モトチョーの話

 おれたちは、昼間のうちに旧校舎に集まるようになった。校舎には鍵がかかってるし、毎回忘れものをでっちあげるわけにもいかないから、ユウコさんに校庭まで出てきてもらうんだ。初めて会ったのも一階の廊下だったけど、ユウコさんはどうやらその辺りでぼんやりしてることが多いらしくて、助かった。もし二階にいたら、外から大声出して呼ばなきゃならないところだった。


 「またあんたたちなの」


 〈ユーレイ探し〉の次の日、おれが廊下に立ってるユウコさんを見つけて合図すると、ユウコさんは呆れながらも壁をすり抜けてきてくれた。


 「今度はなに? 最近の子は、昼間にも肝試しをするの? 」

 「違うよ……おれたち、〈トモちゃん〉を探すのを手伝おうと思って」


 最初こそ、そんなの無理よ、なんてノリ気じゃなかったユウコさんだったけど、おれたちのことを追い払ったりはしなかった。話してるうちに何か思い出すかもしれないっていうおれたちの意見に一理あると思ったのかもしれないし、もともと弟のいる姉さんだったから、宿題を見てくれたりして、おれたちのことを可愛がってくれたんだ。


 実際にユウコさんと直接話ができるのはおれだけだったんだけど、慣れてしまえば大して不便じゃなかった。校庭にはおれたちの他に遊びに来てるやつらもいたけど、傍目には三人に見えるおれたちのすぐそばに四人目がいるのに気づかれたことは一度もなかった。


 そんなある日、おれたちは夏休みがはじまってから初めてモトチョー先生に会った。


 「やあ、君たち。暑いねえ」


 モトチョーはにこにこしながら話しかけてきた。〈モトチョー〉っていうのは〈元校長先生〉の略で、今の校長先生の前に校長先生だった三隅みすみ先生のことだ。おれたちにしてみれば優しいじいちゃんって感じ。現役じゃなくなってからもちょくちょく学校に顔を出して、放課後のちょうど小腹が減った時間に小さいおにぎりやお菓子なんかをくれるから、みんなに好かれていた。おれや勝が入学したときからモトチョーって呼ばれてて、三隅先生なんて呼ぶのは先生たちだけだった。


 モトチョーは新校舎に続く階段に腰かけて話していたおれたちに一個ずつ飴をくれた。塩飴、スイカ味。


 「熱中症には気をつけるんだぞ」


 モトチョーにも、ユウコさんは見えないらしい。他のやつらにも声をかけに行くちょっと丸まった背中を見送りながら、おれは不思議だった。


 「どうしたのかな、モトチョー。学校休みなのに」

 「あの人、よく来るわよ」


 とユウコさんが言った。


 「庭を歩いてるの、よく見かけるわ」

 「庭? 旧校舎の? モトチョーが? 」


 勝がさっそく飴を頬張りながら言った。


 「でも、放課後の旧校舎なんて、誰もいねえだろ? 」

 「勝って、モトチョーが僕らにお菓子配るために来てると思ってるよね」


 大夢が呆れて言った。勝は譲らなかった。


 「だって、他になんだよ? もう校長先生じゃないんだから、学校に用事があるわけじゃないんだろ? 」

 「例の〈大楠〉に花束を供えてるのは、モトチョーなんじゃないかって話があるんだ」


 大夢はきらりと眼鏡のレンズを光らせた。勝はまたかコイツ、みたいな顔をした。


 「そんなこと言ったって、おまえもともとユウコさんがあの大楠で首吊ったと思ってたんだろ? それだって、違ってたじゃないか」

 「まあ、旧校舎の生徒だったっていうのは、間違いかもね」


 でも、まだユウコさんがどうやって幽霊になったのかは分からないしね、と大夢は言い返そうとしたかもしれないが、言わなかった。勝だったら言ってたと思うけど、大夢はデリカシーのあるやつなんだ。


 「ユウコさん、モトチョーが旧校舎の庭で何してるか、見たことある? 」


 おれは聞いてみた。でも、ユウコさんは首を振った。


 「さあ、そこまで注意して見てたわけじゃないから……あの人が前の校長先生っていうのだって、あんたたちの話で初めて知ったわ。普通の先生なのかと思ってたもの。でも、そうね……言われてみれば、ずいぶんおじいちゃんだもんね」

