夏祭り

 八月十五日は、近所の神社の夏祭りの日だ。おれはいつも勝と大夢と一緒に行くんだけど(ひいじいちゃんたちが懐かしがってついて来ることもある)、今年は三人で相談してユウコさんを誘おうってことになった。どうやら、ふたりともそうしようと思っていたみたいだ。夕方近くなって旧校舎に集まり、ユウコさんに声をかけた。


 「夏祭り? 」


 ユウコさんは初めて聞く言葉を繰り返すみたいに言った。おれは神社の方を指差した。ここからじゃ森の一部にしか見えないけど中に立派なお社があって、今日はたくさん出店が並ぶんだ。


 おれは言った。


 「一緒に行こうよ。楽しいよ」

 「もうそんな時期なのねえ」


 ユウコさんはしみじみと呟いた。ユウコさんに時間の感覚があるかは分からないけど、もしかしたら死んでから初めて夏祭りの日が来たとか思ってるんじゃないだろうか。本当は、もう何度もやってるはずなんだけど。


 「ユウコさん、出歩けないわけじゃないんでしょ? 」


 と大夢。ユウコさんは首を傾げた。


 「さあ……学校の外に出たことないし、分からないわね」

 「行ってみようぜ」


 勝が先に立って、おれたちは校門を出た。ユウコさんは全然問題なくおれたちと一緒に外へ出た――学校のすぐ前は、横断歩道のある大きな道路だ。ひっきりなしに通り過ぎていく車の列を見て、ユウコさんは目を丸くした。


 「……いつ、こんなふうになったのかしら……この辺りって、もっと……」

 「もっと? 」


 おれは聞き返した。昔自分が見てた景色とあんまり違うんで、何か思い出しそうになってるんだ! 


 ユウコさんは眉を寄せながら呟いた。


 「そうね、もっと……畑がたくさんあるような場所だったわ。この道は、もっと狭くて……舗装もされてない、ただの農道だったのよ」

 「ユウコさん、ここで何してたの? 」


 大夢が聞いた。旧校舎にいたってことは、生前のユウコさんは旧校舎があった場所で何かしていて、そこで死んじゃったんだろう、っていうのがおれたちのまとまった意見だった。


 今なら、もっといろいろ思い出せるんじゃないだろうか? ユウコさんは町を歩きながら辺りを見回してしばらく考えていたけど、ちょっと浮かない顔をしただけだった。道路がある場所はもともと道だったから記憶に引っかかっただけで、町の様子はきっとすっかり変わってしまっているから、思い出そうにも手がかりがなかったんだろう。


 神社にはもうたくさんの人が来ていた。いつもは静かな町なのに、どこにこんなに住んでるんだよっていうくらい。同じクラスの子に会ってもその子が浴衣を着てたりして、毎年のことだけどちょっと新鮮なんだ。ユウコさんは人ごみを気にしなくていいから、楽しそうにきょろきょろしながら歩いている。ユウコさんが生きてた頃にはなかったような屋台なんかもあるだろうから、珍しいんだろうな。今までに一回も見たことのないような嬉しそうな顔を見ていると、やっぱりユウコさんもまだおれたちとそんなに変わらない子どもなんだなって、おれは思った。


 「それなあに? 」


 大夢が買ってきたチョコバナナを見て、ユウコさんは不思議そうに聞いた。ユウコさんがバナナに刺さってる割りばしを手に持とうとすると、ひいじいちゃんが茶碗を幽体離脱させたときみたいに、バナナの幻みたいな影だけがユウコさんの手に残った。


 「それ、バナナにチョコレートかけたやつだよ」


 おれは説明したけど、これじゃそのまんまじゃないか(でもチョコバナナを説明しようと思ったら、これ以上言えることあるかな? )。ユウコさんはチョコレートの上にかかってるカラフルなやつ(多分砂糖だと思う)が気に入ったらしくて、


 「今は、こんなにきれいな食べものが売ってるのね」


 なんて言いながらバナナをかじった。


 「ユウコさんは、縁日でどんなの買ってた? 」


 勝が前歯にタコ焼きの青のりをくっつけたまんま聞いた。ユウコさんはちょっと考えたけど、これは覚えていたらしい。


 「弟がハッカパイプほしいって言うから、よく買ってあげてたわ。わたしは、金魚すくいが好きだったんだけど。それに、カルメ焼きとか、玄米パンとか……ブリキのポンポン船なんかも、売ってたわね」

 「ハッカパイプってなに? 」


 おれは聞いた。いろんなこと知ってる大夢も、知らないと言う。


 「パイプの形をした容れものの中に、ハッカの味をつけたお砂糖の粉が入ってるのよ。小さい子って大人の真似をしたがるから、ハッカパイプをくわえて煙草を吸ってるふりをするわけ。……戦争がはじまる前は、そんなことだってできたのに……」


