第2話 ぼくをマッツと呼ぶ女

 大学生になって東京に出て来て住んだ最初の家の最寄り駅――。

 いまは高架になってしまったけれど、そのころ、その駅はまだ地上駅だった。しかも、駅舎の一部に木造の部分が残っていて、「これが東京の駅なのか」と思うほどのんびりしたレトロな駅だった。

 東京に住み始めてひと月ほど経ったころ、ぼくはその駅の出口で声をかけられた。

 「お? マッツ? マッツじゃん! やっぱりマッツじゃん!」

 「マッツって何?」

 ぼくはで反応していた。

 反応してから気づく。

 その反応をして通じる相手が、ここにいるわけがない。だから、偶然、ぼくの昔のあだ名と同じあだ名の人間がいたのだろう。

 「うわっ! すごい偶然っ! ひさしぶり? 元気だった? ねえ、元気だったぁ?」

 何? その人なつこさ。

 というより、なれなれしさ!

 「はいっ?」

 二つの黒い目でぼくを正面から見、そう言いながら直線的に接近して来たのは、レザーのジャケットに白いスラックスを穿き、白い革の小さいバッグをぶらぶらさせた小柄な女だ。かっこいいとも、フェミニンとも、ボーイッシュとも言いかねる、「自分をかっこよく見せたいんだろうな」感満載の女だ。

 顔のお肌はざらざらで、髪はぼさっとしている。

 歳は、その服装や身のこなしからは歳上に、でも体の小さい印象からは歳下に見えた。だから、ぼくと同じくらいの歳なのだろう、ととりあえず判断する。

 でも、とりあえず、心当たりは、ない。

 しかし、その子の顔を凝視ぎょうしすること五秒ぐらい、そのまぶたの線の波打ちかたと、口を閉じたときに唇の端に残る、なんとなく「まだものをいい足りない」という表情が、ぼくの記憶とその女をつないだ。

 「え? 淳子じゅんこ?」

 「そうだよお!」

 偉そうだ。

 昔のとおりだ。

 「ねえねえ。なんでマッツがこんなところにいるの?」

 「いや、だから、マッツって何?」

 迷惑そうに言う。

 「こいつがこんなところにいるわけがない」という感覚はまだ続いている。

 しかし、ぼくを「マッツ」と呼ぶ人間はほかにはいない。

 ぼくの名前は坂井さかい貞郎さだお。どこにも「マッツ」と呼ばれる「筋合い」というものがない。

 何の根拠もなくぼくの苗字みょうじを「松井まつい」だと思いこんでいた、そいつを除けば。

 そいつの名は大山おおやま淳子といった。

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