 「だって、おれたちのじいちゃんたちより年上っぽいもんな」


 勝が何気なく言った。あっ、と言ったのは大夢だった。


 「モトチョーくらいの年の人だったら、戦争中のこと知ってるかな? 」


 おれも勝も、はっとした。そう、ユウコさんが戦時中に亡くなったんだろうってことで、おれたちはあれから戦争中この辺りがどんな様子だったかを調べてたんだけど、一番知ってそうなおれたちのじいちゃんやばあちゃんからはあんまり有力な情報が得られなかったんだ。


 大夢はもともとよそで暮らしてたんだし、勝のうちのじいちゃんばあちゃんはみんな戦後の生まれだった。おれのうちは、戦中生まれのじいちゃんはちょっと前に死んじゃったし、ばあちゃんは小さい頃のことだからよく覚えてない、とのことだった。そりゃ、戦争終わった年に生まれたんだからそうなるよな。


 モトチョーがいくつなのか正確なところはよく分からなかったけど、多分おれのじいちゃんとばあちゃんのちょうど間、みたいな感じだろう。しばらくしてまた戻ってきたモトチョーに、おれたちは質問してみた。


 「戦争か……」


 モトチョーは遠い目をした。おれは言った。


 「おれたち、自分のじいちゃんたちに聞いてみたんですけど。みんな戦後生まれだったり、覚えてなかったりで……」

 「……そうか。もう、そんな時代になったんだねえ」


 モトチョーはそのままおれたちの近くに腰かけた。


 「とはいえ、わたしも戦争が終わったときは六つになったばかりでね。君たちの知りたいことを教えてあげられるかは分からないが……覚えていることと言ったら、とにかくひもじくてね。大人も子どももみんな、栄養が足りなくて痩せていた。そんな日ばかりじゃなかったはずなんだが、なんだかずっと、曇った寒い日が続いていたような気がするよ。日本が戦争をしていたからそんなふうだったんだときちんと知ったのは、学校へ上がってからだったね――わたしはね、もともと東京の人間なんだ。疎開のためにこの辺りにあった親戚の家でお世話になっていたんだが、それもどうしてなのか、まったく分かっていなかった。ただ、母が恋しくて毎晩泣いていたよ」

 「ソカイ? 」


 勝が首を傾げた。大夢がすかさず言った。


 「戦争中、空襲を避けて都会から田舎へ避難することだよ」


 モトチョーは頷いた。


 「その通り。わたしが住んでいた町には、よく戦闘機が飛んできてね……頭の上に、火のついた爆弾をバラ撒いていくんだ。学校ごとに集団で疎開する人もあったが、我が家はわたしがまだ学校に上がっていなかったからね。兄弟そろって田舎へ行くことになるというんで、最初ははしゃいでいたもんだ。もう怖い飛行機は来ない。カブト虫がたくさん採れる、山の方へ行くんだと言われてね……この辺りには確かに空襲はなかったし、都会に比べたらはるかに〈食べられるもの〉があったとは思うんだが、あんな時代はもう二度とごめんだね」

 「……モトチョーは、それでおれたちによくオヤツくれんの? 」


 勝がひっそりと言った。モトチョーは笑った。


 「そうだなあ、腹ペコの辛さはよく知っているからね。もうそんな時代じゃないことは分かっているんだが……でもね、君たちが楽しそうに遊びまわって、健康に、何の心配もしないで大きくなるのを見るのがわたしは本当に嬉しいんだよ」


 モトチョーはここまで話してくれたあと、それじゃあね、と帰っていった。おれはユウコさんを見た。何か思い出したかな?


 ユウコさんは何も言わず、じっと黙ってモトチョーを見送っていた。



 毎年この時期には、辺りにいつもより霊が増える。お盆だから、あちこちのご先祖さまが家に戻って来るんだ。うちにもひいじいちゃんたちが帰って来るし、小さいときに遊んでくれた近所のばあちゃんに久しぶりに会ったりする。ただ、みんな若い頃の姿になってたりして、新盆のじいちゃんやばあちゃんだと誰だか分からなかったりするんだけど。


 おれは毎年お盆が楽しみなんだけど、今年は特に、ひいじいちゃんに早く会いたかった。おれのひいじいちゃんは戦争へ行って、二十代で死んでしまったという人だ――いろいろ当時のことを教えてくれるに違いない。


 「元気だったか、辰彦たつひこ


 天ぷらを揚げているばあちゃんと母さんの邪魔にならないように人数分の皿を運んでいたら、さっきまでいなかったひいじいちゃんが茶の間でくつろいでいた。父さんが外で迎え火を焚いている――父さんは霊感が全然ないから、苧殻おがらを焚きはじめてすぐひいじいちゃんが帰ってきてるなんて思ってないだろうけど。