 ユウコさんは懐かしそうに言って、屋台の列を眺めた。残念だけど、ユウコさんが言った中で今も残ってるのは、金魚すくいだけだ。でもユウコさんには金魚は飼えないから、そのあともおれたちが買うお好み焼きだのかき氷だのを一緒に食べて回った。


 ひいじいちゃんも、モトチョーも、戦争中はひもじくて辛かったと言っていた。ユウコさんも、トモちゃんはいつもお腹を空かせて泣いてたって言ってたし、きっとユウコさん本人だってお腹を空かせてたんだろう。


 おれたちはそんなに腹を減らしたことなんか、一度もない。食べるものがなくて困ったこともないし、蛇のぶつ切りなんか食えって言われたら、何の罰ゲームだと思うだろう。おれは何だか辛くて、焼きそばの味がよく分からなかった。おれたちとユウコさんたちとで、何か違いがあるわけじゃない――おれたちが戦争中に生まれてひいじいちゃんみたいに兵隊に取られたら蛇だろうがトカゲだろうが食うだろうし(多分)、ユウコさんたちが今の時代に生まれていたら、飢えて死ぬなんて想像もできない暮らしをしてたはずだ。


 生まれた時代が、ちょっとずれただけ。それだけのことで、死ぬ理由まで変わってしまう。昔が大変だったとか、今が贅沢だとか、ありがたみがないとか、そういうことじゃなくて。ただおれは、


 「腹減って死にそう! 」


 って、冗談で言える世の中がいつまでも続けばいいのに、と思っていた。



 盆踊りは十時まで続くから、おれたちは八時半ごろまでみんなで一緒に踊って、神社の前で別れた。おれは学校の前を通るから、ユウコさんと一緒だ。おれがユウコさんと同じくらいか年上だったら


 「送ってくよ」


 とかカッコつけられたんだけど、今の状況じゃどう見たってユウコさんがおれの保護者だ。男のコケンに関わるが、仕方ないぜ。


 「あらタッちゃん、お姉ちゃんとお祭りだったの? いいわねえ」


 なんて、去年死んだ下のうちのばあちゃん(高校生みたいに若返っている)とすれ違って声をかけられる。おれはぶすくれた。おれだって来年から中学生だ。子ども扱いすんなよな!


 「ばあちゃん、よく見ろよ。この姉ちゃん、ばあちゃんと同じだろ」

 「あら、本当だ……そうね、タッちゃん、わたしとも話ができるんだもんねえ」


 ばあちゃんはユウコさんにごめんなさいね、なんて謝っている。おれたちの様子を見て、おやおや、なんてにこにこしてる人もいれば、不思議そうな顔をしてく人もいる――笑ってるのはお盆に帰ってきたヒトで、不思議そうにしてるのは生きてる人だ(おれがデカいひとり言を言ってるように見えてるに違いない)。


 たまにおれみたいに霊感がある人もいるみたいだけど、そういう人はわざわざこっちに注意しない。でも、基本的には誰が生きてて誰がそうじゃないのかなんて、例によっておれにはいまいち見分けがつかなかった。いつものことだから今さらではあるんだけど、たくさん人がいるように見えるこの道で、生きてその場にいるのはどうやらおれが思っていた半分以下の人数らしかった。


 だから、橋のたもとでうずくまってるその子を見つけたときも、おれはつい話しかけてしまったんだ。


 幼稚園くらいの、小さい男の子だった。うずくまって、なんだか苦しそうにむせてる。周りに親らしい人はいない――というか、この橋の辺りまで来ると、人通りそのものがだいぶ少なくなってくる。生きてる人も、そうじゃない人も。


 「タッちゃん! 」


 ってユウコさんがなんか言おうとしてたけど、手遅れだった。おれはもうその子の肩を叩いてしまっていたんだ。


 「どうしたの? 大丈夫か? 」


 その子はぐるっとおれの方を振り向いた。その拍子に、おれの顔にピシャッと水滴が飛んだ――よく見れば、頭から爪先までずぶ濡れなんだ。まるで、川の中に落っこちたみたいに。


 「くるしい」


 その子は、聞き取りにくい声でおれに向かって言った。ゴボゴボって、胸の奥からする音が混ざってるんだ。何か言うたびに、口から水がぼたぼた落ちる。


 ああ、またやっちまった! 小さな、氷みたいに冷たい手に腕を掴まれながら、おれは頭のどこかで考えていた。この子、〈いないヒト〉だ!


 「こわい」


 子どもは、すごい力でおれを橋のたもとにある柵の向こうへ引っ張ろうとしはじめた。怖い? おれのセリフだっつーの!


