の桜咲くころ
ふわり。
風が、桜の花びらをひとひら室内に運んできた。
その薄紅を、彼女は皺だらけの手でそっとすくい上げる。
もう春だというのに、夕暮れどきの風はかなり冷たい。
この土地は東京よりほんのわずかに北にはある。だが、妙に冷えて感じるのはそれだけが原因というわけではない気がした。
「私も、もう随分な年ですものね」
江戸城・大奥の最高権力者といえる
このぎやまんの杯は、元はさる大名家より将軍家に嫁いできた
それだけではない、室内には他にも京で織られた錦の帯や、加賀友禅の反物や、べっこうのかんざし類や、黒漆に蒔絵が施された器、銀鎖が使われた小物入れ、そういった日本各地の技巧と贅をつくした品々がところ狭しと広げられていた。
…………ぱたぱたと、急いでいる様子の足音が部屋に近づいてきている。
部屋の戸が開くよりも先に、北山は
「少しは落ち着きなさいな。まったく、大奥にいたころからあなたのあわてんぼうぶりは変わりありませんね」
「北山様……いえお母様。そろそろ冷たい風がお体に毒でございます。戸を閉めてくださいな! それにまぁ……こんなに高価な品物を出して……これはあまりに不用心ですよ!」
「まぁ。このあたりの者は皆きちんとした方ですし、そんな心配はいらないでしょう。だってここはあなたの故郷なのだもの」
大慌てで障子戸を閉める養女――かつて大奥で傍仕えを勤めてくれた娘を微笑ましく眺めながら、北山は薄紅のはなびらの入った杯を文机の上に置いた。そこにある帳面に踊る文字は、まだ墨が乾ききっていない。
「また何か、書き物をしてらっしゃったので?」
「えぇ。隠居生活というのはのんびり出来て良いのだけど、どうにもやることがなさ過ぎてね」
「……北山様は大奥ではあまりにも働き過ぎておりましたから、もっとのんびりした方が良いと思いますが」
そう言いながらも、娘は首を伸ばして帳面を覗こうとする。
「それで、お母様。今日はどこまで書き進められましたか?」
「まぁ、怖い怖い。原稿の取り立てだわ。でも、今日はそんなに進んでいませんよ。あまりに筆が進まないものだからついつい……ね」
と言いながら、北山は部屋に広げられた品々を眺める。
錦の帯、友禅の反物、べっこうのかんざしに、蒔絵の器、銀鎖の小物入れに、ぎやまんの杯。その他にも、たくさん。ここに広げられたのは目もくらむほどに豪華な品々。
それもそのはず、北山は江戸城で五人の将軍に仕え、大奥で最高の権力を持ち、辣腕を振るってきたのだ。
あちこちの大名家や公家から贈られたのは、当然その家の威信をかけるような立派な品物ばかり。
――否、違う。そればかりではない。
そんな中にも、古びてボロボロの守り袋や、何かの紙包みらしきものや、よくわからない布きれといった、明らかに『価値のなさそう』な品物も混ざっている。
「……ねぇ、おばばさま。これも『宝物』なのでございますか?」
それまで母の近くで大人しくしていた六歳になる孫娘が、じぃっとそれらを見つめて首を傾げている。
「えぇ、そうですよ。これもおばばの宝物なのですよ」
「その、きれいなぎやまんのさかずきと、おなじぐらいに……宝物なのでございますか?」
まっすぐに問いかける孫娘の無垢さに、思わず微笑みがこぼれる。
「えぇ、そうですよ。どれもこれもみんな、おばばの大切な思い出が詰まった愛しい恋しい宝物です」
明治という時代が来るよりほんの少し前のこと。
北山は江戸城大奥を出て、信頼する傍仕えのゆかりの地に住まいを定めた。そして傍仕えを養女とし、夫を持たせて『北山家』を興した。
北山は大奥にいたほとんどの女性が持ち得なかったであろう、自分の家と家族を持つという、ささやかな幸せというものを楽しんでいた。
しかし、こうして年を取ってから振り返ってみれば、自分の生き方というのはどこかで違った道もあったのでは、と後悔することもたくさんあったのだ。
その後悔を、北山はある形で昇華させようと筆をとっていた。
「ねぇ。大奥って、どんなところなのですか。おばばさま」
「……そうですね、ではお前にはこっそり教えましょうか。大奥のことを、大奥にいた女達のことを。大奥の女達の生き方と、死に方を。でも内緒ですよ。なにせ大奥のことはそれはもう極秘のことなのですから」
「おばばさま、大奥のこと、おしえてくださるのですか?」
「えぇ、教えてあげましょう」
――――でもほんの少しばかり、脚色と想像を交えてになりますけれど。
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