 ひいじいちゃんなんていったって、見かけは父さんより若い。兵隊さんの格好をしてるから死んでから若返ったんじゃなくて、多分亡くなったときの格好のまんまなんだろう。おれとそっくりなタレ目なのに、きりっとした眉のせいかすごく男前に見える。おれも、いずれこんな感じになったらいいな。


 おれは机に皿を置いて、部屋の中を見回した。


 「ひいばあちゃんは? いつも一緒に帰ってくるじゃん」

 「咲子さきこは今年の春に新しく生まれたんだよ。今、おまえより年下だ」


 ひいじいちゃんはにこにこしながら言った。笑うと、ただでさえタレてる目尻がさらに下がる。


 「イギリスの女の子に生まれるといって、楽しそうだった――おれも、今度はイギリスにするかな」

 「へえ、お義母さんがイギリスに! 」


 縁側のすだれの影からじいちゃんが入ってきて、おれたちに挨拶した。じいちゃんも若い姿で帰ってくるから、ひいじいちゃんと並んでると大学生の友達同士みたいだ。じいちゃんは生きてるときにひいじいちゃんと会ったことはないけど、お盆に帰ってくると仲よく酒を飲んでたりする。毎年最初は


 「お義父さん、ご無沙汰してます」

 「君にお義父さんと呼ばれる筋合いはない! 」


 とかふたりでふざけてるんだけど。


 「父さん、じいちゃんたち帰って来たよ」


 おれは苧殻の煙にまかれてむせている父さんに声をかけた。父さんは縁側を上がってきて、おれの指す方に向かって頭を下げた。


 「ようこそお戻りくださいました。何のお構いもできませんが、どうぞごゆっくりくつろいでいらしてください」

 「やあ文夫ふみおくん、そんなに固くなることないよ。毎年のことじゃないか」


 ひいじいちゃんは楽しそうに言うけど、父さんには聞こえてない。父さんも大変だな――このうちで、じいちゃんたちが見えないのは父さんだけだもの。


 「なあなあ辰彦、芳江よしえ輝美てるみは? 」


 じいちゃんがおれに聞いた。芳江っていうのはひいじいちゃんの娘――つまり、おれのばあちゃんだ。輝美は、母さん。生きてこのうちにいたときは結構厳しいじいちゃんだったのに、若いとき、というか、本当はこんな感じだったんだなあと、おれはこの時期になると思う。


 ふたりとも台所で天ぷら揚げてるよ、とおれが言うと、じいちゃんはそわそわと台所へ行ってしまった。すぐに台所の方から


 「あらお父さん! おかえりなさい」


 なんて聞こえてくる。身の置きどころがいまいちない父さんは蚊取り線香をつけたあと、全員が食卓に落ち着くまで箸や醤油さしや、おはぎの皿を運ぶことにしたらしい。そっちは父さんに任せて、おれはひいじいちゃんに話を聞いてみることにした。


 「あのさ、ひいじいちゃんって、戦争に行ったんでしょ? 」

 「うん、召集されてしまったからね」


 ひいじいちゃんはおれが出した冷たい麦茶の茶碗から影みたいな茶碗を引っ張り出して、そっちでお茶を飲んだ。これも、見慣れた光景だ。茶碗の幽体離脱みたいな感じで、本物のお茶は全然減らないけど、ひいじいちゃん的にはそれで満足できるらしい。


 「今にして思えばもう終戦間近だったんだなあ、あの頃は……召集令状というのが、ある日突然届くんだ。赤い紙だったから赤紙と呼んでいたんだよ」

 「――嫌だった? 」

 「咲子のお腹に芳江がいたからなあ。嫌だとは口が裂けても言えなかったが、あとに残していくのは本当に忍びなかった……咲子も芳江もおまえと同じ目をしていたから、それはずいぶんよかったよ。驚いたのなんの――自分が死んでみて初めて、咲子に死んだ人間が見えていると知ったんだ」

 「ひいばあちゃん、それまで黙ってたの? 」

 「ああ。まあ、おれは幽霊なんかいないと思っていたから、打ち明けられても信じてやれなかったかもしれないが……。帰ってはみたが見えないんだろうなと思っていたら、『まあ、あなた! 』なんて言うものだから、一瞬自分が本当に死んだのかどうか分からなくなったくらいだ」