 「よせって! やめろよ! 」


 おれは頑張って足を踏ん張ったけど、手すりを乗りこえた上半身が下に引っ張られるもんだから腕と腹がちぎれそうに痛んだ。息ができない――まずい。このままじゃ、川に落ちなくても死んじまうかも……。


 いつも通りだったら、本当にそうなっていたかもしれない。でも今年は、ユウコさんがおれと一緒にいた。


 「やめなさい、坊や」


 ユウコさんはおれの腕を掴んでいた子どもの手を取って、ひょいって感じでその子を抱き上げた。おれはよろよろしながら尻もちをついた。あっちこっち痛いけど、生きてる。いや、生きてるから痛いんだ。


 子どもはびっくりしたみたいで、目を丸くしてユウコさんを見つめた。ユウコさんは、このくらいの子どもの世話をし慣れた手つきで、子どもをあやしはじめた。優しく背中をとん、とん、って叩く。すると、子どもはぐずぐず泣きながらユウコさんにぎゅっとしがみついた。


 ユウコさんは、トモちゃんのことを思い出していたのかもしれない。子守歌を歌ってやるような優しい声で、静かに話しかけた。


 「坊や、まだ生きている人を連れて行こうとしちゃだめよ。そんなことをしたら、坊やが辛くなるだけだからね」

 「おれ寂しかったんだもん! 」


 子どもはそう言ってぐずりはじめた。さっきまであんなに苦しそうに喋ってたのに、だんだん普通に聞こえるような声になってきていた。


 「手を引っ張らなきゃ、誰もおれに気づいてくんないんだもん……お母さんも、もうおれのこといらないんだ……」

 「そうかなあ……」


 ユウコさんは柵の向こう側に目を向けた。普通に道を歩いてるんじゃ分からないけど、そこにはきれいな花束とお菓子がそっと置いてあった。


 「あれ、坊やのお父さんとお母さんが置いてってくれたんじゃないの? 」


 ユウコさんが尋ねると、子どもはうん、って頷いた。


 「お母さん、って呼ぶんだ。……でも、いつも帰っちゃう。お父さんも」

 「それはね、坊やのこと嫌いになったんじゃないのよ。お母さんにも、お父さんにも、坊やのこと見えなくなってしまっただけなの。……お母さんがどんな気持ちでお花を置いていくか、本当は分かってるんでしょ? 」

 「うん……」


 子どもはすっかり落ち着いて、大人しくなった。そして、ぽつりぽつりとおれたちに話した。


 「川は危ないからひとりで行っちゃだめって、言われてたんだ。でも、おれ守らなかった。お父さんとお母さんが来て、あ、叱られるって思ったけど、もうおれのこと気づかなくなってた……約束守らなかったから、怒ってるんだと思った。でも、本当は――おれ、死んじゃったんだ」

 「坊やがこのお兄ちゃんを連れて行ったら、坊やのお母さん喜ぶかしら? 」

 「………ううん」

 「このお兄ちゃんのお母さんも、悲しい気持ちになると思わない? 」


 子どもは頷いたけど、まだ泣いていた。


 「……でもおれ、ひとりでここにいるの嫌だったんだもん」

 「それなら、もうここにいなくてもいいじゃない。わたしと一緒に、いればいいから――わたしも、死んじゃったんだもの。ひとり、なんだもの」

 「うん」


 子どもは、やっと涙を拭った。そして、ユウコさんに下へおろしてもらって、おれを見上げた。


 「お兄ちゃん、ごめんね。おれ、嬉しくて――死んじゃってから、お兄ちゃんが初めて声をかけてくれたから」

 「そっか。……もう、他のやつに同じことすんなよ」


 男と男の約束だぜ。おれがそう言うと、子どもは


 「おう」


 ってちっこい胸を張った。


 神社の方からは、まだ賑やかな音楽が何となく聞こえてくる、ユウコさんは子どもと手をつないで、心配そうな顔でおれに言った。


 「わたし、この子ともう一回お祭りに行ってくるわ。タッちゃん、ひとりで帰れる? 」

 「か、帰れるよ! 」


 おれはちょっとムキになって言った。正直に言うとちょっと膝が笑ってたんだけど、カッコつけるどころか助けられっぱなしで、これ以上手のかかるやつだなんて思われたくなかった――ぶっちゃけ、無理して意地を張るのって、素直でいるのよりよっぽど子どもっぽいって分かってはいるんだけど、一瞬だけでもプライドを守りたくなる瞬間ってのもあるもんだ。


 ユウコさんはそんなの全部お見通しみたいな顔でちょっと笑ったけど、何も言わなかった。


 「そう。それじゃ、気をつけて帰るのよ」

 「バイバイ、お兄ちゃん」


 子どもはユウコさんと手をつないで、おれの方を振り返ってにやっと笑った。コノヤロー、勝った気でいるんじゃねえぞ。


 おれはひとりで橋を渡り、そのままうちへ帰った。おれのうちからでも、まだぼんやり明るい縁日の様子が見える。ユウコさんも、あの橋のとこの子も。今日は少しは寂しくなかったかな、なんて思いながら、おれは遠目に神社の辺りを眺めた。

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