 おれは聞いていいのか分からなかったが、思い切って尋ねてみた。


 「……ひいじいちゃんさ、自分がどうして死んじゃったのか覚えてる? 」

 「ああ、もちろん。忘れようがないさ」


 ひいじいちゃんは渋い顔をしたけど、それはおれの質問に対してじゃなかった。


 「餓死だ。飢え死にだよ……鉄砲の玉に当たって死ぬことは覚悟していたが、まさか食べるものがなくて力尽きることになるとは思ってもみなかった。撃たれて死ぬというのは、戦う相手と行き会わなければ起こらないことだ。だが、長いこと食べるものがなければ問答無用で死ぬしかない――南の方の島だったから、スコールが降れば水には困らなかったけどな」


 ひいじいちゃんは何か思い出したのか、ちょっと身震いした。


 「蛇をぶつ切りにして食ったりして何とか凌いではいたんだが、それも長くはもたなかった。そのうちに、よく分からん病気になることだってあったんだ。なんせ、日本とは何もかも違う場所だ。食っていいものと悪いものの区別がつかなくて、食あたりで死ぬやつもいた。しまいには行軍するどころか歩き続ける力もなく、ふらっと目を回してそのまま起き上がれなくなる……そうなったら、もうおしまいだ。おれもそこから先はよく覚えていない。気がついたら、このうちの玄関先に立っていたんだ」


 おれが神妙な顔をしてるのに気づいて、ひいじいちゃんは表情を和らげた。


 「なんだ、死んだときのことなんか聞いちゃ悪いと思ったか? おれは、いい人生だったと思っているんだよ――短い間だったが咲子と暮らせたし、幸い芳江とも話ができた。おまえと話ができるのも、思えばずいぶんな幸運だ。確かにあまりいい終わり方じゃなかったが、死ぬというのは生きていた証でもある。今ではみんないい思い出だ」


 ひいじいちゃんは朗らかに言いながら漂ってきた天ぷらの匂いを胸に吸い込んだ。


 死ぬというのは、生きていた証。おれはひいじいちゃんの言葉を噛みしめた。生きていたから、死んだ――それなのにユウコさんは、生きていたときのことも死んでしまったときのことも忘れちゃったなんて。


 おれがまだ深刻な顔をしていたので、ひいじいちゃんは不思議そうだった。


 「どうした、辰彦。今日は天ぷらだぞ。もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ」

 「……実はおれ、記憶喪失のヒトと知り合いになったんだ」


 おれはユウコさんのことをひいじいちゃんに話した。戦争中に亡くなって、今もおれたちの学校にいること。自分のことを思い出せないこと。〈トモちゃん〉を探していること……。


 「その姉さんは、弟の親代わりみたいなものだったのかもな」


 ひいじいちゃんは腕を組んだ。


 「あのときはな、そういう兄弟がごまんといたんだ――上の子が、下の子の親代わりをしてるような兄弟が……ひとつの家に生まれる子どもの数も多かったし、兄弟だけで疎開してきて、親がそばにいないなんてこともあったしな。ことによると、その感心な姉さんも、トモちゃんとこの辺りへ疎開してきたのかもしれないぞ」

 「ユウコさん、自分の名前も分からないっていうんだ……だから、なかなか事情が分からなくて」

 「そうか、それは気の毒だ……自分が呼ばれてることに気づかなければ、おれたちのように家に帰ることもできない。そのトモちゃんがもし生きていて、姉さんを手厚く供養していたとしても、姉さんの方じゃ何も知らないかもしれないな」


 そのとき父さんたちが天ぷらをたくさん乗せた大皿を運んできて、おれたちの話はそこまでになってしまった。


 ユウコさんは今もあの旧校舎にひとりでいるんだろうかと、おれは気になった。もうずっとそんなことの繰り返しよ、なんて本人は大して気にもしてないように言うんだろうけど。


 いつもより賑やかな食卓につきながら、おれは思った――もし七十年の間、周りの人間が誰ひとり自分に気づいてくれなかったら。誰も口を利いてくれなかったら。誰も、名前を呼んでくれなかったら――おれもきっと、いつか自分の名前を忘れてしまうだろう。そしてだんだんと、自分が誰だったのかも分からなくなってしまうんだ。だって、おれが〈葉山辰彦はやまたつひこ〉であることを必要としているのは、おれだけじゃないんだから。生きている限り、誰かの目に見えている限り、おれは誰かに名前を呼ばれ続け、誰かに必要とされる。


 七十年の間、みんなから無視される。いないものにされる。なかったことにされる……それって、悲しいどころの話じゃないんじゃないだろうか。

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